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三韓征伐の結果について、日韓で全くちがうのですが、どちらが正しいのでしょうか?

明治維新150年周年のころ、西郷隆盛にっいていろいろと調べた中に三韓征伐というのがあって、即座にでっちあげと気づいたのですが、その時、日本書紀に記載の内容も歴史的な事実はないと思っていました。

ところが、今は韓国ドラマの広開土太王にはまっていて79話でその話が出てきました。
新羅に侵攻した百済、伽耶、倭の連合軍を広開土太王自らが歩兵と騎兵5万を率いて出陣し撃破した、というシーンがありました。

その時のシーンの彼の言葉です。
「・・・だが、復讐は新たな復讐を呼ぶだけだ。朕は、これまでに倭が犯してきた全ての悪行を許そう。さればむやみに海を渡ったり、朕の国にいかなる害も与えてはならない。」・・・・「だが万が一同じことが繰り返されれば、朕の命令に背いた代償がどれほど過酷か思い知らせてやる・」

これは、結果を知っている未来の人間が言わせた言葉に過ぎないと思いますが、ホントにこんなことを言ったのかも知れないと思いました。この後、日本が征伐と称して朝鮮半島に侵攻するのは3回だったと思いますが、確かに、過酷な目に会い、近年に近くなるほど過酷さの度合いは増したという事実があります。1回目は663年頃、2回目は1592年頃、3回目は1895年頃から終戦までですね。

日本の歴史には失われた4世紀というのがあるので、この頃の歴史はなんでもありだと思いますが、過去の事実は一つしかないのに不思議な現象だと思います。

質問は、三韓征伐の結果が日本と韓国で食い違っていますが、どちらが正しいのでしょうか?
それとも第三の正解があるのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 三韓征伐そのものには何の興味もなかったのですが、韓国ドラマ「広開土太王」のワンシーンを見て、興味をもちました。

    それは、三韓を朝鮮半島南部と限定した時に、日本が勝ってこの地域を支配していたとしたら、これが日本にどのような影響を与えたのか?
    逆に、高句麗が勝ったとしたら、白村江の戦いに至るまでに日本と三国とはどのような関係に発展していたのか?ということでした。

    なにかヒントになるものがあればと思い質問しましたが、残念な結果になってしまいました。

      補足日時:2021/05/24 06:35

A 回答 (8件)

補足について



元々の質問から補足の方向の回答を得ることは相当難しそうです。
その意味では、残念な質問でした。

補足についていえば、日本の場合は海を越えるという点で何かと不利です。蝦夷の存在も含めて国内統一も半ばということもあります。
高句麗の存在は大きく、三韓から朝貢を受けるなど任那など伽耶の鉄資源輸入ルートを確保するのが精々でしょう。

高句麗も周囲に強国が多く、南の三韓よりも西・北・東に眼が向いていました。

しかし、日本よりは三韓→百済・新羅を併合できる可能性は高かったでしょう。

そして中国が隋によって統一されたとき、隋・高句麗戦争→唐・高句麗戦争が勃発するわけですが、その時までに高句麗が半島全域を統一していたとすれば、次に様な話になったでしょう。
①半島統一時は日本との緊張が高まるが、互いに海を越えての戦いは難しいので膠着状態に陥る。
②隋唐帝国の誕生以後は、同じように隋唐・高句麗戦争が勃発。
その後は史実と同じく、高句麗が隋唐軍に連戦連勝するとすれば、日本は隋唐帝国と高句麗の両方から外交的に同盟の要請を受けることになるでしょう。

日本は、自国の安全保障上は、両国が争い続けてくれた方が良いので、どちらとも同盟しないでしょう。
万一高句麗の形勢が悪くなった時には、史実として百済に援軍を送ったように、高句麗に援軍を送るかもしれません。また史実と同じように、難民受け入れや王族豪族の亡命も受け入れるということになるのでしょうか。
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この回答へのお礼

補足に対する回答ありがとうございました。

お礼日時:2021/05/25 04:24

いわゆる朝鮮経営は神代にスサノヲが


檀君となり、1500年、1908歳でなくなるという形で支配していますね。
朝鮮は死んだというが、実は子供らに統治をゆだねて日本帰国。出雲王朝設立。この王朝は日本で大国主へと続く。
その後、神武天皇のときより、
何度も朝鮮に倭は渡り、侵攻ということになるかな。
ただ、新羅脱解王は実は神武天皇の兄の稲氷命という説あり。
でもその脱解王代にも倭は新羅を攻めている。
さらにいろんな新羅王の代に倭は新羅侵略。
朝鮮に任那日本府設置。加羅の地。
新羅とはたびたび争う。
仁徳帝の代にも竈の煙が少ないと税を取らぬ治政して聖王と慕われたが、
実は朝鮮出兵中で男性兵が戦地に駆り出されていたせい。
その後も何度か侵攻及び外交記事多い。
百済は日本に友好的外交。
高句麗は高麗の名で日本書紀に登場。
ただ、倭を嫌い、高句麗本紀では倭の名を史書から一切消す。
だから3国史記では百済本紀と新羅本紀の2書しか倭の記事なし。

