街中で見かけて「グッときた人」の思い出

学徒出陣を国家の政策として見た場合に、どうしても腑に落ちないことがあります。

若い人間こそが国家の将来を担う存在であるのに、学徒を戦地に赴かせたということは、戦前の我が国は眼下の戦争が終わった時に、誰が戦後を担うのかという問題を一体どのように想定していたのでしょうか?

将来の我が国を担う人間を戦地に赴かせたということは、国家としての持続的生存の道を放棄したと言われて、何一つの言い訳もできることではないと思います。
日本の国体護持のために戦争を行っていたのだとしたら、当にその国体を思想として継受し発展させていく中核となるはずだった学徒を戦場で殺してしまうのは、国家の永続もとい国体の永続という観点から見たとき、はなはだしい矛盾ではないのでしょうか。

つまり、学徒出陣という政策を取ったということは、戦前の日本はそもそも「戦後」なるものが訪れることを想定していなかったということなのでしょうか?
文字通りの一億玉砕を行うことで、戦前の日本においてはそもそも戦後なるものは存在しなかったのでしょうか。
学徒出陣を行って、我が国は「戦後」が到来した後、国家経営をどのように行っていく想定だったのでしょうか。

学徒出陣と「戦後」という二つの存在は、戦前の日本が「戦後」の存在を想定していなかったと考えることでしか矛盾が解決されないように思われます。
この点について思想的にも、行政的にも、政策的にも、何か情報をお持ちの方がいらっしゃればご教授頂けますと幸いです。
よろしくお願い致します。

A 回答 (7件)

№3のお礼について



確かに文系の論客は、国体を論じることも研究の一環である場合がありますから目立ちますね。しかし、皇国史観以外は弾圧されていたことも忘れてはなりません。国体に関する自由な学問的論戦が出来ない不幸な時代でした。
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対象者は文系ですし、文系でも


成績優秀者は免除されていました。

著名な商法の学者「鈴木 竹雄」教授などは
それで出陣を免れています。

そういう形で戦後のことを考えて
いたのです。
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出征した兵士は全滅した訳ではない。

悲惨な戦争ではあったけど、人海戦術だったわけではない。死亡率は、大雑把にいうとせいぜい10人に一人ぐらいです。
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既に回答があるように文系だけですし当然全員戦死することを想定もしていません。


特攻隊や最前線にでたのはごく一部。将来の日本を担うべき人材(帝大、早慶クラス)は内地の部隊経理(軍隊では事務一般)将校などになっています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>将来の日本を担うべき人材(帝大、早慶クラス)は内地の部隊経理(軍隊では事務一般)将校などになっています。

もしこれについて本か論文等の出典がありましたら教えて頂けますと幸いです。
出身大学によってどの戦地に送られるかというのは既に選別されていたのでしょうか。また、それは戦地に赴く側の人間にとっても公然の事実だったのでしょうか。

お礼日時:2020/05/23 00:35

>確かに文系のみですが、国体の精神というものはむしろ理系よりも文系が主体というイメージがあります



何か勘違いされているのではありませんか。
国体の精神なんて基礎中の基礎の話で小学校から全国民的に洗脳している話です。大学は理系も文系も専門知識を磨く場所で国体精神なんて話はとっくに卒業しています。
大学、特に帝国大学は、日本の官僚組織と財閥企業への人材供給と、医理工などの研究レベルと技術力向上を大目的に造られた教育機関です。
中でも理系は富国強兵政策の根幹である技術開発力に直結する最重要分野です。初期の帝大は理系中心に動いており、その傾向は今でも変わりありません。昔の定員でなくても、今の旧帝大など国立大学の定員をお調べください。理系が少なくとも半数くらいになっているはずです。
失礼ですが、「理系に比べれば文系のほうがはるかに母体は大きかったのではないでしょうか」とは、どこからの情報ですか?今でこそ文系中心の私大が激増していますが、その今でも理系が僅かということはないでしょう。
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この回答へのお礼

>何か勘違いされているのではありませんか。
国体の精神なんて基礎中の基礎の話で小学校から全国民的に洗脳している話です。大学は理系も文系も専門知識を磨く場所で国体精神なんて話はとっくに卒業しています。

例えば京都学派の面々だけでなく平泉澄、三井甲之、蓑田胸喜らの存在によって国体を論じる人間は皆文系出身というイメージがありました。近代の超克座談会においても国体論に対して客観的な指摘を行っていたのは理系の菊池正士や下村寅太郎です。また平泉の講義を受けた大井篤は大学ではなく海軍出身ですが、平泉が唱える国粋主義や国体論には否定的でした。こういったイメージから国体論の受容性は理系より文系のほうが高いと考えておりました。

>失礼ですが、「理系に比べれば文系のほうがはるかに母体は大きかったのではないでしょうか」とは、どこからの情報ですか?
現在の大学の様相をそのまま戦前に投影してしまいました。大学の文理系比率についても知識がなく、ただのイメージで述べた箇所になります。

お礼日時:2020/05/23 00:33

学徒出陣は1943年10月1日に東条内閣が決めた政策で、文系の学生を動員することで前線での兵力不足を補おうとして行われたものです。



時系列は前後しますが、
昭和18年4月に、い号作戦(対米の船舶を攻撃し米国の侵攻速度を遅らせる目的)の最中、4月18日に聯合艦隊司令長官の山本五十六大将が戦死します。
後を引き継いだ古賀峯一大将は、戦局を分析し『もはや3分の勝ち目もない』と発言したとされます。
が、海軍の対米戦の遂行能力が決定的に失われるのは、1944年6月のマリアナ沖海戦辺りです。
マリアナ諸島を米軍に取られたら米軍による本土空襲が本格化し、日本の戦争遂行能力がなくなるので、マリアナは絶対防衛圏でした。

陸軍の一部は対米戦に勝てるとまだ考えておりフィリピンでの戦いが10月に行われ敗北を喫し、陸軍も理解することとなります。

玉砕という言葉は1942年頃から使われだした言葉で、全滅の語感を和らげる為に用いていました。
また、本当の玉砕は1943年6月のアッツ島守備隊が最初と言われています。(その前にもひとつの部隊が全滅する等は有った)

大本営で公式に使われるのは1944年6月24日の戦争指導日誌に、(戦争は負けるが)一億玉砕…云々 で使われており、マリアナ失陥までは戦争の遂行にまだ希望を持っていた事を匂わせます。

一億玉砕や一億総特攻が国民に流布されてスローガンとなるのは1945年になってからです。

私自身浅学ですが、何か学徒出陣と一億玉砕と戦後を結びつけている質問なのですが、どうも時系列や戦争指導の当事者の述懐や記録を絡めて考えて、再質問された方が良いような印象を受けました。
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この回答へのお礼

早速のご回答を頂きありがとうございます。
具体的に記述して頂き私としても大変勉強になります。
実際上の時系列という点で確かに前後があったようです。
ご指摘ありがとうございます。

お礼日時:2020/05/22 21:59

学徒出陣は、原則として文系のみ。


理系については、戦争遂行にも重要な技術的資源だからということもあっただろうが、出陣していない。
国としては、それが最低限の将来への備えだったのだろう。
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この回答へのお礼

早速のご回答を頂きありがとうございます。
確かに文系のみですが、国体の精神というものはむしろ理系よりも文系が主体というイメージがありますが、その点についてはどうだったのでしょうか。
また、当時の文系理系の学生比率も浅学にして知らないのですが、理系に比べれば文系のほうがはるかに母体は大きかったのではないでしょうか。

お礼日時:2020/05/22 22:00

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