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生きていくため、己を殺し続ける仕事は
一秒毎に魂がむしり取られ続け、死を想い、
自分の魂が喜び踊る行いを仕事としてと考えれば
夢物語でしかないようで追い詰められた心境です。

みんなそれでも生きていくため、生活の手段として
苦痛でしかない仕事を続けてるんだから甘ったれるな。
仕事というのはそういうものだ。

という視点からのアプローチは足りているため、
別の視点の方の意見が今回はお聞きしたいです。

この世の地獄を継続させるか、現実逃避かもしれない
夢物語を探すのか、これも現実逃避である死を選ぶか。
選択肢はこれらしか思い浮かびません。
どうか教えて下さい。
またはこれ以外に選択肢はありますでしょうか?

20代前半 男

A 回答 (13件中1~10件)

50代兼業主婦です。



適性のない仕事を無理に続ける必要はないのでは?
会社にとってもご質問者様にとっても、それは「損」です。

合う仕事が見つかるまで放浪するのも良いと思いますよ。
まだまだお若いのですから、自分自身で自分を知らないということも考えられます。
他人に何と言われようと、ご自身が求める道を行って下さい。

ただし「死なずに」ですよ。いいですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私の父も同じようなこと
を言ってくれました。

自分の中でのメインの考えは
bun-bunbunさんが
おっしゃってくれていることなんですが、
色んな方向からの刺激が欲しいのもあり
今回質問させて頂きました。

お礼日時:2004/12/25 13:40

僕は今の仕事は楽しいですけど、嫌になるときもあります。

一応自分を殺して仕事をしています。そうでないと衝突が多いからです。自分を殺して他人の話をよく聞いているとその人の言いたいことがよくわかって面白いと思うこともあります。自分を殺してさめた目で人を見る、これらが僕のスタンスでした。でも、最近、宴会などのときの盛り上げ役をしてほしいと上司から言われました。盛り上げ役などをやっていては他人をじっくり観察できません。僕も不得意とすることで断りました。果たしてそれが通るか、今、不安な面白い局面に来ています。その成り行きをじっくり観察しつつ、自分にできる手を打って、冷静に対処するつもりです。それは自分の人生を造る事であり、芸術だと思います。
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この回答へのお礼

勝手ながら、
自分に一番近いタイプの方と感じました。

その場にいながらも場から
かい離しているような。
感情のない冷静な第三者の目が
対応してくれている。
私の場合ですが。

お礼日時:2004/12/25 13:55

あの~、別に仕事を夢の為の手段として位置付けてもいいのでは?



まず、自分が望む仕事だって、苦労はあるでしょう。
>みんなそれでも生きていくため、
>生活の手段として
>苦痛でしかない仕事を続けてるんだから
>甘ったれるな。
>仕事というのはそういうものだ。
でも、本当に仕事って「苦痛でしかない」の?

また「平凡な生活」だって、望めば夢でしょう。
ただ、夢と逃げの区別が付きにくいのが問題かと。
夢を追うと称して現実から逃げるとか、
現実的な選択と称して夢を追う事をあきらめるとか・・・。


けれども・・・。
苦痛の仕事を続けようが、夢を追い続けようが、
夢が見つかるまでは何らかの生きる努力(仕事?)が必要で、
苦痛が続くのは変わらないと思いますが如何でしょうか。

最後に「現実逃避」ですが、望めば実現できるとは限りません。
直ぐに現実に引き戻されたり、前よりも更に悪い状況になったりと・・・。
なにより、「現実逃避」の先にはいったい何があるのやら・・・。
(上記記述で察して頂けたら幸いです。)
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この回答へのお礼

想像力と共感性の大切さを改めて知りました。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2004/12/25 13:44

