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カントの定言命法・仮言命法についての質問です。

「もしも、困っている人がいるのなら、助けてあげなさい」って言うのは定言命法・仮言命法のどっちですか? 見た目は定言命法ぽいのですが...

A 回答 (9件)

先には「定言」に一票を入れましたが、反省を込めて別の観点から。



先のは、「困っている」・「助ける」という事を不問にしてでしたが、「助けよ」というのに、その意味を捨て置くというのは如何にも片手落ちでしたね。件の命題は、「或る人がもし困っているなら、助けよ」という意を含んでいます。これは条件文になっています。しかし、「困っている」ということが、「助けられるべき」に包摂されるモノとすれば、条件文とは言わない。「困っている」は、「助ける」の成立条件ですから。
さて、それは妥当な見解でしょうか。設問を立てた側の意向もあるでしょうが、一般的には、「困っている」と「助ける」との間は、そう単純な関係にはありませんね。

「困っている」という事態は、客観的に在る、のだろうか。「困る」などと言うのは主観的なことだ、と棄ててしまうとご質問が成立しないので、そこは踏みとどまって、何らかの客観性を持つとしても。
「困る」という事態が誰かに対して在る、ということだとして、そこに判断主体が要るでしょう。当人の判断? この命法を向けられた者の判断? 前者であれば、当人が困っていることは助けられるべきと等しい、という見解になりますが、そうなのか? 後者であれば、困っていると判断すれば、となりますが、「助けを必要とする」に直結するかどうかは微妙でしょう。

設問は、例えば、車いすの方が段差を上れなくて困っているのに出会ったら、助けよ、という類いですね。いわば善意を前提としている。空き巣狙いが家に忍び込むのに困っている、といったことは初めから除外しているでしょうね。そこは常識的なということでしょうが、善意を前提にしなければその命法は成立しない、としたら暗黙の条件が含まれていることになりはしないか?

まあ、ご質問の件は、曖昧であるということに目をつぶるとしても、「困っている」・「助ける」という事をトートロジカルな関係とする場合に限って、定言命法となる、とするべきなのでしょう。カント的な定言命法は、あらゆる条件が排除されている、という建前です。従って、そのような、定義的にトートロジカルなゆえに無条件的ということとは、別であると解するべきなのでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。あまりカントの思想に深入りするつもりはないので(理系です)、とりあえず仮言命法としました。

お礼日時:2020/06/28 13:51

定言命法なら、「困っている人がいるから、助けなさい」になるのでは?仮言命法は「もしも~なら」とい形式でしょう。

私は形式で判断します。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
仮言命法とする方が一般的みたいでした。

お礼日時:2020/06/28 13:50

№6の次の箇所をおぎないます。




☆☆ (回答№6) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★( a )「もしも、困っている人がいるのなら、助けてあげなさい」
☆ は 次のように言いかえられましょう。

( a-1 ) 困っている人を助けてあげなさい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ つまり 《困っている人を》という表現は それだけで《もし
も、困っている人がいるのなら、》という事態をふくむと考えられる
ゆえ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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もしカントの説に無批判に従うならば 次のようになるのではありま


せんか?

★( a )「もしも、困っている人がいるのなら、助けてあげなさい」
☆ は 次のように言いかえられましょう。

( a-1 ) 困っている人を助けてあげなさい。

☆ そしてもしこれが定言命法であるとすれば 次のような意味にな
るのではないですか?

( a-2 ) 目の前に見ている場合であれ音に聞く場合であれ 困って
いる人を・つまり困っているとあなたが認識したその人を 無条件で
助けてあげなさい。

( a-2-1 ) 《無条件で》というのは 一方で 相手をその置かれた
情況やまた助けを欲しているか否かに関係なく助けるということであ
り 他方では こちらの置かれたもろもろの条件にもいっさい関係な
くということである。

☆ となるのではありませんか?


ほんまかいな!?
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この回答へのお礼

やっぱり、教科書的(一般的)には「定言命法」にあたりそうですか...ありがとうございます。

お礼日時:2020/06/21 22:07

「見た目は定言命法ぽいのですが」に、同感です。


実際、定言命法に入れるべきでしょう、「困っている」とか「助けて」ということが何を意味するかはなはだ疑問ですが、それらに目をつむれば、ね。

理由は簡単です、「もしも」と仮定的に語られていますが、それは存在に対する仮定なのですから、それは不要でしょう?

