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「万物は流転する」
ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言葉である。
これは深い真理である。

信仰も万物の一つであれば、信仰もまた流転し変化し進化発展すべきものではないでしょうか。
信仰においていつまでも神は信じるものでよいのでしょうか。
そろそろ神は信じるものという妄想から解き離れる必要があるのではありませんか。
神は信じるものではなく、神は感じるものであるという真実が必要ではありませんか。
21世紀の信仰において神は、信じる神ではなく、感じる神に進化発展すべきではありませんか?

A 回答 (10件)

如何なる神も絶対に存在していない世界を選択している私には一切関係ないことです


それはそれとし神が存在していないしていようとも神を意識する必要はない
神が我々人類の存在を脅かすことをしようものなら我々人類は自らの存在を守るべく神に戦いを挑み神を滅びさなければならない
その為に必要な知識や技術を構築し得るよう日々務めなければならない
神がそのようなことをしないとしても我々人類は神から独立しなければならない
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預言者は神を感じ、神の言葉を聞いていた。


紀元前から神託・預言を受けた人間は多いし、日本でも、奈良時代に数々の神託で知られた宇佐八幡の神官たちや、今でも死者の言葉を伝えてくれるイタコ(巫女)がいる。

今頃、「感じる神」を云うなんて、少なくとも4千年くらい遅い。
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この回答へのお礼

感じることと感じるふりをすることの違いは天と地ほどに離れている。

お礼日時:2020/12/17 16:49

「万物は流転する」のか???


「時間」は、流転するのか?
「空間」は、流転するのか?
時間は、過去から未来に流れる事、それ自体が時間の流転なのか?
空間が、加速膨張する事、それ自体が空間の流転なのか?
それとも、時間も空間も変化はせず流転はしないのか?
「感じる神」は、賛成です。信仰するモノでは無く、感じるモノなのです。
以下は、私が考察した諸々のメモです。

時間が無かったら,つまり,時刻も無い,瞬間も無い,時間的な幅が無い/ゼロなら「何」も「存在」できない。すなわち,「無(む)」です。
空間が無かったら,つまり,点も線も面も体積も無い,空間的な大きさ広がりが無い/ゼロなら「何」も「存在」できない。すなわち,「無(む)」です。
真空を「無(む)」だと言う人がいますが、超弦理論の弦/紐/膜やクォーク、素粒子、原子、物質、エルネギーの全てが無くても、真空には時間と空間はあります。従って、真空は、「無(む)」ではありません。

創世記では、「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」とあります。「はじめに」とは、時間を指す言葉です。「やみが淵のおもてにあり」とは、「やみ」や「淵」が存在しており、これらが存在できる「空間」がある事を意味しています。つまり、神が天地創造を開始した時には、既に時間は存在して時間が流れており、空間も既に存在していたと述べているのです。神は、時間も空間も神自身もやみも淵も創ってはいないのです。これらは既に存在していたのです。
では、これらを創ったのは何なのか? これらは何故、存在していたのか?
聖書は答えていません。

宇宙は、なぜ存在し、宇宙は、どうしてどのようにして始まったのか?
神が創ったのなら、
_神は、なぜ存在し、_神は、どうしてどのようにして始まったのか?
こう記述すると、宇宙と神が同じである事が解ります。

宇宙の「宇」は、空間を、「宙」は、時間を指しています。宇宙は、まさに、空間と時間、すなわち、「時空」なのです。
時間だけでも、空間だけでも、「存在」は、成立しません。この一方だけでは「存在」は成立しないのです。時間と空間の双方があって、初めて「存在」は、成立する事が出来ます。
宇宙は、なぜ存在している事が出来るのか? それは、「時間」が存在していて、「空間」が存在しているからなのです。
時間の無い宇宙をイメージ出来ますか?  時間が無い状態から時間が始まった/初めた/流れを開始した状態をイメージ出来ますか?
空間の無い宇宙をイメージ出来ますか?  空間が無い状態から空間が始まった/初めた/大きさ広がりを開始した状態をイメージ出来ますか?
出来ませんよね。と言う事は、時間の無い宇宙、空間の無い宇宙は、存在しない、ありえないと理解すべきと言う事なのです。
ビッグバンで宇宙が誕生して、時間も空間も誕生したのなら、ビッグバンの「前」は、時間は? 空間は? どうなっていたのか?との疑問が湧きます。
「無限大の大きさ広がりを持つ空間的に無限大の空間と無限大の過去から存在し無限大の未来まで流れ続ける時間的に無限大の時間が無限大の過去から共に既に存在している」。この時空/宇宙を「母宇宙」と定義します。この母宇宙の時空の量子論的な揺らぎが、我々が存在しているこの宇宙のビッグバンを138億年前に引き起こし、我々が存在しているこの宇宙は、母宇宙の「子宇宙」として、母宇宙の時空の中で誕生し、今も母宇宙の時空の中で加速膨張し続けていると解釈/理解すると、我々が存在しているこの宇宙が誕生する「前」の「時間」は? 「空間」は? と言う問いに、我々が存在しているこの宇宙が誕生する「前」は、母宇宙の時間が流れ、母宇宙の空間が広がっていたと答える事が出来ます。
それぞれが無限大の大きさと広がりを持つ「子宇宙」を無数に無限大個、その時空の中に持っているのが「母宇宙」で、母宇宙の中では、常に無数の無限大個の子宇宙が誕生して、それぞれが母宇宙の時空の中で収縮/安定/定速膨張/加速膨張などの成長を続けているのかも知れません。
こうした多数の宇宙が存在するとの考えを「マルチバース」と呼びます。
母宇宙は、どのように始まった/誕生したのかは、母宇宙の「定義」から、
「母宇宙は無限大の過去から時間と空間と共に既に存在している」と回答する事になります。なので、母宇宙に始まり/初め/起源/誕生は無いのです。

