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「芸術」というものの定義は、微妙に様々なものに分化していてこれといったものが
なくなっているように思います。

例えば、

『一定の材料・技術・身体などを駆使して、鑑賞的価値を創出する人間の活動および
所産』(広辞苑)

まあ、一般的な感じです。

『表現者あるいは表現物と鑑賞者が相互に作用しあうことなどで、精神的・感覚的な変
動を得ようとする活動』(wiki)

私にはこちらのほうがピンとくる気がします。

『客観的世界は、空間の中での物質界によって示されます・・・しかし、、主観的世界
は、その広がりは持続性であり、不安定と変化と創造の領域です。これらの世界は別個
のものですが、人間を通じて結ばれています・・・人間存在を分割しているこれら二つ
の基本的実在のあいだに、人間は第三の実在を築きました。それが芸術です。』
(ルネ・ユイグ 抜粋)

うーむ…

これらの文章を参考にしていただいて、芸術について日頃お考えのことを教えてください。

「芸術」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • ガガさん

    「芸術」の補足画像1
    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/01/04 11:55

A 回答 (9件)

>私も今年からアーティストを名乗ろうかと考えています(笑)。



良いですね。ぜひ、ぜひ。

ガが様は、唯一無二のアーティストです。
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この回答へのお礼

賛同いただき嬉しく思います。

お礼日時:2020/01/05 14:13

お礼をいただきました。



コンピューター・テクノロジーが発展するにつれ、アートの世界がどんどん身近なものになり、ソフトウェアを使って、写真を加工したり、グラフィックデザインや、作曲が、手軽にできるようになりました。YouTuberではないですが、一般へのアピール能力さえあれば、フォロワーが付く時代です。テイラー・スイフトやビヨンセのような人たちも、歌手ではなく、アーティストを自称します。彼らの場合は、自己プロデュース能力がとりわけ高いので、莫大な支持を得ています。総合芸術家なのです。

”芸術”の定義が、根本的に書き換えられる時期に来ているのかもしれません。そして、芸術の中にも、発信者の意図が、社会に、人間の不合理や醜さを表現して、心を揺さぶる作品もあります。シェークスピアの悲劇が良い例です。あるいは、ゲルニカではありませんが、戦争の悲惨さを映し出す一枚の写真やドキュメンタリー作品も、芸術作品といえるでしょう。衝撃を与えるのが、作者の意図ですね。芸術は美しい必要はない。

もう一つは、芸術記事の芸術・美術・商業芸術などのカテゴリー分けを見ても、二千年以降は、特に混乱が多いです。従来の枠には、嵌らなくなってきている感があります。日本から発信されているアニメも、西欧に大きな影響を与えています。

従来言われてきた芸術とは、建築・彫刻・絵画・文学・音楽・演劇・映像ですが、海外のアートヒストリーで習うのは、建築・彫刻・絵画までです。そこに、商業芸術 が加わり(宣伝・グラフィックデザイン・商標・イラスト・写真・マルティメディア、などなど)その他、私達が日常テレビでお目にかかる装飾は、全てアートと呼ばれたがっています。漫画家もアーティストと呼ばれる日が、もう、やってきています。それが世の風潮です。

それでいいのか?という、問いへの答えが、No.5の回答です。日本にも、自分自身の作り出した美意識のために、切腹を受け入れた、千利休のような人もいます。

発信者が、意図をもって、ゼロから創造力を駆使して、社会に向けて発信したものが、大衆に受ければ、それが芸術になるのか???私は、否と言いたい、へそ曲がりです。スタンダードを下げると、人間は堕落します。

現代美術が伸びずに、投資家がゴッホの作品やサルバドル・ムンディに、巨額を投じるのも、現代美術のスタンダードに目を覆うものがあるからではないでしょうか。面白いものは大衆受けするけれど、美しいものは、飽きられるんでしょうか。

