幼稚園時代「何組」でしたか?

前方後円墳が近地方以外の地域にもあるが、近畿地方と同様の古墳が他の地方につくられたのはなぜですか?

また、近畿地方以外にも上毛野・丹後・吉備日などのように、大規模な前方後円が築造された地域があるのはなぜですか?

やはり大和政権が関係してるのでしょうか・・・

A 回答 (5件)

文字がない=文明化していないので、記録がないので真実も判明しないんですよ。

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大国主系の出雲勢力は方墳だったが、天孫族は円墳だったようだ。


両者をくっつけて前方後円墳としたのか、全く関係なく、円墳に祭壇的な意味を込めて祭事も開ける方墳のような祭場を造ったのか?
多分、後者だと思うが、なかなかよくできたお墓だ。

皆が真似をしたくなっても何の不思議もないと思う。
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情報は伝達する。



たとえば「空が落ちる神話」は世界各地に存在する。
巨石文化の痕跡も世界各地で見られる。
縄文人は航海技術を持ち、日本各地を移動していた。
陸上はもちろんである。

そういう経緯を考えれば、どこか一か所で発生した建築様式が全国各地に飛び火するのは、さほど驚くことではない。
あとは前方後円墳が流行になればよいだけの話である。

西日本を中心に古墳が存在するのは、斑鳩朝の存在が知られていたからである。
そのため物的証拠を得ようとこの地域に発掘調査が集中した。
他の地方は、都市開発などで発掘調査が行われる際偶然に発見されるケースが多い。
そのため発見は遅くなるし数も少なくなる。
都市開発が遅れている地方はさらにその傾向が強くなる。
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関東以北に限っての事ですが、当時の中央政権と地方豪族は、ゆるやかな同盟関係にあったという考え方があります。


現代ほど交通網が整備されていなかった古代において、地方を完全に中央政権の支配下に置く、すなわち中央からそのための人材を地方に派遣して民衆を従わせるという事がいかに難しかったかは、なんとなく察せられると思います。それよりも、地方の権力者に中央の代行者としてのお墨付き(のようなもの)を与えて統治させた方がよっぽど簡単です。
これは、地方豪族にしてみれば、中央のお墨付きをもらうという事は、中央政権に認められたこの地の正当な支配者(言い方が悪いかもしれませんが)という事であり、小競り合いをしている近隣の豪族ににらみを利かせられるこの上ない機会でもあります。
このお墨付きのひとつが、中央政権下で当時盛んに作られていた前方後円墳です。
古墳は、意外と、と言っては失礼ですが、当時としては最先端の土木技術が使われており、そのための技術者を中央から派遣してもらわないと、中央と寸分違わぬ物を作る事が難しい代物だったと思われますので、中央と同じ形の古墳を作る事ができるという事実が、中央政権とつながりがある地方権力者としての証であったと考えられています。

まあ、あくまで素人の一説にすぎませんが。
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石器が各地で出土しますが、石器の材料の原産地は限られていて、それがかなり広域で使用されています。

