1. 一般的に言って 《真実》は 有限の存在である人間の認識や判断にもとづいてくだした相対的な主観真実を言う。
2. 《真理》は 絶対性としての真実内容。言いかえると 人間の知性を超えている。真理の内容としての真実性 これは 人間の能力で知り得るか知り得ないか それが知り得ないナゾである。
3. 《事実》というのは 知り得ない客観としてあたかも絶対性たる真理のごとくであるがそれは 飽くまで経験的な事物や現象について言っている。ゆえに 絶対性ではあり得ない。つねに人間の知性の――自然に当然の――対象である。
4. 事実について人間がおこなう認識は――つまり 《事実認識》は―― おのおの主観としてこれがただしい認識だと考えてくだした判断として――つまりは 主観真実として――成っている。
4-1. 世界たる事実の認識ないし世界観は それぞれ主観のくせをまぬかれない仮説である。
5. 仮説の中で一般に多くの同感を得た或る主観真実〔としての事実認識〕が 共同主観としてまた定説として 共有される。
5-1. 定説も つねに自由な批判を受ける姿勢にありそこからさらに高い次元のあたらしい共同主観へと揚げてすすむことになっている。
☆ ほとんど定義の問題ですが ご見解をどうぞ。
A 回答 (8件)
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No.1
- 回答日時:
主観的事象認識が「事実」では、と思う。
菅首相がしばしば「~というのも事実ではないでしょうか」と過去の自分の判断を正当化する根拠として発言する。
その時の「事実」は、発言後にファクトチェックされ、実際の事柄と食い違っていたり、前提が違っていたり、限定的な局面を殊更誇張した者であったりと、主観的評価で語られていたことが明らかになっている。
つまり、「事実」が主観的評価で選別・加工された認識を述べたものだということ。
「A方向から見た事実とB方向から見た事実の相違」という説明がなされるのは、主観的認識であることが前提。
一般的には、「真実」というのは誰であれ同じ事象を認識する、特定の評価を伴わない客観的な現実をいうと思う。
「真理」というのは、物事の因果を特定のロジックにあてはめて必然性を印象付けるために用いられ、「定理」ほどの必然性も合理性もない、限られた価値観(宗教観)における教化政策に用いられる。
事実認識はまさに主観的評価で選別・加工された認識の上塗り。
「世界たる事実の認識ないし世界観」が仮説あるいは主観的評価による推論であろうというのはそのとおりだが、バックボーンとなる思想が利己的であるか理性的であるかによって評価は異なる。
「定説」は特定の学派、学説が一定の合理性、客観性を根拠として、ひとつの共通する因果関係にあてはまる事象の事例が多数で、例外が無い、あるいは極めて稀であることにより、その因果関係に必然性が認められると評価されていること。
ご回答をありがとうございます。
★ 主観的事象認識が「事実」では、と思う。
☆ 事物および現象 すなわち経験事象 についての認識が 主観真実としての事実認識であると思います。
★ ~~~
菅首相がしばしば「~というのも事実ではないでしょうか」・・・
その時の「事実」は、・・・主観的評価で語られていたことが明らかになっている。
つまり、「事実」が主観的評価で選別・加工された認識を述べたものだということ。
~~~
☆ そうですね。事実=Y とし 人間=Z としますと:
事実は――いわゆる客観と呼ばれており―― そのまま Yです。
事実認識は 記号でしめせば Y-Zi でしょうか。任意( i )の人(Z)の事実についての認識というかたちです。
つまり 事実認識には 主観ごとの片向き(バイアス)がまぬかれない。
★ 「A方向から見た事実とB方向から見た事実の相違」という説明がなされるのは、主観的認識であることが前提。
☆ これは 視点や視角のことでバイアスがかかる場合ですね。
★ 一般的には、「真実」というのは誰であれ同じ事象を認識する、特定の評価を伴わない客観的な現実をいうと思う。
☆ ここは 見解を異にします。《真実》と言った場合には あくまで人間〔の知解作用〕が介入しています。つまり 主観真実です。
★ バックボーンとなる思想が利己的であるか理性的であるかによって
☆ 主観のバイアス――あるいは価値判断――が介入します。しない場合は 《事実》そのものを言い 客観とも呼ばれると思います。
★ 「真理」というのは、物事の因果を特定のロジックにあてはめて必然性を印象付けるために用いられ、「定理」ほどの必然性も合理性もない、限られた価値観(宗教観)における教化政策に用いられる。
☆ それが 事実についての主観による認識および価値観をともなった判断のことだと見ます。そして やっぱり主観による認識または判断として 主観真実なんです。
そこに要素要因をめぐる規則性などの一般性が得られているとすれば 共同主観になります。
仮説が 理論になり定説になります。およそ普遍性を捉えた理論は 定理とよばれます。
あと 次のようにも述べられています。:
★ 「定説」は・・・その因果関係に必然性が認められると評価されていること。