 もう少し書いてみます。

むかしあるところにタイさんという体は丈夫ですが自分では何も考えられない人が住んでいました.そしてタイさんの家にはノウさんという頭は働くが自分は動くことができない人が同居していました。タイさんは毎日ノウさんの指示にしたがって外で働いてきます.タイさんは終日外で働いて帰宅するとノウさんの食事のしたくから排便の世話までやりますからオナカが減ってたまりません.場合によってはノウさんの分まで食べようとします.ノウさんは怒ります.「一体誰の御かげで飯が食えると思っているのか。おまえに飯を食わせるために俺は頭を使うのはいやだ!」と言ってある日ノウさんは自分の好きな空想に耽ることに決めたそうです。
・・・ まもなく二人の餓死死体が近所の人によって発見されたということです.
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この回答へのお礼

面白い話をまたありがとうございます。
養老孟司のような世界ですね。

お礼日時:2004/12/25 13:26

世の中に仕事はたくさんあります。


だから他にも選択肢はたくさんあると思いますが・・・。

なかなか見つからないなら、自分で妥協点を決めましょう。
絶対ゆずれない部分から選んでいけばよいのです。

極論をお求めなら、
私は当然のように夢を目標に、(現実に難しいなら)夢に関係があって、なおかつ現実的に夢を追いかけながらできる仕事をします。
最終的には夢で食べていく目標です。

この回答への補足

書き方が悪かったようで、皆さんに
夢を取るか・現実を取るかのような
イメージを与えてしまったようです。

皆さんの回答を読みながら気付きましたが、
具体的な夢があるわけではなく、
自分に適性のないと思われる仕事でも
仕事なのだからと耐えて継続すべきなのか
それとも、あるかわからない希望を求め
別の道を模索するか という感じです。

自分の中では後者に行きたい気持ちですが、
皆さんの経験談・アドバイス等も
参考にしたいです。よろしくお願いします。

補足日時:2004/12/24 10:05
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忍びの者の生き方をイメージされてはどうでしょうか。

あと、この前、NHKで放送されていたのですが、「最後の忠臣蔵」という時代劇がありました。その主役、上川隆也が演じた「寺坂吉右衛門」の生き方も参考になると思います。
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この回答へのお礼

忍びの生き方ですか。
個人的感情を殺し尽くして
働くというのも好きです。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2004/12/25 12:58

この意見はあるのかな。

自分でも確定できないので判断してもらいたいです。

人を初め生命は、自然界の法則、人によれば宇宙の法則だとか、まあ色々と言い方はありますが、現実に沿って生きています。そして現実に沿って死にます。

現実に沿うとはどういうことかというと、人が生きるという例では、人は生きる上でこの3つは欠かせません。
 1.食べること
 2.眠ること
 3.危険から回避すること
この3つが常に達成できているから生きることができているのです。これは当たり前のことです。だから、現実に沿うということは当たり前のこと、つじつまが合うことです。

仕事だけでなくあらゆることが現実に沿う形になります。しかし、想像をしたとき必ずしも沿っているというわけではありません。

例えば、自分の家からどこかへ行くとき、車が走る場所を通るとします。普段は車が飛び出してひかれることはありませんが、たまたまひかれることはあります。普通はそのたまたまを考えもしないでしょう。それが自分の思い通りにならない原因です。

ーーーーーーーーーー
質問の回答です。
現実に沿い、なおかつ、自分が魂が喜び踊る行いを仕事を見つけることができれば新しい選択またの1つではないかなと思います。
ーーーーーーーー
しかし、現実に沿って予測(想像)することは不可能です。それはその法則が解明されていないからです。なぜ、人は死ぬのか?それも科学的に証明されていないでしょう。心臓が止まり、脳の細胞に酸素が行き渡らなくなり、死ぬ。なぜ細胞には酸素が必要なのか・・・とかなり続くと思います。

想像もしなかったことが起きると所詮、夢物語かと思うのでしょう。僕も何度経験したことか。

人生は自分が納得して生きれれば幸せと感じるはず、でも何をすれば納得できて、何をすれば幸せと感じるのか?それを見つけるのが大変です。

よく若者が(という僕も若者なんですけど)やりたい仕事が見つからないといいます。そのやりたい仕事を見つけるのがどれほど難しいことか、しかし、現実に沿って生きてきた人なら簡単に見つけることができるでしょう。