芸術が、一口で言えは、献身であるというご意見は、ある真実をついています。

(回答になっていなかったら、申し訳ないです。)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

>スタンダードを下げると、人間は堕落します

その通りだと思います。ただ、何がスタンダードかという詳しいお話は、私の知識では
ちょっと難しいようなので、またの機会にしたいと思います。

ガルブレイス博士が、「経済は芸術面においてもっと発展すべきだ」と言っていたのを
思い出します。流石だと思いました。

資源を消費して経済を支えてゆくという旧態然としたやり方は、とうの昔に限界に達し
ています。
モノの消費は必要最小限にとどめ、芸術作品を経済市場に流通させ、経済を支えてゆく
ということは、個性が生きるということであり、精神的に豊かになりうるということで
あると思います。

芸術的競争、いいんじゃないでしょうか?若い世代はこれに興味を持っていると思いま
すし、AIには難しいのではなかろうかとも思います。

私も今年からアーティストを名乗ろうかと考えています(笑)。

お礼日時:2020/01/04 11:28

夏ごろから、様々な芸術雑誌を読み、芸術家や芸術に関する著名人の発言を受けた結論としては、「芸術とは権威主義であり、放蕩者の道楽である」、という物です。



権威のない人間が芸術を主張しても、それは芸術ではない。

ピカソのゲルニカも、無学で権威から外れた者には只の落書きに過ぎないですし、ダ・ヴィンチの最後の晩餐も同様に壁の落書きです。
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この回答へのお礼

芸術家の意図したことなどは全く考えないで、経済的価値のみを尊ぶ場合、
そのような論が出てくると思います。

お礼日時:2020/01/02 17:28

ゼロベースから、設計図を作り、実現手段を集め、これまで存在していなかった物事を実現する行為をcreation=創造性と言います。

この創造性を芸術というなら、それで良いのですが、古代ギリシアでは、人々の得意としていることを、アルス、技芸、と読んでいました。
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この回答へのお礼

人間が創造性を発揮し何かを生み出すということが、生きることまたは
生きる喜びといえるでしょう。

その中で芸術と呼ばれ区分されるものの本質は何かということに興味を
持ったのは、この「芸術」というものがこれからの人類の向かうべき道
なのではないかと考えついたからです。

お礼日時:2020/01/02 17:25

現在の風潮に逆らうようで恐縮ですが、優れた芸術というのは、美しいものに囲まれて育った王侯貴族が、湯水のようにお金を使ってパトロンになり、芸術家志望をビシビシと鍛えて、ようやく一粒の結晶が生まれる、ダイアモンドのようなものです。

そういった意味で、現在ではもう、存在しないんじゃないか、と危惧します。

本当は、私たち庶民には、何の関係もない性質のものです。幸い、美術館などというものが設立され、金持ちが自分のコレクションを寄付したり、客寄せのために予算をとって佳品をオークションで落札したりして、庶民に眼福のおこぼれをくださいますが、実際、ルーブルの旧宮殿でも、美術館でみる絵画は、味気ないものです。

それは、特に、バチカン美術館や、西洋の教会を訪ねてみるとよくわかります。製作者の意図した設置場所に置かれている姿が、一番、美しい。その場所から無理やり移されてしまった絵画や彫刻は、羽根をもがれた鳥のようです。

でも、鳥は鳥なので、鑑賞者は、想像を膨らませるしかないです。

添付なさった、ピカソのゲルニカは、製作者の意図が鑑賞者の心を打つ傑作です。多作な彼の作品は、玉石混交ですが、どれにも通じるのは、その秀逸なデッサン能力です。一本の線に必然性があります。そして、洗練された色使いです。模写が非常に難しいです。

芸術については、一般論、概要、定義は、役に立たないんじゃないかなぁ、というのが、私の感想です。そんな、無味乾燥なものではないです。本物は、私達の人生を豊かにします。
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この回答へのお礼

「芸術性」とはなんでしょうか?

