1. オシへをふつう一般に持たれる経験思想であるとしてまなぶ分には 何の問題もない。
2. オシへは 人間の言葉で表わされた思想であり《考える》べきものであるのに 《信じる》ものとする・すなわち無条件で心に受け容れるものであると言い張るなら それは 思考停止の状態に入ることである。
3. オシへを神として思考停止の状態に入り しかも――組織宗教にあってヒエラルキアなる上下の権限関係のもとに――そのオシへを同じく信じなさいと説くのは ものごとの判断がままならぬ精神の状態に落ち入ったことを意味する。
4. 宗教という宗教は――そのオシへを神とするかぎり―― アホンダラ教であると批判せざるを得ないのではないか?
A 回答 (30件中1~10件)
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No.30
- 回答日時:
中学高校で習ったと思うが、命題Pが偽のとき、命題Qの真偽にかかわらず、命題「PならばQ」は必ず真となる。
これは真理値表を書いてみれば分かることだろう。まず、この基本的な知識がご質問者には欠けているように思われる。次に、命題P、Qを次のように定義しよう。
P:組織宗教は考えるべきオシへを信じるべき神とする
Q:組織宗教は思考停止の状態に入るしそのことを信徒におしつけている
ご質問者は「PならばQ」とおっしゃるのだが、Qは事実に反している。にもかかわらず、一見「PならばQ」が論理的なように感じるのは、Pが偽であることに気付きもせず前提にすえているからだろう。
例えば、仏教では「仏法僧」と言い、仏(仏陀)と法(教え)と僧を三つの宝に挙げる。仏陀と教えは同一とは限らない。「考えるべきオシへ」とおっしゃるのはご質問者の勝手な言い分であって、そもそも教えは(宗教に限らないが)「先生の言うことを信じる」ことと「学生が自分でも考えてみる」ことの2つから成り立っている。信じることを排除するなら、誰の教えも要らず、独学すればいいことになる。しかし独学は能率が悪いぜー。
信じることと考えることは互いに背反ではない。ご質問者も「ひとは《信じている》ことがあると同時に《考えている》ことがあり得ます」とおっしゃる。つまり、命題Pは成り立たないのである。
教えを受けることは信じることと考えることの止揚であって、宗教はむしろ、教えを受けた者が自分でもよく考えてみて、だんだんと信じるに至るまで待ってくれるようである。そうでなければ堅い信仰に成長しないからである。
次に、命題R、Tを次のように定義しよう。
R:ヒエラルキアにあっては、権限のある地位が上の者が下の者に、オシへを無条件に心に受け容れなさい(つまり信じなさい)と説く
T:自分も相手をも思考停止に落ち入らせる
ご質問者は「RならばT」「について問うています」とおっしゃるが、前述のようにRが偽のとき「RならばT」は必ず真である。問う意味がない。
例えば、ヒエラルキーの典型、上意下達の組織とされる旧日本軍においてさえ、上官の命令は絶対と言いつつも、前線では大尉(中隊長クラス)が下士官たちの集団的意志に屈していることがあった。大尉と下士官の中間の、士官学校出たての少尉などは、古参下士官にあなどられる始末だった。中隊というのは約200人だったり、もっと少なかったりしたが、赤紙一枚で召集された兵士らにとっては小宇宙のようなものである。
ましてや、住職・檀家・講の関係性において、「オシへを無条件に心に受け容れなさい」などと説くことはあまりない。つまり命題Rは偽だろう。ご質問者はヒエラルキーの実態についてほとんど考えたことがないのではないか。
逆にご質問者に問いたいが、寺との付き合いはどうなさっているのだろう。檀家から外れているのだろうか。まったくの無宗教でもないと思うが。やっぱり、ご質問者は自分の身の丈に合わない大風呂敷の宗教論を広げているのではあるまいか。
★ ~~~
P:組織宗教は考えるべきオシへを信じるべき神とする
Q:組織宗教は思考停止の状態に入るしそのことを信徒におしつけている
Pが偽であることに気付きもせず前提にすえている
~~~
☆ いいえ。Pは 《人間性――考えると信じるとの峻別――に悖ることだが それを実際に行動に現わすなら》という内容の条件を示しています。
★ 「考えるべきオシへ」とおっしゃるのはご質問者の勝手な言い分であって、そもそも教えは(宗教に限らないが)
☆ ここでは 《宗教のオシへ》に限っているのです。
