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多分知らないはずである。
ローマ法王はイエス・キリストが神であると答えるかもしれません。
しかしそれは明らかに間違いである。
なぜならイエス・キリストは神ではなく、神の子でもなく、ただのペテン師だからである。
あるいはローマ法王はエホバが神であると答えるかもしれません。
しかしそれも明らかに間違いである。
なぜならエホバは神ではなくエホバの証人たちことだからである。
おそらくローマ法王は神が万物の根源、宇宙の法則、つまりアルケーであるってことさえ理解していないのではないだろーか?

A 回答 (12件中1~10件)

神とアルケーは最早別のものではないでしょうか?



神を信じている人達の神とは 理想の存在 実際にはない絶対の存在でしょうから。

アルケーは哲学発祥では?
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この回答へのお礼

アルケーは哲学であり、真理である。

お礼日時:2019/10/10 19:06

この世は物質と精神で構成されています。

もし、この世は物質のみで構成されているとしたら、私は何も感じないでしょう。

熱いとか赤いと感じている主体が私です。熱いとか赤いと言う感じは、幾ら高性能な顕微鏡で脳の中を覗いても見えません。物質が、熱いや赤いに対応する動きをしているのが見えるだけです。
その動きの刺激を受けて、精神である私が熱いとか赤いと感じているのです。
熱いや赤いは物質ではないので、それを感じている私も物質ではありません。私は、無限の感受性である精神です。

物質の全体を宇宙と言います。質問者さん、それでは「精神の全体」を何と呼んだら良いでしょうか。

そして、この世の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果が原因となり更に結果を生じると言う形になります。
従って、宇宙の始まりは原因なくして結果を生じなければなりません。つまり、無から有を生じなければなりません。しかし、それは不可能です。

一方、精神は物質を動かすことが出来ます。精神である私は物質である手を動かすことが出来ます。ですから、宇宙の始まりにおいて最初に動いたものは、「原因から自由な精神」以外にはありません。

質問者さん、この「宇宙を創造した精神」を何と呼んだら良いでしょうか?

 ユダヤ教・キリスト教では、外界は神が創造したと信じます。
 ここに物が落ちたのは、ここに落ちるように、宇宙が作られているからであると考えます。そして、どうしてここに落ちたのかを追求し、 物体は外から力が加わらなければ、そのまま飛び出した方向へ等速運動を続けるが、落下距離は時間の2乗に比例する為、 放物線を描いて地上に落下し、ここに落ちたことを発見します。
 宇宙で起る全てのことは、必然であり意図されたものであると考えます。ですから、一見偶然に思える事柄に対しても、 必然であると確信し、その仕組みを解明しようとします。
 ある天才は、「神はサイコロを振らない。」と言いました。 これは、現象を確率で説明しようとする態度に対して、必然な説明をしなければならないと批判したものです。
 この様に、西洋では神が宇宙を創造したと言う確信により、自然科学は発達して来ました。

 それに比べて、東洋では仏が宇宙を作ったとは考えません。精神の中に仏が存在していると考え、内心の仏を追求します。
 宇宙は偶然出来たと考えます。物は色んな所に落ちます。物がここに落ちたのは偶然だと考えては、 落下の法則や万有引力の法則は思いつかないでしょう。
 無神論も同様です。ハッキリと必然と分ること意外は偶然であると考えたのでは、人に先駆けて新しいものを発見することは出来ません。


 神を持ち出すと、単純に非科学的であると非難する方が居られます。しかし、科学で全ての現象を説明出来るでしょうか。
 第一、物質の因果関係のみでは、宇宙の始まりを説明することは出来ません。 物質の因果関係は、原因→結果=原因→結果=原因→結果・・・と続きます。原因があり、その為に結果が生じ、 その結果が原因となり次の結果が生じると言う順番となります。
 しかし、これでは最初の原因が存在出来ません。その最初の原因は、何らかの原因により生じなければなりませんが、それがありません。 物質のみでは、宇宙の始まりを説明できないのは自明のことです。

 また、コインのゲームを考えて見ます。コインを縦に立て、倒れて表が出れば私が勝ち、裏が出れば貴方が勝ちます。 科学では、このゲームで私が勝つ確率は50%、負ける確率も50%としか言えません。 しかし、現実にはどちらかが勝ち、掛け金を全て手に入れます。それを決めるのは何でしょうか。
 これと同じことは、素粒子レベルでは無数に起っています。完全に均衡している状態で、僅かな力が加わり少しの不均衡が生じると、 不均衡が不均衡を呼び次第に大きくなり、終にはコインは倒れます。

 確率は50%ですが、ほんの僅かな力が加わることで、表が出たり裏が出たりする。その為に、ある者は人生で成功し、ある者は失敗する。 その僅かな力が精神である可能性はあります。

 精神である私は、物質である手を動かすことが出来ます。肉体は動かすか動かさないかで物的に均衡した状態にあります。 ほんの僅かな精神の力を、物的に均衡した物質(脳)に加えることにより、手は動いたり動かなかったりします。 この様に、精神は物質を動かすことが出来ます。