No.4
- 回答日時:
憲法は事実でよいでしょうか。
真実ではない、科学的事実でもいに平和を経験した経験的事実でしょうか。ないですよね。
ということは事実ではないのでしょうか。
じっさ
ご回答をありがとうございます。
いやぁ 事物や現象は 経験事象としてそのまま《事実》だと思います。
文献という事物です。
その思想を得たという現象もあります。
平和を希求するという心的現象も。そして 心の動きとしては――意志行為であるなら―― 主観真実です。
主観真実を持ったという現象があり その真実の内容が ただの想像の世界にとどまる・つまり事実ではない ということもありですね。
No.5
- 回答日時:
こっちにも書き込みますね
①個人の主観による真実と
②集団による真実と
③空間ないでおこる真実と
3つに分けてかんがえると
①と②と③てのは人類の知識や経験から獲得した真実であって
時には真理にたどり着いたりもする
でも③の真理てのは
万物は流転してるだけで、真理なども存在してない
みたいな捉え方をする人もいてて
流転が真実であって真理なんて捉え方もできるけど
流転に人の意識や意思すら不要みたいな捉え方も出来ますもんね
空間すら、知覚や認識しようと試みてるけど
もしからしたら、まだまだ人が知覚や認識できない場所がある可能性なんかありそうで
次元てな考え方すらひっくり返してしまうような( ̄~ ̄;)想像できないけどね
そこら辺の話になると
人間が知覚できない事柄だから
真実や真理の欠片すら不要なのかもしれないですね
回答は、bragelloneさん
定義の問題はワシは不得意ですよ~
(  ̄▽ ̄)にっこり
でも、わかりやすい定義ですね
読んだ感想とあちらの問い掛けとで
こんな回答?感想にはなりましたよ
わしやけどさん ご回答をありがとうございます。
★ ~~~
万物は流転してるだけで、真理なども存在してない
みたいな捉え方をする人もいてて
流転が真実であって真理なんて捉え方もできるけど
流転に人の意識や意思すら不要みたいな捉え方も出来ますもんね
~~~
☆ 《定義が得意なブラジュ君》としましては こうなります。:
(あ) 《人の意識や意思すら不要》なものごととは 次元の違うふたつのものがあります。
・ 経験事象として《事実(あるいは 客観)》と
・ 非経験の場ないしチカラとして《真理》とです。
(い) 真理は 絶対性であり 人間の知性のかかわる主観および客観をも超えています。〔客観とは 知性の及ばない(その近似値でしか捉え難い)事実の内容であり あくまで人知との絡みにおいてのものです〕。
(う) 絶対性である真理は 有るか無いかで認識する事実を超えているからには 一方では 《知りがたいけど 万物のみなもととしてそりゃぁあるさ》派と 同時に他方では:
★ 万物は流転してるだけで、真理なども存在してない
☆ と見る派とがあり得ます。
☆ この理論は 次の条件による区別としての各論を超えて有効だと言わなければならない基礎です。
★ ~~~
①個人の主観による真実と
②集団による真実と
③空間ないでおこる真実と
3つに分けてかんがえると
・・・
~~~
どうでしょう?
*
・ 事物および現象= 事象
・ 超自然および超経験= 非経験の場ないしチカラ
・ 自然= 為
・ 文化= 非自然または反自然。ほぼ社会のこと。
事象は 自然と社会(文化)とから成る。
ヒトも 自然(未文化)と文化とから成る。
・ 現実= 事象についてその中にいるわれをことさら加えた視点。
あるいは 事象とともにあるわれわれの生きる世界という視点に立って 経験事象をも超えた非経験の場にも色気を出して取り組もうかというウゴキを見せつつあるときの人間。
・ 集団については ふたりの個人どうしの二角関係を単位体としてその基礎理論を捉えるとよいと思います。
・ 二角関係の基礎は むろん 個人としての人間でありおのおのの《われ》です。
No.6
- 回答日時:
集団が2人や3人くらいだと
まだ個人の主観として、話し合ったりできるけど
何千・何万・何億みたいな
日本人独特の空気だと
空気が真実になってしまいますもんね
明確な個人の主観が無い、集団の真理
これが1番恐いかも?
★ 集団が2人や3人くらいだと
まだ個人の主観として、話し合ったりできるけど
☆ の二角関係(精確を期すなら もう一角を加えて三角関係)が 基礎だと言ってよいと思います。その基礎の複合および全体観からの総合になると思います。
個――孤立ではなく 孤独つまりは《孤独関係》たるわれ――についての人間論が 基礎の基礎ですが。
★ 何千・何万・何億みたいな
日本人独特の空気だと
空気が真実になってしまいますもんね
☆ なりません。なったみたいに思えるだけです。錯覚です。間違いがあるなら あくまで間違いをふくむ《あたかも真実》というに過ぎません。
ウソがマコトかは はっきりしています。それは 一人ひとりの感性において ヤマシサ反応が――良心のハタラキとして――起きるからです。あっ ヤバいという感覚が起きれば ウソなんです。
★ ~~~
明確な個人の主観が無い、集団の真理
これが1番恐いかも?