ですが、親のふところで夢物語のアニメや漫画、映画から影響を受けて育ってきた人が現実に沿った考えができるか?答えはNoでしょう。(ちなみにこれ僕のこと)

人はこだわりを捨てあるがままの現実を受け入れることができたらけっして悩むことなく生きていけると思います。

しかし、こだわりを捨てるのはなかなかできません。だから苦しんだり辛かたったりするものだと思います。

生きるということは現実を頭や心が受け入れない受け入れる関わらずに現実に沿うということです。それは時に苦しく、時に辛く、時に楽しく、時に快感だったり。

つまり、現実をことごとく受け入れることができないのであれば「死」という選択もあるかと思います。それが良いか悪かは僕には解りません。

ここまでくると「人はなんだー」と僕は思います。答えは「さあね」です。この世の生命、物の1つであることに違いない。ゆえに現実に沿わされるこれは永遠に変わらないと思います。

現実に沿うと1つの考えとして「己の力量を知る」というものがあります。己(自分)の力量(能力)を自分で知らない(解っていない)と自分でできることより上のことに手を出し失敗します。自分の力量より下なら損をします。

自分を成長させるということはこの力量を上げるといこうとです。

もし、叶うのが難しい夢を追うのであれば、自分の想像は現実に沿うことはまずありません。自分の本当にしたい「核・思い」を抱き、常にそれを叶うように努め続けることです。それは苦しく辛いものだと思います。そして、その「核」がありえないことだったと気付くかもしれません。その「核」がありえることでも自分にはできないことだと気付くかもしれません。だとしてもそれを覚悟して夢を追いましょう。

あらゆる絶望、あらゆる困難、あらゆる苦しみ、あらゆる辛さ、そのたあらゆる苦痛を覚悟して自分の夢を追うことです。人生そのものが失敗になるかもしれない、それを覚悟した上で夢を追いましょう。

そんな覚悟が無い人は途中で苦しくなったら尻尾を巻いて逃げるだけです(ちなみにこれ僕のことです)。ハイリスク、ハイリターンです。

個人的な思いとしては、魂が喜び踊る行いを仕事が見つけられなくてもそれ以外の時間で魂が喜び踊る行いを見つけて活きて欲しいと思います。生きるのも自由、死ぬのも自由、自由はいい結果と悪い結果の責任を負う。でも、活きる強さを見たときは胸にぐっとくるものがあります。(僕はプロジェクトXがけっこう好きです。)これからの選択がいい結果となるようにがんばってください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2004/12/25 12:54

生きていくためにつまらない仕事をし続けるのも、夢を追いかけてぎりぎりの生活をするのも自由です。



どっちをとっても、それでよかったと思うのも、やっぱりあっちの方がよかったと泣くのも結局エンディングを迎えるまではわかりません(どっちをとってもサクセスストーリーになるかもしれませんし、だめだこりゃストーリーになるかもしれません)。

私は総合的に充実した生活を迎えることが出来る方を選ばれた方がいいと思います。

回答になっていませんが、自由に責任は常について回りますのでそのこともお忘れないようにしてください。

ついでに、地獄だと思っていたことでも何かのきっかけで変わるかもしれませんし、夢を追いかけていたつもりが地獄を捕まえたという事もある事をお忘れなく。
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この回答へのお礼

そうですね。
最初にそうだと思っていたことも
常に変化し続け、
どう動いていくかわからないものです。
ありがとうございます。

お礼日時:2004/12/24 09:56

「好き」と「嫌い」は双子の兄弟なんです。



例えば「花」を愛する人は、雑草や害虫を嫌います。
花が好きであればあるほど、雑草や害虫を平気で抹殺します。

これが極まったのがドイツのナチス(ヒットラー)です。
ダーウィンの優生論を信奉して、ドイツ人の純粋な血と尊厳を守るために、精神病患者や障害者への強制不妊手術や安楽死を行ったんです。そして征服とユダヤ人排斥に繋がっていくんです。