これまで評価されてきた「芸術性」と、芸術家が意図したことは一致している
のでしょうか?

これまで評価されてきた芸術が、金持ちの道楽に過ぎない物であるとするなら
本物の芸術とは何でしょうか?

すみません、芸術についても知識が少ないものでこういう返しになってしまい
ました。

お礼日時:2020/01/02 17:15

はっきり言ってお前はほかの人、自分は賢いと思っている人同様に馬鹿である。


こういっても答えないだろう?馬鹿だから。
ほかの人と同様に馬鹿が常に成功するものは何だと思う?
自分が賢いと思うことさ。

芸術と献身である。
馬鹿には分からないことさ。決して、分からない。
出来る範囲で困っている人を助ける。
これが芸術である。
分を超えて困っている人を助ける。
これが芸術である。

馬鹿が常に成功するものは何だと思う?
自分が賢いと思うことさ。
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この回答へのお礼

>出来る範囲で困っている人を助ける
これが芸術である
分を超えて困っている人を助ける
これが芸術である

これは飛躍しすぎでしょう。

お礼日時:2020/01/02 16:49

自然に対して人工。

この人工がart=芸術ってわけだ。

でも鑑賞の対象になり得るのは一部のfine artだけだと思う。
fine artだけが感性の対象で、他のartは理性の対象なのだと、イマヌエル爺さんが言っていたような気がする。いわゆる感性美学論だね。

でも、わしは、谷を渡る橋梁や、高速で飛翔するジェット機などの機能美が、理性の対象で有りながら感性美学の対象にもなりうる人類最高のartだと思う。

理工学部で勉強しないと制作できない点も、一般のfine artより参入条件が厳しくて、美と崇高の高度な一致に近いと思うのだが、、、、。
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この回答へのお礼

>自然に対して人工。この人工がart=芸術ってわけだ

なるほど、その定義もありだと思います。
ただ、偽物とか低俗なものには気を付けないといけないと思います。

骨董好きの人の中には贋作を高い金を出して買い、日々それを眺めて
暮らしているような人がいますが、贋作が芸術性を持っている可能性
は「皆無」とは言いませんが、ほぼないといっていいと思います。

無い物をあると思う錯誤は、人生に少なからず悪影響を与える可能性
があると考えています。
それは、あらゆる芸術作品について言えますし、仰るような建築物や
日常の中にあるものについて言えると思います。

「機能美」ですか…個人的なところでは、どうしても美しいとは思え
ないです。

「価値」という観点から、美術性という難解なものを検証する必要が
あると思います。

お礼日時:2020/01/02 16:46

芸術については色々な考え方があります。



最初に登場したのが、模倣論です。
自然の模倣が芸術だ、とする立場です。
しかし、この説は写真機などの登場で
影が薄くなりました。
模倣なら写真の方がはるかに
優れています。


次は均斉論です。
釣り合いがとれているのが芸術だ。
しかし、この説はジャポニカ、つまり
日本芸術を説明出来ません。


現象論というのもあります。
芸術はイデアを顕わしたモノだ、とします。
しかし、
現象論は宗教的な芸術にはよくあてはまりますが、
歯ブラシや空き缶を利用したポップアート、
日常生活の感動を表現した俳句がイデアを体現しているとは考えにくい。
また、鳩が象徴する平和が尊いからといって、
鳩の絵がすべて芸術作品だということにはならない。




これらは、人間を離れた芸術が存在する
とする、いわば神の立場からの芸術論です。

しかし、神の力が弱くなると、人間観に
もとづく芸術論が登場します。

芸術家の心情、感情が表出したものだ、という
説がそれです。
しかし感情の表出は芸術だけではありません。
ケンカ闘争も芸術になりかねません。


近年では異化論が主流になっています。

芸術はわれわれの鈍麻した日常的感性の刷新をもたらす新しい形式である。
包丁のように、言葉も感覚も使っているうちに鈍くなってくる。
最初は新鮮な経験も、玩具に遊び飽きた子供と同じで、
日常の中で繰り返されることにより当たり前になり、
また、言葉は使い古されて、経験や現実を指示せずに、
辞書に載っているような死んだ意味を直接連想させるようになる。