新羅は日本を倭と呼び、どうも日本という名は後の国名変更説あるが、
日本書紀は最初から
天皇諱に日本の字をヤマトと読ませる。
邪馬台国というのは中国の差別漢字。
どこにあるかで説が入り乱れるが、ヤマトの國と読むべきで
他の地に当てる説はすべて取り下げを願う。ただ郷土を意識しての
村おこしご当地ソング。まあ、卑弥呼が天照大神という説は誤りですが。


朝鮮は百済や高句麗が新羅に敗れ、吸収される。
663年には白村江の戦いで日本を破る。朝鮮は新羅が統一。
ただ、百済・高句麗民残党は新羅人が従え、後百済と後高麗を起こし、
これが新羅を攻める。(つまり、新羅は内部分裂)
新羅政府は唐と組んで日本を追い出すが、
日本本土は天智帝が防人を置いて守る。唐・新羅は日本本土攻めず。

新羅は後百済・後高麗、さらに北に起きた高麗の圧力に耐えきれず。
最後は高麗に降参投降して國消滅。
やがて日本は朝鮮侵略は一旦諦めて中国とは外交に転じる。
時はたち、
秀吉の頃に信長の遺志を継いで朝鮮侵略。敗戦。
秀吉は大河ドラマでは大陸侵略は朝鮮から明を経てやがてローマを目指そうと野心抱くが、本人病死でとん挫。兵は引き上げ。家康が豊臣を滅ぼし、
以後は外交に転換。
時がたち、
明治は日韓併合ですか。西郷隆盛が征韓論とかいうのかな。
やがて日清・日露の戦いは第2次世界大戦と続き、
敗戦後に朝鮮は米とソ連が加入して朝鮮戦争で今みたいに
38度線で分断。韓国と朝鮮民主主義人民共和国に分裂。

北朝鮮は日本人を大量拉致して未だ部分的にしか返さず、もはや拉致被害者居らずと大ウソを吐く。
思うに拉致被害者は韓国が朝鮮半島を統一に導かねば全員帰らぬ気がするが、それでは時間切れの危惧あり、北朝鮮の馬鹿野郎ですな。

でも小泉・安倍の中途半端北朝鮮外交は本当に弱腰でもっと迫るべきというべき。

竹島は韓国が狙う。独島とか呼んで無根拠でわが領土と主張。
竹島は神代から日本領ですから、日本は現在も日本領ときちんと
主張するべき。
尖閣は中国が虎視眈々と狙う。いっそ自衛隊基地とか
何か日本施設置くべきか。尖閣は日本・中国以外にベトナムが遠くから
領有権狙うらしいね。でも遠すぎて筋違いの気がするがなあ。

日本国内は経済大不況ですね。日本は消費税作って福祉叫ぶが、
バブル崩壊後、0金利に進んで、もはや不況は平成から令和に延長。
コロナも絡んで経済ガタガタ。

コロナであなたも命を落とさぬように祈ります。


朝鮮で檀君紀元あるが、あの檀君は実はスサノヲと思うが、


誰か以上に異論ないかなあ。
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この回答へのお礼

追加の回答ありがとうございました。
しかし、工学系の思考回路では残念ながら理解できませんでした。

お礼日時:2021/05/24 06:29

広開土太王の時代と


1回目は663年頃、2回目は1592年頃、3回目は1895年頃から終戦までですね。

これは別の時代。
相手にしている時代が違いますね。先ほど述べたように
362年ではかなり古いということになる。

なお、日本書紀は年代を無視して
似たような事件を1か所に集めて
まとめて混ぜて述べたという傾向もあるみたいですね。
https://nihonsinwa.com/page/652.html
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この回答へのお礼

補足の回答ありがとうございます。

質問は、「広開土太王の時代の三韓征伐の結果が日本と朝鮮で真逆になっているのですが、どちらが正しいのでしょうか?」デス。

1回目は・・・という記述は、韓国ドラマ広開土太王の1シーン「だが万が一同じことが繰り返されれば、朕の命令に背いた代償がどれほど過酷か思い知らせてやる・」に続く史実を列挙したものですので、当然、広開土太王の時代とは時代背景や朝鮮出兵の目的や結果も異なります。

1回目は白村江の戦いで、この年代近傍で高句麗と百済が滅んでおり、これ以後の遣唐使派遣ルートが変更されています。

2回目は豊臣秀吉の文禄・慶長の役で、秀吉は朝鮮経由で明を征服しようと考えていたようで、それに朝鮮が反発しての出兵になっています。

3回目は韓国併合です。

3回とも、日本にとって過酷な結果になっており、1回目よりも3回目の方が非常に過酷な結果になっています。

なお、回答者の誰も質問に答えないという事態に陥っていますので、質問に対する回答をよろしくお願いします。

お礼日時:2021/05/22 06:18

三韓征伐の結果が日本と韓国で食い違っていますが、どちらが正しいのでしょうか?



