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羽柴秀吉は、毛利攻めの際に、信長に援軍を要請しましたが本当に必要な要請だったのでしょうか?
また、その前にも援軍要請したことがあるのであれば、教えていただけませんでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • お殿様(信長)に花を持たせる為であれば、毛利攻め以前でも援軍要請が行われていたと思うのですが、その痕が見つけられません。

      補足日時:2020/01/18 17:26
  • 援軍要請の結果、先発隊として送られることになったのは、明智軍でしたよね。ということは、明智光秀が毛利攻めに加わって手柄をあげていれば、秀吉が怒られて光秀が褒められる可能性もあったのですよね???

      補足日時:2020/01/18 22:26

A 回答 (4件)

この前の援軍要請は、私の知る限りではありませんね。


何よりも援軍要請をすれば、信長の逆鱗に触れる可能性もあると思いますから、毛利攻めの際も必要だったと思われますね。
ただ、頭のいい秀吉なので、援軍要請によって本能寺の変が引起されると考えた可能性が無いとは言えません。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

お礼日時:2020/01/18 22:18

お殿様(信長)に花を持たせる為であれば、毛利攻め以前でも援軍要請が行われていたと思うのですが、その痕が見つけられません。


>>>まず、織田家が極端に大きくなる前、信長が陣頭指揮を執ってい頃は家臣が援軍要請するまでもなく信長が戦場に出ていたわけですから、
家臣が挙げた手柄は信長の陣頭指揮のおかげだという面目が立ちますし
家臣の軍勢だけで他の勢力を潰せるほど家臣たちは兵力を持っていませんでしたから、余裕があるのに信長に援軍を要請するという場面はなかったので除外します

さて、信長は領地を拡大するにつれて自分は戦には出ずに家臣に任せるということが多くなりました
そして、重心たちに新たな攻略地域を割り振ったのですが、秀吉はなかでも特に大きな中国方面司令官という役割を与えられたことになります
柴田勝家は北陸方面司令官、光秀は丹波攻略司令官、などなどと比べても格段に強い相手を任されたことになります。
柴田は少しづつ攻略を遂行していましたが、光秀は丹波攻略にだいぶ手こずることになります
そんななか、秀吉一人がさくさくと単身で毛利を攻略してしまえば、これは大手柄です

秀吉自身が後に経験することですが、自分の軍師の天才的な才覚を恐れるあまり、右腕として徴用してきた黒田如水(官兵衛)が秀吉の死後天下を狙うのではないかという猜疑心に取りつかれ、秀吉は如水にあまり領地をやらず遠ざけるようになりました。
このとき官兵衛は隠居・出家することで、秀吉に対して反抗の意思が全くないことを示したのでした

これと逆の立場ですが、「上様に猜疑心を抱かれては叶わない」ということで、先手を打って信長の機嫌取りをしようとした一端が
高松城攻め援軍要請だと思われます
秀吉は、信長のこころの動きを読み、自分が疎まれるのを予防しようと考えていたので自分の立場が悪くなるような言動は避け、
あげく、高松城を信長に仕留めてもらうなんていう画策までして自分の活躍だけが目立ち過ぎることを防ごうとしたのではないかと思われるのです

ただ考慮すべきは、家臣どもが総司令官になって新たに大きな勢力を潰す最初のケースが秀吉の毛利攻めであったために、
信長のご機嫌取りのための出馬要請の最初のケースになったのではないかということです
もし、信長がこの後も健在なら、他の強大な相手をしとめるときに余裕があってもご機嫌取りで信長の出馬を要請するという司令官は、他に現れることになったのかもしれません・・・
けどそうなる前に信長公は討たれてしまいましたから、毛利攻めのケースが最初で最後になってしまいました
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

お礼日時:2020/01/18 22:19

どのタイミングの毛利攻めのことを質門されてるのかが判りませんが



親方様が来てくださったから毛利を攻め落とせた、とおべんちゃらの為に呼んだんです

実際、毛利とはほとんど戦闘をしないで、交渉ばかりしてたわけですし
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

お礼日時:2020/01/18 22:19

播磨攻略中、毛利の大群がでてきたために援軍を要請しています


この時は信忠が総大将となり、織田家の主要な家臣数名(光秀など)もこれに加わりました。
なにせ、1国の大名並みの兵力しか持たない秀吉が中国地方の覇者毛利と戦っていたわけですから兵力差は歴然です
必要に応じて援軍を要請していたわけです。
そして、援軍が来るかもという潜在的脅威が毛利にはプレッシャーとなりますし、日和見を決め込んでいる小勢力を織田につかせる原動力にもなっていたのです
さて、備中高松城攻めのときはどうでしょうか?
播磨の諸勢力や備前宇喜多氏などは織田に従っていましたし、高松城攻めに関して援軍は不要であったように思われます
ただ、秀吉の頭のきれは並みではなく、秀吉の力だけで毛利を下してしまっては後々信長にどう思われるかと気にしたのでしょう
つまり、あまり活躍しすぎると後々信長から警戒されるかもと思ったのです
そこで信長本人の出馬を請い、「毛利のとどめは上様自らの手で!」というようにして華を持たせようという意図があったように思われます
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

お礼日時:2020/01/18 22:18

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