~~~
☆ たしかにその同調圧力には 屈服するしかない情況が醸し出されます。
それをホントウのことだと信じた振りをしなくてはならない場合です。
でも そこまでです。集団のクウキは あくまで うわっつらの一時的な心の動き(つまり 心理)にしか過ぎません。
ですから 《事実と 事実認識たる主観真実》の問題は 個人としての人間論ないしその二角関係論(特には まなざし〔を上からそそぐ vs そそがれる〕関係論)で たいていは認識し議論することが出来るかと思いますよ。
No.7
- 回答日時:
人知の及ばないところ
( ̄~ ̄;)
コロナ渦は人知の及ばないところになってきてて
人知が入れば入るほど
紆余曲折してますもんね
人知が入らないまま、くたばるのはいやだけど
人知が入って、さらに難儀になってますもんね
★ 人知の及ばないところ
☆ 精確には これでは あいまい(両義性)です。
○ 人知が及ばないというのはそれが 証明されたかどうか。こう絶えず問われ続けますから。
☆ つまりは:
○ 人知を超えたところ〔なる場ないしチカラ〕の問題が 真理です。
( ̄~ ̄;)
☆ ひょっとしたら 或る主観の奇跡またはトンデモ仮説として 《真理が分かった つまりは おれは神を見た》ということが起きるかも分からないのです。
人知を超えた場というのは ひょっとしたら 人知が及んでいるかも――それは ついぞ証明し得ないんですが――分からないんです。
だから 真理なんです。神なんです。《ないかも知れないし あるかも知れない。その可能性が つねに同時に起きているんです。証明し得ないけれど ひょっとしたら あなたは神に会ったかも知れないんです》。
★ コロナ渦は人知の及ばないところになってきてて
人知が入れば入るほど
紆余曲折してますもんね
☆ でも 部分的には 《およぶところ》もあるぢゃないですか。
★ 人知が入らないまま、くたばるのはいやだけど
人知が入って、さらに難儀になってますもんね
☆ 《人知が入って、さらに難儀になっている》と知るのは 人知です。なお知り得る領域があるのだと見ます。希望においてあゆみましょう。
No.8
- 回答日時:
嘘がまことにかるのが
1番の強敵であって、狂的でもありますもんね
特に、真理や真実てな事柄じたいを
嘘だと思われてるかたからしたら
( ̄~ ̄;)真理や真実なんて不要ですもんね
個人の真理や真実って
その人の核心にあるから重要視されてて
生きている限り、追い続けたりもしますもんね
個人の真理や真実と、集団から発せられる真実
敵対しても相手が集団てな存在しない意識体だったりしますもんね
でも、集団てな無意識の集合体なれど
真理や真実てのは存在しなきゃ
集団として存続されないのは、不思議な話でもあるんですけどね
★ 嘘がまことにかるのが
1番の強敵であって、狂的でもありますもんね
☆ でも ナチスの独裁制や現人神による全体主義をすでに経験しましたから いまのシーチンピン専制は ちゃんちゃらおかしいとすでにじゅうぶん分かるようになっています。
社会全体についての監視体制によって 異端分子を見つけたらただちに排除するということによって そういう秩序を安定的に実現する――こういう社会のあり方に われわれは金輪際屈服することはありません。
ケイ&マコの奸計が見抜けない現代人は もういません。
★ ~~~
特に、真理や真実てな事柄じたいを
嘘だと思われてるかたからしたら
( ̄~ ̄;)真理や真実なんて不要ですもんね
~~~
☆ ですから 少なくとも哲学は そのような混乱に際して交通整理をよくするようにその務めを持っています。用語の整理と定義が 基礎です。
定義をしておけば 要不要の問題ではなく自由に使っていいのであり しかもその表現は間違っていますよと 自由に言えます。
★ ~~~
個人の真理や真実って
その人の核心にあるから重要視されてて
生きている限り、追い続けたりもしますもんね
~~~
☆ 真理は 別です。神のことです。その定義に合っていないなら 合っていませんよと指摘してすすめて行けます。
★ ~~~
個人の真理や真実と、集団から発せられる真実
敵対しても相手が集団てな存在しない意識体だったりしますもんね
でも、集団てな無意識の集合体なれど
真理や真実てのは存在しなきゃ
集団として存続されないのは、不思議な話でもあるんですけどね
~~~
☆ ですから ここでも基礎が飽くまで《個人としての人間論》です。ウソかマコトかは 良心のハタラキとしてむしろ感性において ヤマシサ反応で決まります。
そんぼ基礎というのは 集団であろうが無意識的であろうが 飽くまで問題は《表現された事実》をめぐって言論が繰り広げられるということです。
言いかえると 真実か虚偽かの問題は 単位体として基礎を成す《われなる個人》が 固有にその自己表現を成すということから出発します。
クウキのように誰が発言したか分からない場合でも 誰か一人がいまこの場この情況にはこれこれの同調圧力がただよっているではないか と言って言葉で表現したなら そこから出発すればよいわけです。
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