★ 「先生の言うことを信じる」
☆ こういうふうに経験事象(=《先生の言うこと》)について用いる《信じる》は 《無条件で非知なるナゾを心に受け容れる》という《信じる》の原義から派生した意味と用法なのです。《或る発言についてその人を信頼し確かな内容のことだと信用する》といった意味であり 神の場合とは別です。
★ 信じることと考えることは互いに背反ではない。ご質問者も「ひとは《信じている》ことがあると同時に《考えている》ことがあり得ます」とおっしゃる。つまり、命題Pは成り立たないのである。
☆ その通り《Pは 人間の自然本性にさからった無効の事態》です。しかも 《無効なる不法行為をじっさいにおこなうなら》というのが Pです。
★ 教えを受けることは信じることと考えることの止揚であって、宗教はむしろ、教えを受けた者が自分でもよく考えてみて、だんだんと信じるに至るまで待ってくれるようである。そうでなければ堅い信仰に成長しないからである。
☆ オシへは 信仰をとおして得られるヒラメキを 経験思考に移して立てた命題です。そして 言わば信仰の対象である神〔という正解〕へとみちびく補助線なのです。信仰のための神の《依り代》と言ってもよい。
いづれにしろ 《信じる》のは オシへではなく 非知なる神です。(先生の発言を信じるという用法は あくまで《神を信じる》という原義があってその仮象として扱っているのです)。
★ 住職・檀家・講の関係性において、「オシへを無条件に心に受け容れなさい」などと説くことはあまりない。
☆ 稀にでもあるのだから その場合を取り上げ問題としている。
★ ご質問者に問いたいが、寺との付き合いはどうなさっているのだろう。
☆ 檀家から外れています。
No.29
- 回答日時:
一言で回答するなら、ご質問者の説は「話の寸法が合ってない」と思われます。
ご質問文は、おそらく哲学の立場から「宗教は」「アホンダラ教である」と断じていらっしゃる。しかし振り返れば、「哲学は神学の婢(はしため)」と見なされる時代が長かったのであり、現代では哲学よりも(個別)科学が優勢である。哲学が諸学の女王だった時代は短かった。
延べ時間・人数から言っても、神学のほうが哲学より上手(うわて)なくらいだろう。ご質問者のように、「宗教という宗教は」「アホンダラ教である」というのは、身の程知らずの慢罵ではないか。
宗教・哲学・科学の三者を考えてみよう。「科学はどうせ素朴実在論だろう」と思われがちだが、アインシュタイン以降の現代科学は、マッハ流の現象学などに基礎をおいている。量子論ともなれば、ますます素朴実在論から離れるようだ。
そのマッハの「思考経済」という考え方は、中世の神学者による「オッカムの剃刀」と似ている。ご質問者は宗教を「思考停止の状態に入ること」とおっしゃるが、その逆にキリスト教の坊さんたちはカミソリのように思考を研ぎ澄ましていたのであり、それに由来する思考習慣は(マッハを通過して)現代物理学を切り開くところにまで役立った。
物理学に限らず、歴史をさかのぼればコペルニクス(地動説の天文学)やメンデル(遺伝学)はキリスト教の坊さんだった。ダーウィン(進化論)も大学では神学を勉強したという。ビーグル号に乗り込んでガラパゴス諸島へ行ったのは、そのあとである。詳しく言うと彼は神学部ではなく、もらった学位も学芸学士(Bachelor or Arts)だったそうだが、彼の父が息子を牧師にしようとしたのは事実らしい。父も祖父も高名な医者で、もともとは跡を継がせたくてエディンバラ大学医学部へ送り込んだが、学業でしくじったため、せめて坊さんになってくれとケンブリッジ大学で神学を学ばせた。彼はそれにもしくじって(卒業にはこぎつけて)南の島へ冒険に行ったのだった。
ダーウィンは進化論の創始者のように言われるが、実は素朴な進化論はそれ以前からあって、彼は実地調査と深い思考により、進化論を科学的に裏付けたのである。ご質問者は宗教について「ものごとの判断がままならぬ精神の状態に落ち入っ」ているというが、とてもそうは思えない。むしろ、神学を学ぶことで思考力が鍛えられていた。現代のインチキ哲学屋など、その足元にも及ばないだろう。
また、ご質問文に即していえば、「考える」ことは「信じる」ことが核になっているのではないか。