 単なる偶然の連続で、この宇宙は進行しているのでしょうか。それとも、何らかの意図があり、僅かな精神の力が加えられているのでしょうか。

正しい知識を得るには、全てのものを疑うことの出来ない自明なものなのか否か問いかけることが必要です。 デカルトは、この方法的懐疑により、全ての知識を自明なものか否か検証して見ました。
 その結果、自明なことは唯一つしかないことが判明しました。それは、全てのものを疑っている自分が存在することだけは 疑うことが出来ないと言うことでした。 「我思う故に我あり。」です。それ以外は、正しいと思ってはいたが、そう思っていただけであることが分りました。 これが「無知の知」です。

 しかし、自明なものしか信じないのであれば、そこまでです。そこから先は、何を信じるかによります。
 心は、その中に宇宙を作り出しています。私たちが感じている宇宙は、心の外の宇宙ではありません。心が作り出した宇宙です。 心の外を覗くことは不可能です。心の外に、宇宙があるのかどうかも分りません。
 しかし、心は外界に似せて、心の中に世界を作り出しているのです。心の中では、1+1=0でも、1でも3でも何でも構いません。 心の中に在るものは、消えたり生じたりします。従って1つと1つ在ったものが消え去り0となっても良いし、 新しく生じて3になっても良いのです。決して増えもせず減りもしないと前提して、1+1=2としなければならない必要はありません。

 しかし、外界では、無から有は生じませんし、有が消滅して無となることもありません。エネルギー保存の法則が成立します。 従って、1+1=2でなくてはなりません。
 心が1+1=2に制約されている事実は、心の中の世界は、外界に出来る限り似せて作られていることを証明しています。 外界に1+1=3を適用すると、その行動は誤りであり、失敗するからです。
 従って、外界には、心で感じている様な世界が存在することを前提とせざるを得ません。

 宇宙の仕組みを完全に解明した時、物質だけでは説明出来ないことが残されたら、神の存在を証明したことになります。  この様に、宗教は全く科学的な態度であると言えます。
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この回答へのお礼

「万物の根源、宇宙の法則、アルケー」について、

https://www.youtube.com/watch?v=O40j4PqRJWk

お礼日時:2019/10/06 08:54

神を感じていらっしゃると思うぞ。

知る必要はないわけだし。
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私が全知全能の神です。


たぶん
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そんなにみんなが知らないことをしっているなら


もしかして、あなたが全知全能の神なのでは?
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多分知らないはずである。


 ↑
知っていますよ。
「金と権力が神である」




イエス・キリストは神ではなく、神の子でもなく、
ただのペテン師だからである。
 ↑
2千年前の麻原 彰晃です。



おそらくローマ法王は神が万物の根源、宇宙の法則、
つまりアルケーであるってことさえ理解していないのではないだろーか?
  ↑
それでは儲けになりません。
人格神でないと、人々は納得しません。
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赤子や幼児なら だれでも――その意識にのぼっていませんが――


あたかも神のことを知っています。

聖なる甘えを生きています。

そのあと ものごころがつくと 人は心なる自由意志に 心にさか
らってウソをつきイツハリをおかすという自由度もがあると知って
これを《活用》します。

そうすると 聖なる甘えは おそれに変わります。

アマエは 薄く薄くなって行きます。




ただし 生まれつきそなわった自然本性は 海のごとくであり海面
に立った波風に左右されることはなく ウソ・イツハリやそのやま
しさと恥ぢとを それなりに治めています。

自然本性の――つまり赤子と共通の人間性の――落ち着きにあって
おそれは きよらかなおそれとして いだかれて行きます。

これが 《信じる》という動態です。巡礼の旅路をあゆむ姿にも似
た人生という道程です。



これが いっぽんの樅の木です。《われは われなり》という自己
同一性なる樅の木本体です。




人びとは 時流に棹差しファッションに敏感なようで この樅の木
にいろんなデコレーションをほどこします。クリスマスツリーが出
来上がって行きます。


《アルケー》とも呼びうる樅の木一本のみでよかったものを です。



ローマ法王は どうなのかって? ――知らんがな そんなもの。
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神と精霊と御子とにアーメン。

三位一体です。

イエス・クリストは、神だなんて言っていないです。神の子とは、人間すべてが神の子。エホバが神だなて言ってるのは、エホバの証人の人らだけ。

日本のキリスト教信者さんらは、どちらかというと狂信的な信者さんが多いです。ローマ法王フランシスコが、経済的に最悪状態のキューバに行き、若者、尼僧さんらから、何とかしてほしいと、直訴、そこで、神とイエス・クリストについてわかりやすい言葉で説明しています。生放送だったので、世界中に向けて放映。機会があれば、お聞きになれば、ここに書かれたような誤解はなくります。
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最近、自分が知ったことを


みなさん知らないと思って
びっくりして書いているようですね

誰でも理解していることですよ

ましてやローマ法王ならなおのこと

最後に
間違えているのがいいですね
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アルケーでは無いって事を知ってるだけです

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