物理学は一大飛躍を成し遂げる可能性があります。ケプラーは1609年と1619年の著書でケプラーの第1,2,3法則を発表し、ニュートンが1687年の著書で万有引力の法則を発表する切っ掛けになり、1887年のマイケルソン・モーリーの実験は、1905年にアインシュタインが特殊相対性理論を1915-1916年に一般相対性理論を発表する切っ掛けになりました。
宇宙の加速膨張が観測され、ダークエネルギーやダークマターが提唱され、超弦理論や11次元のM理論などが議論されています。これらは、次の物理学の一大飛躍の切っ掛けとなる予感がします。
1900年にプランクが量子論を1905年にアインシユタインが相対論を創始して現代物理学が誕生し、それまでの物理学が古典物理学と呼ばれたのと同様に、2021-2030年に掛けて生み出される物理学は、今の現代物理学を過去のものとする、全く新しい「真新物理学」を創始するかも知れません。それは、1900-1905年頃の人に量子コンピューターや相対論的GPSの時間補正と言っても理解できないのと同様に、2020年の我々が「局所空間の通常空間における波乗り効果」と聞いても理解できない全く新しい物理理論と技術を生み出すかも知れません。全く新しい時空のイメージと次元理論を生み出し、任意の範囲の時空を通常空間の時空の中を波乗りをする様に滑らせ、何百万光年も離れた遥か彼方の銀河に極めて短時間で人や貨物を行き来させる技術を生み出すかも知れません。そうなれば、はくちょう座の方向の約600光年の彼方にある太陽に良く似た恒星ケプラー22のハビタブルゾーンを公転している岩石惑星ケプラー22bに移民宇宙船が大挙して押し寄せ、ネオ日本/ネオアメリカ/ネオチャイナ/ネオロシアなどが建国されるかも知れません。

宇宙人を「この宇宙に存在している知的生命体である」とすると地球に住む人類も該当します。人類がいるのに人類の他には、この宇宙に宇宙人はいないと言う方が無理があります。天の川銀河(銀河系)には約1000億個の恒星があると考えられています。その中に地球人と言う知的生命体が発生していると言う実績/事実があります。我々が存在している天の川銀河を含む局部銀河群の中で最大なのがアンドロメダ銀河で、アンドロメダ銀河は、天の川銀河の約2倍の恒星があると考えられています。天の川銀河でも最低1個の知的生命体を産んだ星(地球)があるのだから、その約2倍の恒星を持つアンドロメダ銀河には最低でも2個の知的生命を産んだ星がある可能性があります。

知的生命体は人型で無いかもしれない。wikipedia日本語版の記事「ケイ素生命」の様に、炭素/水素/窒素/酸素を主体とした炭素型の地球の生命体とは異なりケイ素を主体とした生命体の可能性もある。例えば、核分裂物質が豊富な環境でケイ素生命体が誕生し、体内に核分裂物質を取り込み核分裂エネルギーで生命活動を維持するのかも知れない。
または、太陽の光を浴びて光合成の様にして生命活動に必要な物質やエネルギーを得るのかも知れない。
そうであれば地球の生命体の様に他の生命体を捕え/殺し/食べ/消化し/吸収し 生命活動を維持するエネルギーを得る必要は無いので、食べる「口(くち)」は無く、自己の体内から電磁波を発信し、外部の電磁波を受信し外部の情報を知覚し、他の個体とコミュニケーションするなら、目も耳も喋る「口(くち)」も無く、呼吸が不要なら鼻も無く、手足も無く、触手の様な体の器官で物を掴み、銀河間航行する宇宙船を組み立て、宇宙狭しと駆け巡り、壮大な宇宙文明を築いているのかも知れない。