たとえば量子力学の泰斗、ハイゼンベルクの『部分と全体』を読むと、新カント学派の哲学者との(存在論・認識論的な)論争が出てくる。そこでハイゼンベルクは「描像」と盛んに言うのだった。私はドイツ語ができないけど、原文ではBildなどとなっているのだろうか(間違ってたらごめんなさい)。英語で言えばpicture、絵であって、ご質問者のおっしゃるような「言葉で表わされた思想」ではない。
それでもハイゼンベルクは、自分の心の中の描像(たとえば量子現象のイメージ)を信じており、それについて考え続ける。新カント学派(当時ドイツで一大勢力だったらしい)の哲学者の言葉に対しても、ひるむことなく頑強である。
むろん、「無条件で心に受け容れるものであると言い張る」わけではないが、言葉で表せない描像を信じることを否定するのは、考えることの否定ではあるまいか。
冒頭で述べた「話の寸法が合ってない」に戻るなら、私のような凡庸な日本人にとって宗教とは、寺の檀家であるということくらいで、ご質問者がおっしゃる説は大げさな哲学ごっこにしか見えない。
お寺の住職さんは、思考停止どころか、しきりに頭を働かせて銭勘定しているようで、あからさまにお布施の要求はしてこないけど、法話を聴いてると(檀家として寺の役員を務めると、聴きに行かなければならないのだ)、仏の教えもそこそこに、地域社会の経済情勢の話をしたりする。「聴きに行かなければならない」と書いたが、うちの宗派は在家主義的というか、「講」が盛んで、住職よりむしろ檀家たちが主催するという慣わしになっているらしい。檀家も宗教のヒエラルキーの一員のようだ。
私のような凡人も住職も科学者も、それぞれの寸法で宗教や「信じる」ことと関わり合っている。一方、ご質問文は大風呂敷で、ご質問者の寸法と合ってないのではないか。
ご回答をありがとうございます。
★ 一言で回答するなら、ご質問者の説は「話の寸法が合ってない」と思われます。
☆ はい。伺います。
★ 現代では哲学よりも(個別)科学が優勢である。
☆ 生きる=生活するは 哲学することである。
哲学するとは 生活に直接かかわる自己表現(要するに 生活日常)を別とすれば 芸術と科学とである。
というふうに捉えるなら 哲学は――ぜんぶを知るわけではないが―― 全体を捉えていると思われる。
その結果をここで述べている。
★ 宗教・哲学・科学の三者を考えてみよう。
★ 宗教を「思考停止の状態に入ること」とおっしゃる
☆ 《組織宗教は 考えるべきオシへを信じるべき神とするなら 思考停止の状態に入るしそのことを信徒におしつけている》です。
★ 「考える」ことは「信じる」ことが核になっているのではないか。
☆ 次のように捉え提案す。
○ 《非知》とは――対象別の認識の区分―― ~~~
経験
可知
既知
未知
不可知(知り得ないと証明された)
非経験
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)
○ 非知なる非経験の場 ⇒ 《非思考の庭》 ~~~
非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
____________________________
思考の緑野(コギト=かんがえる) :思想・宗教
感性の原野(センスス・コムニス=かんじる) :共通感覚
___________________________
★ むろん、「無条件で心に受け容れるものであると言い張る」わけではないが、言葉で表せない描像を信じることを否定するのは、考えることの否定ではあるまいか。
☆ 前項でしめしましたように ひとは《信じている》ことがあると同時に《考えている》ことがあり得ます。
★ 檀家も宗教のヒエラルキーの一員のようだ。
★ 私のような凡人も住職も科学者も、それぞれの寸法で宗教や「信じる」ことと関わり合っている。
☆ ヒエラルキアにあって 権限のある地位が上の者が下の者に オシへを無条件に心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くなら それは 自分も相手をも 思考停止に落ち入らせることになりますよと 言っています。それについて 問うています。
No.26
- 回答日時:
専門医でも三十年、治せないことが失礼ですが、あなた様に私を治せるとは思っていません。
そんなことはどうでも良いです。
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