芸術はこのような日常化に対する戦いである。
芸術作品は現実を新しい奇異な形式で(珍奇な事物や現象をということではない)
われわれの前に提示するが、われわれは形式をその新奇性のゆえに
意味に結びつけることができず、理解するために現実を見直すのである。
こうして、日常性の中で麻痺したわれわれの感性は覚醒され、
現実とのみずみずしい関係が再建される。

この異化論に対しては、原爆投下も
芸術になるのか、という皮肉があります。
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この回答へのお礼

以前、テレビでですがレオナルド・ダヴィンチの若い頃の絵画作品を見て
驚いたことがあります。
天使を描いたものだったのですが、外見は赤ん坊です。しかし、その表情
の深いこと!

その絵を見て、師匠が筆を折ったと言われているそうです。

「天使」というものは実在するものとは思っていません。仮に実在すると
しても客観的に認識されているものではありませんので、模倣とは言えま
せん。均斉とも関係はないでしょう。
イデアというか人間の精神性を表したものと言えると思います。

心情・感情の表出というより、想像の表出と言えるかもしれません。

異化論というのは、なるほどと思いますが、想像することによる創造とい
うのが本質ではないかという気がするんです。

お礼日時:2020/01/02 16:25

ーー主観的世界は、その広がりは持続性であり、不安定と変化と創造の領域です。

これらの世界は別個
のものですが、人間を通じて結ばれています

これはとても分かりやすいですね。
人間は各々の世界観を持っている。そして、それは芸術を介して共有することができるといっているわけです。

広辞苑のものは、具体的に説明しており。
wikiのものは客観的に説明しているだけであって、どちらも同じことを示している。


ただ思うに、自己の世界に陶酔しすぎるあまりに受け取る側をないがしろにしている極めて自己中心的な芸術が増えましたね。
ピカソの時代や後数十年までは芸術家側は自由さを求めたので、見る側にも「何を思っても、何を感じてもいい」という風潮になりました。見る側の想像力が試されていたからです。
しかし、現代の批判的な芸術は「何を思ってもいい」ではなく、まず「派手さ・醜さ・不快さ」を全面的に与え見る側を縛り付けるインパクトを重視するあまり、芸術特有の「癒し」が失われつつあると感じます。

縛りつけられることによって、自由がなくなってしまう。フェアだった関係性が失われつつあり、誰でもできることによって量産され、秩序も何もなくなり、ただ数が増えているだけになってしまっている。
そして、「芸術だ」と本人が言えば「芸術」になる。

けれど、本来は本人以外の誰か他人が見出すものであって、その見出す人自体も真価が問われることが重要だと思うんですよね。
そういうこともなくなってしまっているので、質問者様が仰るようなことになってしまっているのだと思いますね。
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この回答へのお礼

>自己の世界に陶酔しすぎるあまりに受け取る側をないがしろにしている極めて
自己中心的な芸術が増えましたね

芸術は主観的な世界であり、自己中心の世界といっていいと思います。ただ、思
いますに「得ていないのに我得たり」という傲慢さが私にも鼻につくことが多い
です。

「芸術の役割は人を傷つけること」と言った人がいて、少々驚いたのですが(最近)
例えば、保守的な権力者を傷つける芸術があってもいいと思います。つまり、「表
現」であるからです。

芸術に経済的価値のみを求める人と、自分を装飾するものとしか見ない人が増えた
こと、さらに「精神」というものに価値を置かなくなったということが、昨今の風潮
をもたらしていることは間違いないでしょう。

お礼日時:2020/01/02 13:03

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