2045年にコンピューターの知能は,全人類の知能の総力を超える「技術的特異点/シンギュラリティ」に達するらしい。人間は脳にチップを埋め込み,スマホやPC,マウスやキーボードなどを使わず,脳の中に投影されるスクリーンの輝点を目で追うと,その脳の電気信号をチップが検出し,文字の入力やクリック/ドラッグ/ドロップなどが可能になり、人間は、常時、ネットとワイヤレスで接続して、超高度に発達した人工知能AIと通信し、世界中の情報を操作し、情報処理する事が可能になる。
テレビ電話で貴方Aが日本語でアメリカの人Bに質問すると瞬時に流暢な英語に翻訳されBに聞こえ、Bの英語の答えは瞬時に流暢な日本語に翻訳されAに聞こえてくる。この瞬時の翻訳は全世界の全ての言語間で相互に可能になる。
高度に発達した人型ロボットが、一般家庭で料理/洗濯/掃除/育児/介護/買い出し/ゴミ出しなど全ての仕事をし、医療/法曹など全業種の全職場で働くだろう。人間には、研究開発や芸術などの限られた仕事しか残らないだろう。
地球に広がり尽くし、地球から溢れた人類は、無限のキャパシティを持つ、最後のフロンティアである「宇宙」に進出して行くでしょう。それは、好奇心と拡散性が人類の「性(さが)」だからです。
下記のブログを是非、御覧下さい。
http://blog.livedoor.jp/satou_hiroshi_4649/archi …
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この回答へのお礼

神について真実を語ろう。
神は時空間全体に蔓延している普遍的な存在である。
神は言わば時空間全体に広がる場である。
これをゴッドフィールドという。
統一場理論や万物の理論もゴッドフィールドの中に既に組み込み済みである。

お礼日時:2020/12/17 16:48

★ (№5お礼欄)


神は想定するものではなく、時空の至るところ、あらゆる場所場所に既に存在するのである。
☆ 哲学でないばあいには それでよいという一つの見方が できる。
そしてそれは 特殊絶対性として持たれる神――ないし神観――である。

また 人間の設定する座標によっては捉えられないゆえ 神は霊性として遍在するという一つの帰結を得る。




(もう気が進まぬ)。
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見え方、フェイセットが流転しているということだ。



それ以外に何が有り得る? 哲学として。
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この回答へのお礼

神は時空間全体に蔓延している普遍的な存在である。
神は言わば時空間全体に広がる場である。
これをゴッドフィールドという。

お礼日時:2020/12/17 16:43

一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対的批判



0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 神は 想定するというかたちを哲学は採らざるを得ない。

0-1. 想定(アブダクション)に際して シューニャター(空)として規定することはできる。⇒[7‐B]



1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。

1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。

2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。つまり 人間がこしらえるということだ。

2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に基本として対応する概念》にもとづくことになるからには―― 思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。

2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒[#0]

3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。

3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。

3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。





4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え ており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。

5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

 経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)

  可知(認識しうるものごと)

   既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)
   未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)

  不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明
      も間違い得る)

 非経験の場(絶対性)

   非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)


6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。

6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。

【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド(*ヒラメキ**良心)
----------------------------

【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (*直観) 
【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(**ヤマ
                      シサ反応・恥ぢ)


7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター);ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー)
      / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如
   霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)
   霊:われ(自然本性 +α )

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

  I. タオイズム:道人一如
   道:かみ
   人:われ

8. したがって これら前項の霊なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。

8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。

8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。

9. これが 《一般絶対性》である。






10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。

11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前が人によって異なっているだけではなく それぞれの信仰が――対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。

11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。

12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。

12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。


13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。



14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。

14-1. [12-1]に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。

14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。

14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。・・・〔ダ・カーポ〕。

        

15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。

16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《思想》である。

16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。

16-2. 一般にオシヘは 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。

16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。

16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。



17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。


18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。

18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。

18-2. この寝技は 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。

18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。
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この回答へのお礼

>0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 神は 想定するというかたちを哲学は採らざるを得ない。

まずここから既に間違い。
神は我々が知る時空の至るところ、あらゆる場所場所におわします。
神がいない場所は存在しない。
神は想定するものではなく、時空の至るところ、あらゆる場所場所に既に存在するのである。

お礼日時:2020/12/17 13:06

ギリシャの神々という様に、ヘラクレイトスの時代には神が大勢おって、流転していた。

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この回答へのお礼

ヘラクレイトスの時代に神が大勢いたってのは、神の一つ一つの側面、見え方、フェイセットってことだ。

お礼日時:2020/12/17 13:10

それなら、22世紀、23世紀~40世紀、の時は、どうしましょう?

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実態のないものを「感じる」ことが「信じる」ことなのじゃないでしょうか。

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万物流転は良いとしても、信仰について質問者様のおっしゃるように変化すべきと思える根拠が何も示されていないので、ご意見は却下ですね。

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この回答へのお礼

>変化すべきと思える根拠

現代の既成宗教はことごとく腐敗しています。
ローマ教会は奇跡認定ビジネスというペテン業を始めていることは周知の事実です。
日本の仏教はほぼ全て葬式仏教と化し、戒名ビジネスにどっぷり漬かっています。
もはや信仰は存在しません。

信仰は流転すべきときです。

お礼日時:2020/12/17 11:43

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