 また、塩は産地が限られているのに内陸部に大きな集落があり、塩が広域で交易されていた事実があります。 土器にも変遷があり、地域差もあるのですが、広範囲に影響していたことが分かります。 ということは、遙か縄文時代、弥生時代でも、地域でそれなりに隆盛だった集団が日本全国にたくさんあっただけでなく、地域間の交流はあったということでしょう。 交易は基本的には平和的に行われ、相互に利益をもたらすものとして、人々は考えていたのでしょう。
そうなると、飛鳥、難波などの地域だけでなく、日本全国にそれなりに地域で豊かに旺盛に活動していた集団がたくさんあったと考える方が自然だと思います。
6世紀の世界でも、11世紀の世界でも、各地に隆盛だった地域はありました。
http://www.eonet.ne.jp/~libell/1yosikawa.html
日本列島でも、そこそこ広いのですから、3世紀、4世紀、5世紀に、各地でそれなりの首長を持つ集団が一定レベルの経済状態に達し、それが相互に交易しながら、win-winの関係を維持していたと考えるのは、自然だと思います。
前方後円墳が最初に出現したのは近畿ですが、数十年差程度で、各地に似たような墳墓は成立しますし、前方後円墳に先立つ形状の墳墓はそこそこ各地で造成されています。 前方後円墳の形状での造成数でみても、近畿よりも西国(福岡など)の方が、西国よりも東国(千葉など)の方が総数も造成期間でも結構勝っています。
https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900118040/ …
何で古墳をつくったのかという、古墳を造成する目的や造成することで得られる効果を考えると、ロケーションから見ても、どうも[その地域に外来する交易者集団、あるいは服属させたい集団に対する巨大壮麗な構造物で誇示すること]だったようです。
信長が、安土城を造成するとき、単なる防塞・要塞というのではなく、見たものに対する効果を考え、信長以降、石垣と天守で見せる城作りが全国に広まった(戦国騒乱の戦いの時代が終わったのに)ということから考えても、[石で葺いた巨大で高さのある墳墓を見やすい位置に造成する]ことに、地方の首長がメリットを感じたためではないかと思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E …
「古墳は、おそくとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは東日本の広大な地域がヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する」のではなくて、[日本各地の経済状態・地域支配のレベルがほぼ似た水準に達していて、権勢の誇示や地域支配の人のスタイルで(これがイイ!)と感じるのがほぼ全国一斉で、一大ブームを起こしたことを意味する]のだろうと思います。 日本で景気が良かった時代に、県庁の建物、公立の公民館や博物館、図書館の建設や、工業団地などの造成、企業誘致がブームになったのと似ていて、中央政権の支配影響力が地方に及んだというのではなく、地方経済と地方の活力が高かったので、ブームが一斉に起きたようなものでしょう。
古墳時代になって、その後、100年、200年を経過したしたときに、近畿のヤマト王権が各地への支配的影響力を強めていったのでしょう。 
6世紀継体帝が王権を握ったあとでヤマト王権の強化が進み、7世紀になると地方首長との勢力格差が広がって、7世紀中葉に薄葬令を出せる程度にヤマト王権の影響力が地方に及ぶようになっていったのでしょう。 
https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900118040/ …
6世紀だと、「王権中枢域では、橿原市見瀬丸山古墳(墳丘長 310 m)の築造を最後に、6 世紀後半には大型前方後円墳の築造を止め、急速にその規模が小さくなっている。やがて 6 世紀末には、古墳時代の象徴であった前方後円墳が中枢域で一斉に造られなくなり、まもなく西日本一帯で造営が停止される。主要古墳は大型方墳や円墳に移行し、大型古墳そのものの築造が規制されて、王陵・王族層以外の墓は規模を縮小する。ところが、関東地方では 6 世紀後半になって墳丘長 100 mを超える前方後円墳が初めて出現する地域もあり、大型古墳の分布図が塗り変わる。また、埴輪の樹立が隆盛するなど、王権中枢域を中心とする西日本とはかなり異なる動向が見られるのである。 大型前方後円墳の総数を見ると、西国 69 基・中枢 54 基・東国 235 基で、圧倒的に東国が多い。60 ~ 70 m級では、西国 40 基・中枢 25 基・東国 145 基で全体の傾向がこの規模の動向にも表れている。東国では、北武蔵などの新興の地も加えて内陸・海道の各地に大型前方後円墳が築造され、西国・中枢とは大きく異なる様相を呈してくる。さらに 6 世紀後半以降に絞ると、関東地方(相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野〈上毛野〉・下野〈下毛野〉からなる古代の板東八国に相当する地域)に 65 基が確認され、畿内(中枢域)11 基の 6 倍に及んでいる。 また、墳丘長 100 m以上の大型前方後円墳は、関東地方に 33 ~ 35 基あり、畿内 17 基の 2 倍に達している。しかも、それらは畿内の大王や有力豪族の墓に匹敵する規模をもち、上毛野・高崎市観音塚古墳・綿貫観音山古墳、上総・木更津市金鈴塚古墳では、王族や中央の有力豪族の墓に迫る豪華な副葬品が出土している」
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2020/04/13 23:55

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