三韓とは馬韓・辰韓・弁韓のこと。

言い方が違うだけ。

弁韓は任那で、朝鮮側は加羅と呼ぶ。

なお、発音で高句麗は高麗と日本書紀が呼び、コマと読み、

コマのマが馬韓となる場合あり。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

古文書の内容について解説していただきましたが、西郷隆盛が岩倉と板垣にはめられた歴史的事実を確認する過程で、三韓は馬韓・辰韓・弁韓と気づいていました。

それよりも、結果について食い違った記述のどちらが正しいのか知りたいのですが・・・。

お礼日時:2021/05/21 18:35

古事記で仲哀天皇が362年頃、


その頃の新羅本紀をご覧ください。
この天皇が神功皇后の夫。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。

大変申し訳ありませんが、この年で新羅本紀を見る元気はないので、追加で結論を回答していただけると大変ありがたいです。

お礼日時:2021/05/21 18:32

お礼について



別に食い違いはない。当時は日本と高句麗で南韓の覇権争奪戦が長く行われた。
広開土王のドラマのそのシーンは、19世紀に発見された「広開土王碑」の銘文に基づいて制作されたものだろう。
何代にも渡る非常に長い期間の覇権争いの話だ。広開土王の時代と記紀の三韓征伐の話の時期が同じだったという話ではない。
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この回答へのお礼

仕事の関係でお礼のコメント遅くなりましたが、早速の補足回答ありがとうございます。

広開土王碑の発見が19世紀で日本軍によるねつ造があったかもしれないというのを認めても、その当時の人々が生きていた時代に建立されたのは間違いないのではないかと思います。
かたや古事記や日本書紀は、それから400年後に編纂されたものですから・・・。

いずれにしろ、質問本文に記載したように、4世紀の日本国内の歴史は失われた歴史ですので、なんでもありだと思います。

お礼日時:2021/05/21 18:27

当時の南韓は、中国から観れば「地の果て」、日本から観れば弥生人による稲作文明で人口が爆発し、その余剰人口の移住先のひとつであるとともに、鉄資源の供給地だった。



当時を記録した中国の各種東夷伝によれば、南韓は人口が少なく、中国人、倭人も多かったと記録されている。
要するに、当時の南韓は、高句麗と日本という大国に挟まれた緩衝地帯だった。そして有力な鉄資源供給地だった任那などの伽耶地方という存在があったために、高句麗も日本も無視できなかったということになる。

南韓諸国は、高句麗が出てくれば日本を頼り、日本が出てくれば高句麗を頼るという日和見で生き延びた。倭軍と高句麗軍が度々戦火を交えたのはそういう背景があるからだ。
そういう戦いの中で三韓征伐神話が出来てきたということだろう。

ちなみに南韓の日和見主義は、後に事大主義と名を変えて李氏朝鮮の外交姿勢を指すようになっている。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
Youtubeをいくつか見ると、確かに鉄器はキーワードになっていました。
なお、天皇の突然の死は神功皇后の強硬な朝鮮出兵に反対した天皇暗殺という見解のものがあり、面白い視点だと思いました。

ところで、№1さんと同じく質問に回答していただいていないようですが・・・。

お礼日時:2021/05/19 06:49

通常は『三韓征伐』といえば、日本書記に書かれた神功天皇(神功皇后)のものを指します。


よく間違えられているのですが、三韓というのは馬韓・辰韓・弁韓のことで、馬韓は後の百済、辰韓と弁韓は後の新羅、と考えられています。一般的に『三韓』というと百済・新羅・高句麗を指しますが、三韓征伐の三韓はこれではないのでお気を付けください。
三韓征伐は日本書記以外に、広開土王碑という韓国側の記録にも残っており、史実性の高い出来事と考えられています。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。

ご指摘をいただいた三韓については、そのとおりだとしても、馬韓が後の百済、辰韓が後の新羅というのは年代的に辻褄が合わないと思います。
娘が高校時代に使っていた2003年発行の世界史教科書の巻末年表でも、朝鮮出兵よりも百済・新羅の建国が先になっています。

ところで、質問した日本書紀に記述されている結果と三国史記などに記述されている朝鮮側の結果の違いに対してはどちらが正解なのでしょうか?

お礼日時:2021/05/19 06:41

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