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唐の都である長安は過去に世界最大級の国際都市であったと習いました。どの地域から何の目的で訪れてるいたか説明できる人はいますか? 知識が乏しいのでわかりやすく説明してくれるとありがたいです。

A 回答 (1件)

西アジア地域からは交易のために訪れていたと思います。


日本からは朝貢目的ですが、真の目的は先進的な文化や技術を得ることだと思います。

このころの世界とは、ユーラシア大陸とそこに隣接する島の国々でした。

15年ぐらい前の長女の高校歴史教科書の巻末の歴史年表を見ると、唐の隆盛期の7世紀は、ギリシア・ローマ・ヨーロッパは空白、オリエント・西アジアはサザン朝、北・東アジアは唐の建国と新羅が朝鮮半島統一、日本は大化の改新などです。

長安の位置は地図で確認しておいた方が良いと思います。
なお、平城京や平安京は長安を手本に作られており、平安京は長安の10分の1程度の規模だったと思います。大きな違いは、長安の中心部は城壁で囲まれていたということで、実際に見たことはありませんが、なかなかスゴイと思います。

長安は黄河の中流域にあり、北京よりも内陸部の南に位置しています。
唐の権力層は、西方は文化や技術の交流が可能な地域、北方は領土を侵略される脅威となる地域、東方や南方は辺境のとるに足らない地域と考えていたと思います。
なお、取るに足らない地域のひとつと考えていた高句麗には大変痛い目に会わされていました。そのため、新羅を使って朝鮮半島を支配下にしたのだと思います。

西アジア地域との交易には主にシルクロードが使われていましたが、非常に危険な旅だったと思います。海のルートによる交易も主にアラブ人により行われていましたが、これは陸地よりも更に危険な旅だったと思います。目的は、唐の白磁を購入して持ち帰ってヨーロッパ各国へ売って一発大儲けです。そのため、インドや東南アジアは寄港地として発展した痕跡があります。

このころの世界の交易の拠点は、オリエント・西アジア地域にあって、ヨーロッパ地域と唐との物や文化の交流拠点になっていたと思います。
唐からは最先端の技術や絹製品や白磁などがヨーロッパに流れ、ヨーロッパからも金や技術や文化などが唐に流れていたと思われます。

なお、古代中国には羅針盤の元になるものや紙や火薬などの先進技術が多いのですが、外洋航海に必要な造船技術や航海術は発展しませんでした。理由は、その必要がなかったからだと思いますが、逆にヨーロッパは非常に発達していました。そのために、唐時代の海の交易ルートは西方地域の人々によって開拓されています。
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