プロが教えるわが家の防犯対策術!

平安時代後期の社会を武士の登場に注目して説明せよ
という問題があります。

摂関政治、荘園、院政、保元の乱、平清盛

というワードを必ず一回使うのですがなにをどう説明したらいいかわかりません。
よろしくお願いします。

A 回答 (8件)

摂関政治、荘園、院政、保元の乱、平清盛 でぐぐればいい

    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2020/10/11 19:02

むしろ、鎌倉時代直前の出来事として考えるとわかりやすいと思います。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2020/10/11 19:02

平安時代後期は、武士団が貴族の争いに便乗して台頭した時代であります。

要はどちらかに味方するというのを大義名分にして武力を振るう訳です。貴族も武士団を味方につけないと争いに勝てないので見返りを与える必要があった。何にせよ戦が起こって手柄を建てないことには武士とは一生浮かび上がれない立場ですから。そういうことを踏まえて平安時代後期の出来事の理解に努めてください。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2020/10/11 19:06

関白藤原頼通の娘、藤原寛子(かんし)は後冷泉天皇の皇后となりますが子供が生まれなかった。

後冷泉天皇の後は後三条天皇が即位したが、この天皇は藤原氏との外戚関係がない天皇であった。こうして天皇の外戚として絶大な力をふるった摂関政治の時代は終わり、天皇が退位した後、上皇として政治を行う院政時代が始まる。荘園は実質的な権力者である上皇の庇護を受けようと各地の荘園からは沢山の荘園が寄進されることになる。保元元年(1156年)実力者鳥羽上皇が亡くなると各地が乱れ血で血を洗う時代に入る(武士の表舞台への台頭)。中央をも巻き込んだ大きな合戦、保元の乱と平治の乱を経て平清盛が絶大な力を得ることになる。

なんて、私に与えられた問題として纏めてみました。一応与えられた言葉は全て使っていますので及第点は頂きたいです!(笑)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

やっと回答らしい回答を頂けました。
ありがとうございました。

お礼日時:2020/10/11 19:09

平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。

崇徳上皇方が敗北し、崇徳上皇は讃岐に配流された。この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。
永治元年(1141年)12月7日、鳥羽法皇は藤原璋子(待賢門院)との子である崇徳天皇を退位させ、寵愛する藤原得子(美福門院)との子である体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁は崇徳の中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった[1]。翌年には得子呪詛の嫌疑で待賢門院は出家に追い込まれ、崇徳の外戚である閑院流徳大寺家の勢力は後退した。一方、閑院流三条家や中御門流、村上源氏の公卿は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣といわれた藤原家成に接近し、政界は待賢門院派と美福門院派に二分される。両派の対立は人事の停滞を招き、保延4年(1138年)に藤原宗忠が辞任してからは右大臣が、久安3年(1147年)に源有仁が辞任してからは左大臣も空席となり、大臣は一人のみ(内大臣・藤原頼長)という状況になった。
白河院政下で不遇であった摂関家は、鳥羽院政が開始されると藤原忠実の女・泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃となり息を吹き返した。関白の藤原忠通は後継者に恵まれなかったため、異母弟の頼長を養子に迎えた[2]。しかし康治2年(1143年)に基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになった[3]。
久安6年(1150年)正月4日に近衛天皇は元服の式を挙げると、同月10日には頼長の養女・多子が入内、19日に女御となった。しかし2月になると忠通も藤原伊通の女で大叔母にあたる美福門院の養女となっていた呈子を改めて自身の養女として迎えたうえで、鳥羽法皇に「立后できるのは摂関の女子に限る」と奏上、呈子の入内を示唆した。劣勢の忠通は美福門院と連携することで摂関の地位の保持を図ったのである。当の鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不能な段階に入っていた。同年9月、一連の忠通の所業を腹に据えかねた忠実は、大殿の権限で藤氏長者家伝の宝物である朱器台盤を摂家正邸の東三条殿もろとも接収すると、忠通の藤氏長者を剥奪してこれを頼長に与えたばかりか、忠通を義絶するという挙に出る。しかし鳥羽法皇は今回もどちらつかずの曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で、頼長には内覧の宣旨を下した。ここに関白と内覧が並立する前代未聞の椿事が出来することになった。
内覧となった頼長は旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により「悪左府」と呼ばれ院近臣との軋轢を生むことになる。仁平元年(1151年)には藤原家成の邸宅を破却するという事件を引き起こし、鳥羽法皇の頼長に対する心証は悪化した。このような中、仁平3年(1153年)に近衛天皇が重病に陥る。後継者としては崇徳の第一皇子・重仁親王が有力だったが、忠通は美福門院の養子・守仁への譲位を法皇に奏上する。当時、近衛天皇と面会できたのは関白忠通らごく限られた人に限られており、鳥羽法皇は忠通が権力を独占するために嘘をついていると信じてこの提案を拒絶、鳥羽法皇の忠通に対する心証は悪化した[4]。しかし、美福門院と忠通は崇徳の院政を阻止するために守仁擁立の実現に向けて動き出すことになる。
久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇は崩御する。後継天皇を決める王者議定に参加したのは源雅定と三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王・守仁親王・暲子内親王が上がったが、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった[5]。突然の雅仁擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で近臣の信西の策動があったと推測される。また、幼少の守仁が即位をしてその成人前に法皇が崩御した場合には、健在である唯一の院(上皇・法皇)となる崇徳上皇の治天・院政が開始される可能性が浮上するため、それを回避するためにも雅仁が即位する必要があったとも考えられる[6]。この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、事実上の失脚状態となっていた。忠実は頼長を謹慎させパイプ役である高陽院を通して法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が死去したことでその望みを絶たれた。
新体制が成立すると、後白河と藤原忻子、守仁と姝子内親王の婚姻が相次いで行われた。忻子は待賢門院および頼長室の実家である徳大寺家の出身で、姝子内親王は美福門院の娘だが統子内親王(待賢門院の娘、後白河の同母姉)の猶子となっていた。待賢門院派と美福門院派の亀裂を修復するとともに、崇徳・頼長の支持勢力を切り崩す狙いがあったと考えられる。