「困っている人は助けなさい」という仮定文を含まない文であっても、その意味は、「困っている人がいるなら、助けなさい」と同じ筈でしょう。困っている人が居ないなら、「困っている人は助けなさい」という命法は、対象が存在しないことになる。「いるなら」という文言は、いわば強調に過ぎない。

そのような「存在を前提とする命題」は、本来的に、「存在すれば」という仮定を含んでいる、と解釈することもできる。だけれども、それは仮定文とは言わないでしょう。命題の成立条件であって、命題が条件文であるというのとは、異なる。
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この回答へのお礼

僕も同じように考えたのですが、一方で「仮言命法」ではないか、とおっしゃってる方もいるので、もう少し回答がつくのを待ってみます。ありがとうございます。

お礼日時:2020/06/21 22:02

「もしも、困っている人がいるのなら、助けてあげなさい」←これは命題として偽です。



何故ならば、困っている人は現実にいることが判明しているからです。

「困っている人に出会ったときは、助けなさい」←これが定言命法の一例となります。
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▲( a ) あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理


として妥当しうるように行為せよ
☆ これが 無条件でひとのオコナヒに当てはまる倫理的な命題
(つまりこのばあい なすべき判断と実践)だと言うんですよね? 
つまり 定言命法のひとつであると。


ところが:
▲ 普遍的な立法の原理
☆ が具体的に何であるかは あいまいです。

ひとの存在・いのち・人格をないがしろにしてはいけない・そし
て意志と心を踏みにじってはいけないといった理念として説明で
きますが これくらいの抽象性における理念でしたら それなり
にすでにおのれの主観として思想(≒生活態度)になっています。

つねに実行しているか・ほんとうに出来るのかを たとえ別とし
てもです。

つまり この主観が:
▲ あなたの意志の格律
☆ のことです。


となると どうなりますか?




すなわちあらためて言って《普遍的な立法の原理》が具体的に何
を言うのか わたしは知りませんが こうありたいとかかくかく
しかじかの思想としての理念を持って社会にのぞみたいといった
思い(主観)は すでに誰もがいだいています。

言いかえると 《わが意志の格率》の中ですでに――思惟の途上
にあるに過ぎないとしても――《普遍的な立法の原理》の何たる
かについて模索し問い求めています。


つまり その上に( a )なる定言命法を自分に課すことはあるか?
という問題です。


言いかえると いま仮りにこの( a )の内容が――つまりは《普
遍的な立法の原理》が――すでに明らかであるとしましょう。そ
うしますと この命題(命法)におのれの主観を合わせるという
わけですから それは どうなるか?


けっきょくその時その場の情況や人間関係等々といった諸条件を
じゅうぶんに考慮に入れて 結論を出す・・・こういうことにな
るのではないですか?

現実には ほとんどつねに 条件つきの仮言命法なんですよ。そ
うぢゃありませんか?



そして 立法の原理の何たるかが明らかでない場合は とうぜん
諸条件に沿って行為をきめなくてはならない。あったりまえのこ
となんです。


おかしいでしょ? 定言命法という屋上屋を架すのは。カントと
いう名に引っ張られていては ダメです。
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もしも、のところ「仮説」ですね。

仮言ですよ。命法とは、ある特定の判断に基づくルールのことです。仮言命法ですね。
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この回答へのお礼

形的には「もし〜なら」という形をとっているので仮言命法にも見えますが....定言命法だとおっしゃっている方もいるので、もう少し多くの解答がつくのを待ってみます....ありがとうございます

お礼日時:2020/06/21 21:43

純粋理性あるいは理論理性よりも 実践理性を カントじしんが


おもんじています。

言いかえると 現実の現実における知性全体ないし人格そのもの
による思惟・判断・選択・実践が 問題であるということ この
ことが明らかです。



定言命法は 理論理性による――倫理にかんする――規範です。

実践理性ないし現実知性による場合は とうぜんその場の人間当
事者や情況といったことが 規範を実行するにあたっての条件と
なっています。


というよりも むしろ《命法》として倫理規範を持ち出すこと自
体が 人間の知性の――現実における――ハタラキにとって ど
うでもよいことです。

命法としての結論ないしオシへが 問題なのではなく つねにそ
の場における諸条件を考慮に入れて考えつくすことが先立ってい
ます。

ときどきその結果の結論が 命法のうたう内容と一致するといっ
たことがあるかも知れない。


そういう問題だと考えます。




要するに イマヌエルくんは阿呆です。途中で思考を停止させて
います。

例のコペルニクス的転回もウソです。

総合的判断というのは 現実的ではありません。経験を経たその
要素をまじえた分析的な判断が 現実です。

また 時間空間のアプリオリな認識も モリヌー問題をクリアで
きていず アウトです。
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この回答へのお礼

カント批判は結構なのですが、質問に対する答えの方が欲しいです。

お礼日時:2020/06/21 01:50

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