ドイツ民族を「愛する心」のために、
人類史に残る悪魔的行為になってしまったんです。

ですから「好き」と「嫌い」は双子の兄弟なので、
両方とも「患い(わずらい)の心」なんです。
どちらか一方捨てるということは出来ないんです。
仲の良い兄弟ですから、いつも一緒に居るからです。


で、仏教ではこの好き嫌いの分別を超えてしまえと教えるんです。
執着を捨てろということです。

私達が感じ、信じているのは心を狂わせる「患いの妄想」でしかないので、それに気づいて、妄想に対する執着「妄執」を捨てなさいということです。

「気づきなさい!」
「目覚めなさい!(仏陀となりなさい)」ということです。
(仏陀とは目覚めた人という意味です)

妄想に囚われずに、ものごとを正しく見なさい。
正しく聞きなさい。正しく行動しなさいということです。





「手を叩く、鯉は餌と聞き、鳥は逃げ、女中は茶と聞く・・」という短歌があります。

私達は物事に勝手に気持ちを投影しているということであって、真実を正しく見聞できていないという意味です。妄想の世界の住人だということです。一人、一人が違う妄想を見ているんです。

「俺は絶対に!」と思っているのは、妄想に執着しているだけなんです。
妄想を手に入れても、決して満足できません。
だって自分で勝手に創りあげている世界なんですから。。。


で、仏教は<< 平常心 >>を養いなさいと教えるんです。
平常心があればものごとを正しく見聞でき、正しく行動できます。
そこには後悔も、我慢もありません。

とても楽で、とても楽しい世界「涅槃」があるだけなんです。

http://security.okweb.jp/kotaeru.php3?q=1130493
こちらの5と、そのリンク先の瞑想法をやってみてください。

ヴィパッサナー瞑想とも四念住、四念処とも、マインド・フルネスとも言われていて、坐禅の原型に当たる2500年以上に渡って伝わるお釈迦さまの心を育てる瞑想法です。

好き嫌いの判断、扁桃体の興奮を監視するつもりでやってみてください。
http://www.ktv.co.jp/ARUARU/search/arukeiutu/kei …
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この回答へのお礼

多かれ少なかれ皆妄想を持って
生きているんだと思いました。
現代社会で一般的に支持されている
思い込みも、私の独り善がりな思い込みも、
宗教もバランスよく採り入れ
生き易い自分を作っていきたいと思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2004/12/24 09:52

 直接の回答にはなっていないと思いますが、参考になればと思い、書いてみます。


 人という生物は他の生物と違って体を環境としている生物のようなものであるという考え方があります。つまり人は脳が異常に発達した結果、脳が体の寄生虫のようになって、これに伴って自分というものが体から脳へと移ったということになるのだと思います。他の生物は体が自分ですから体が環境と密接に関係することが自分の仕事であり、すなわちそれがそのまま生きる目的になるということになるわけです。だから彼等は働くことを自分を否定することになると感じていないでしょう(これは自信がありますがやはり想像なのであいまいに書きます)。ところが人は体を養っても自分は体ではありませんから、いわば食う為に(すなわち体を養う為に)働くことが体のために強制的に自分を否定しながらいやいや働らかされているように感じるのも当然です。しかしここからが重要な点だと思いますが、生物は環境がないと存在できません。人の脳の環境は体ですから体がなければ脳すなわち自分も存在できないわけです。つまり人といえども体という環境を失っては存在できないわけです。
 このことをどのように考えるかということになると思いますが、長くなるので此処で止めます。参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

思いもしなかった視点からの
ご意見ありがとうございます。

生きるための仕事は、自分を完全否定し
環境に従属する行為で自分が何人も何人も
殺され続ける日常と感じているようです。

よろしければ続きを
聞かせてもらえると嬉しいです。

お礼日時:2004/12/24 09:37

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