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なぜ徳川御三家で、尾張が筆頭、次が紀州という順番になったのですか?
尾張、紀州という土地になった理由を教えてください。
また、水戸は途中から御三家に加わったそうですが、これもなぜ水戸なのか教えてください。

A 回答 (6件)

 三つの土地柄を考えると尾張は押しも押されぬ要地で、一大商業地であり一大穀倉地です。

江戸大阪は天領ですから、諸藩の中で経済的にもっとも重要な地です。もちろん戦となれば、東海道をおさえる重要拠点です。
 紀州は、戦国時代雑賀党がいたこともあり、畿内で最後まで織田信長に服さなかった地です。また東西の水運の中継地で、ここは何気に金になります。江戸と大阪を結ぶ物流ルートです。ある意味宗教はうざいですから、その火種となる地を抑えたのだと思います。もちろん有事には大阪防衛の主力になったでしょう。

 一方水戸ですが、ここはたまたま江戸の近くに大きな土地が空いたので、まだ幼いわが子を家康が関東近くの地に置いたように思えます。伊達に対する防衛の意識も当然あったでしょうが、もしそれが主たる理由であれば、水戸ではなく奥州街道を塞ぐべく白河に置いたはずです。
 こうしてみると残された子供たちを長幼の順に重要拠点に配したのが見て取れます。
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この回答へのお礼

尾張というのはやっぱり地理的にも経済的にも重要な土地なのですね。
紀州、水戸についてもよく分かりました。ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2007/06/30 00:32

No.4です。

                   
政治、経済面の要地でもありますが、防衛面では御三家は後詰の統領という所です。 
矢面には彦根に井伊直政、姫路に家康の婿の池田輝政、白河に榊原忠次と信頼する大名を置いて備えています。
姫路は御三家を置いてもよい位の秀吉以来の要地ですが、家康はそれより豊臣恩顧大名の、山内、蜂須賀を警戒して和歌山にしたものと思います。
家康は大勢の旗本を動員して、さながら軍事演習のような巻き狩り、鷹狩を関東でしばしば行いましたが、政宗に対する示威ともいわれています。
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この回答へのお礼

再度ありがとうございます。
彦根、姫路、白河についても詳しいご回答ありがとうございました!

お礼日時:2007/06/30 00:34

家康が江戸幕府を開くに当たり、もっとも恐れていたのは、前田、伊達、毛利、(島津は遠方で無視)の三家でした。

前田の備えに尾張家、毛利の備えと京都の守護に紀州家、伊達は江戸に近く最脅威で水戸家を置いたわけです。
一方御三家等からの反乱も考慮し、百万石以上の親藩は作らず、特に江戸に近い水戸家の謀反を最も恐れ、28万石に留めました。   のちに江戸常府にしました。    しかも将軍の世継ぎになれるのは尾張と紀州の二家にして、換わりに水戸家には将軍を補佐する任を与えました。    これはのちに有名無実になりましたが、水戸副将軍と呼ばれるのはこのためです。(正式名ではありません)
水戸光圀が綱吉の世継ぎを決めるのに、強い影響を与えたのはこれによります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
前田、伊達、毛利とも石高も高い大大名ですね。伊達は実質石高は100万石くらいあったとか。
地理的にそういう理由があったとは・・・
びっくりですけど、納得です。
分かりやすいご説明、どうもありがとうございました!

お礼日時:2007/06/25 23:42

御三家の順番は、出生順。


領地は、その時どのときの偶然。
尾張家:関ヶ原の戦いの恩賞として、福島家が清洲から広島へ。よって、尾張にある程度かたまった領地があり、関ヶ原における徳川身内で功績のあった松平忠吉(家康四男)が封ぜられる。が、この忠吉が1607年に死亡したので、これを甲府から移転させた。
紀州家:水戸より1609年駿府に。
頼宣は秀忠と馬が合わなかったらしく、東海道の要地に置いておきたくなかったので、浅野家が広島に移動したときに、玉突き移動。
水戸家:頼宣の替わりに水戸へ。
水戸家の加増がなかったのは、紀州家と同母兄弟であるので、同母連合がでかくなるのを危惧したという説や、家康が早死にしたので、尾張家、紀州家並に加増する機会がなかったからとも。

もともと御三家という制度があるわけでないので、江戸中期、館林家や甲府家がなくなっていこう、なんとなく、この三家が御三家といわれただけ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
領地はただの偶然なのですか。
他に重要な土地の藩主となった兄弟たちが早世したとか、そういう理由もあって
いわゆる御三家のうち、尾張や紀伊が残ったのでしょうか。
紀州と水戸は同腹の兄弟なのですね。
どうもありがとうございました!

お礼日時:2007/06/25 23:06

>なぜ徳川御三家で、尾張が筆頭、次が紀州という順番になったのですか?



単純に長幼の順。
尾張が9男
紀州が10男
水戸が11男

領地の理由は様々あるでしょうが
尾張:経済的な側面と、三人の天下人を輩出したという土地柄、東海道の要衝を押さえる。等かな
紀州は?何だろう伊勢神宮?一応西国への押さえだろうけど、紀州で無ければならない理由は思い当たらず。紀州に配された当時は豊臣家は絶えていたけど、残存勢力への対応かな?
水戸:元々家康の関東入りの当時で、有力な反家康勢力として佐竹家があり水戸を根拠にしていた。
その移封後に家康の息子(と付随する家臣団)を親佐竹勢力への押さえとして配置したものが契機かな?
北国の外様への備えの側面もあったろうし。
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この回答へのお礼

早速ありがとうございます。
尾張は織田信長や豊臣秀吉を連想してしまうのですが、紀伊や水戸は何が良いのか分からず、
ミカンとか納豆とか梅とか思っていました。
石高がある程度高くなければいけなかったかもしれませんが、何か土地柄の重要性などあるのかと思って
質問させていただきました。

お礼日時:2007/06/25 23:04

確かに、最初は駿河・尾張・紀伊の御三家でしたね。

三代将軍徳川家光まで、将軍家、尾張家、紀州家、駿河家、水戸家の親藩順位です。 駿河家の忠長は、家光から自刃で絶家させられたため無くなり五代将軍綱吉のころまで御三家は大権現の遺言により、将軍家、尾張家、紀州家と考えられ、水戸家は御三家に数えなかったそうですよ。元々、水戸家は宗家の補佐を目的に作られたみたいです。

順番は、最初の当主の年齢順でしょう。確か、9・10・11男ですから。駿河家は2代目の秀忠の息子ですしね。その前の駿河城は家康が隠居してましたし。
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この回答へのお礼

水戸家は補佐目的だったのですね。
早速のご回答、どうもありがとうございました!

お礼日時:2007/06/25 10:43

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