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徳川御三家とは言え、徳川家康の四男・松平忠吉入封して、61万9500石の知行高だった尾張藩、徳川家康の十男・徳川頼宣が55万5千石で入部した紀州藩と異なり、水戸藩には、徳川家康の末子で十一男の徳川頼房が入城して石高はわずか25万石でした。
また、尾張城は中部地方の守りとして、和歌山城は西部の守りとして、堅牢で立派な城を建てる必要がありました。 一方、水戸城は江戸にも近く、特別堅牢で立派な城を築く必要もなく、頼房は城の拡充よりも城下町の拡充に力を入れました。 また、天守と称するものは幕府におもんばかって構えず、破風などのない二の丸を建造しそこに居館を構えました。 石垣も築かず、櫓・多聞(長屋)も極端に少なく塀を多用しましたが、この質朴さは水戸徳川家の家風をよく表していると言われています。お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
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