ところが、新体制の基盤がまだ固まらない保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れた。法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣にとっては重大な政治的危機であり、院周辺の動きはにわかに慌しくなる。『愚管抄』によれば政情不安を危惧した藤原宗能が今後の対応策を促したのに対して、病床の鳥羽法皇は源為義・平清盛ら北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて美福門院に差し出させたという[7]。為義は忠実の家人であり、清盛の亡父・忠盛は重仁親王の後見だった。法皇死後に美福門院に従うかどうかは不透明であり、法皇の存命中に前もって忠誠を誓わせる必要があったと見られる。法皇の容態が絶望的になった6月1日、法皇のいる鳥羽殿を源光保・平盛兼を中心とする有力北面、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏の源義朝・源義康が、それぞれ随兵を率いて警護を始めた(『兵範記』7月5日条)[8]。

それから1ヶ月後、7月2日申の刻(午後4時頃)に鳥羽法皇は崩御した。崇徳上皇は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、法皇は側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したという。崇徳上皇は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した[9]。葬儀は酉の刻(午後8時頃)より少数の近臣が執り行った[10]。

『保元・平治合戦図屏風』(神泉苑蔵)屋形から出る黒い鎧の武者が平清盛
鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検非違使の平基盛(清盛の次男)・平維繁・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られた(『兵範記』7月5日条)。翌6日には頼長の命で京に潜伏していた容疑で、大和源氏の源親治が基盛に捕らえられている(『兵範記』7月6日条)。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。藤氏長者が謀反人とされるのは前代未聞であり、摂関家の家司である平信範(『兵範記』の記主)は「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆している(『兵範記』7月8日条)。
この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される[11]。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。
7月9日の夜中、崇徳上皇は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。崇徳に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。白河は洛中に近く軍事拠点には不向きな場所だったが、南には平氏の本拠地・六波羅があり、自らが新たな治天の君になることを宣言して、北面最大の兵力を持つ平清盛や、去就を明らかにしない貴族層の支持を期待したものと推測される。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2020/10/11 19:07

どのレベルで、何文字程度で説明するのでしょうか?


中学レベルなら、「摂関政治や院政で全国に荘園が増え、その土地を武力支配するために、武士が活躍しました。その代表平氏と源氏です。保元の乱や平治の乱で平氏が、中央政治で力を持つようになりました。その頂点に立った人が平清盛です。しかし、貴族や天皇と対立するようになり、源氏との戦いに敗れました。」
高校レベルなら、この文章に武士を受領層とのかかわりやきぞくの「遙任」などを考え、中央政治の摂関政治と院政の対立の中でとらえるというのが一般的です。このように、中学レベルなら与えられた用語を順につなぎ合わせ、必要に応じて用語を足すやり方ですし、高校レベルなら「対立する集団」や「制度」を考えながら説明するということが重要です。いずれにしても、指示された言葉以外何を使うのかということを考える非治要さあるということです。
歴史を説明する場合は「流れ」・「内容の深さ」・「事項の関連性」の3点で必要な語句を考え、それを組み合わせるという考え方を持たないと、説明は難しいです。自分勝手に長い説明をしても、相手は理解してくれません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2020/10/11 19:08

教科書に書いてあります

    • good
    • 0
この回答へのお礼

学生ではないので教科書がないもので。

お礼日時:2020/10/11 19:08

平安時代後期には、摂関政治、荘園、院政があり、保元の乱もおき、平清盛もキーマンの一人で、武士が登場した社会である。



これでいいのかな。 教科書や参考書には、もっとましなことがかいてあるかしら。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!