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「心知らぬ人は何とも言わば謂え身をも惜しまじ名をも惜しまじ」という歌は、明智光秀が本能寺の変の際に、詠ったとされていますが本当でしょうか?
また、本当であれば相当、信長の事を恨んでいたと思われますがどうでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 私も、ほぼ同じ考えです。
    愛宕百韻で光秀は、「時は今雨が下知る五月哉」ではなく、「時は今雨が下なる五月哉」とよまれたという説がありますが、「雨が下なる」が正しいとしても、「土岐氏は、今、五月の雨のように苦境に立たされているのだなあ」という意味にもとれ、信長のもとで苦境に立たされているという恨みをいだいていた証拠の一つにもなると思います。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/02/04 11:40

A 回答 (4件)

回答は一つ。


「通説はいろいろあるがそれを証明する資料は一つもない。よって回答不能」
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

お礼日時:2020/02/04 11:48

本当に、詠った可能性は5分5分だと思います。


ただ、恨んでいたことは間違いないと思いますよ。
◎家康の饗応役の時に、殴られる
◎人質の母親と乳母が信長のせいで殺される
◎領地を取り上げられ、まだ、敵の土地を与えられる
◎長宗我部元親との約束を破って、攻撃を仕掛ける
等々、パワハラでは済まないですよ!
気持ちは、100%、この短歌のとおりだったと思います。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
パワハラで済まないですよね!

お礼日時:2020/02/04 11:49

辞世の句とも言われていますが、後世の編纂と言われてますので、本人の句であった可能性はあったとしても、10%程でしょう。


信長に対する恨みは、№2の方の回答の通り相当なものだったと思います。
本能寺の変は、光秀の単独(もしくは斎藤利三との相談のうえ)で起こした変であり、秀吉と家康は、間者(忍者)を使って事前に知っていたとなれば、つじつまが通ってくるのではないでしょうか?
万が一、他の可能性と言われれば家康との共謀だと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

お礼日時:2020/02/04 11:50

江戸時代に、ウソでも分かりやすさが求められたので、ウソ話がはびこっています。


光秀は信長を討ったので、主君を討つには”そうとうの恨み”があったに違いない→ウソ八百の恨み話が創作された、という背景があります。その句も、そういうウソ話の1つなのでしょう。
信長のほうも比叡山や本願寺と戦ったからと、ウソ八百の極悪人に創作されてたりします。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

お礼日時:2020/02/04 11:51

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