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東山道の不破の関より平安京までの駅名と現在の地名を教えて下さい。(800年頃)

また、当時、上りと下りではかかった日数が随分違ったようなのです。
全て飛騨から出発なのですが、例えば、
京まで上り14日、下り7日。
美濃国まで上り4日、下り2日。
信濃国までは上り21日、下り10日。
上野国までは上り29日、下り14日。
帰りは行きの半分ですよね。

今、飛騨の匠が年貢匠として都に徴発された事を調べているのですが、日にちが違う理由として、次の一説があります。
行きは荷が多く身重だったのと、食料を沢山用意していて、食事の時間をしっかりとった為。
帰りは食料も無く身軽な上に、早く帰りたいと思うあまり、足が速まった。
しかし、匠が行き来したのは飛騨ー京です。他の土地も帰りが半分なのは何故なのでしょうか?
どうか明確なお答えをお願い致します。

A 回答 (2件)

租・庸・調を運んで都に上るのに要する日数が重要だったはずですからこちらが正確で、帰りは荷物がないし凡そ半分でいいだろうって感じだと思いますが・・・。

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この回答へのお礼

なるほど、租庸調の荷を運ぶのにかかった日数と考えてよろしいのですね。大変参考になり、納得致しました。ありがとうございました。

お礼日時:2005/01/23 21:56

古代の道の場合、概ね上りの方が下りの倍の日数がかかります。


確か税の関係だった気が
「日向国と太宰府間の往復の日数は6日~12日で、上りは日向から太宰府への諸税を担うため下りの倍の日数を要しました。」(不確かですが)

*間違ってればどなたかご訂正をお願いします。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。
そうですか。税の関係なのですね。
担うという事は税を担いだので重くて日数がかかったという事でしょうか?
税とは、都へ入るのに税が取られたのですかね?通行税でしょうか。
飛騨は、一部の税(租庸調の庸調)が免除された代わりに、年間百三十人程の労働力(匠、大工仕事)を提供していました。この場合は通行税はとりませんよね、きっと。とったのかな。そうだとしたら、踏んだり蹴ったりですね。

お礼日時:2005/01/20 13:59

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