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イザベラ・バードの朝鮮紀行を読むと、日本人・シナ人・朝鮮人を比較すると朝鮮人が一番新しい物好きで、進取の精神が高く、新しい最先端のモノが輸入されると飛びついて広める。
黄燐マッチも、花札も、日本が輸出するとあっという間に朝鮮全土に広まった。これは朝鮮人の、新しい物好きという気質が大いに関係していると書いてありましたが、
マゲ禁止令が出てマゲからザンギリ頭に移行するときは憤死で抵抗する朝鮮人が続出したことも書かれていました。
日本人の方が朝鮮人と比べると保守的な傾向が強いようですが、マゲに関しては
『ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする』などといわれて、比較的スムーズに移行したようです。
朝鮮人の方が新しい物好きなのに、どうしてマゲに関してはそこまで強固に抵抗したのでしょうか?儒教の影響ですかね?

A 回答 (5件)

> 儒教の影響ですかね?




そのような理解は多いようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AD%E9%AB%AA …

日本では、儒教はそれほどの文化浸透にはならなかったですから
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「在朝鮮国山ノ城管理官建白書ノ件」


(アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A01100180200)

(P5 6行目 朝鮮での貿易が進まない理由について)

 彼れ(朝鮮)国産多からざるが上に運送の便なく、
 金銀貨の通用なく、彼政府が他邦人の多く入り込むを忌み、
 新珍なる物を嫌い
  (賄賂用には奇物を求める者なきにあらざれ氏
   専ら庶人の弄するを嫌ふと見え)
 彼我人民の交通を妨げ、本港の一躰は昔時即ち人家離れの当館中に
 一団となりにて居りし時と 異なる事なき等に由る也

寺島宗則外務卿から三條太政大臣に上申された、当時の日本の外交官
外務三等属山ノ城祐長による建白書にある分析です。
賄賂では珍しいものを求めますが、新しいものは嫌うそうです。
当時の朝鮮は地方で新しいものを導入する程経済が発達していません。
交通も十分でなく、ギルドのような全国的な組織はとても作れません。

朝鮮人が断髪令に反対したのは「朝鮮紀行」第31章に書いてある通り。
古来からの風習であり、当時は厄介者とみなされた僧侶と同じで、
急な改革を庶民が嫌ったから。



「朝鮮紀行」は一次史料としては非常に優秀です。
前の質問で論文より一次史料を卑下する方がおられましたが、
たとえ査読論文でも新しい一次史料が出れば論文そのものは
否定されて無価値なものになります。
しかし、一次史料といえども史料批判が必要です。
「朝鮮紀行」の場合、イザベラ・ビショップは閔妃から招待されて
国王に会えるほど優遇されています。
当時の朝鮮は積極的に海外の技術や施政を取り入れる側面もあり、
一部ではそのような新規技術もあり、積極的に披露しています。
前述の建白書から「朝鮮紀行」までの10年で表向きは
朝鮮は近代化していますが、それは表面だけの事です。
このような接待は現在の北朝鮮と同じですよね。


1883年12月16日に日本が仁川日本居留区に郵便局を
設置しました。それを見て朝鮮政府も京城に郵便事業を
起こすことになり日本にその事務を指導する人を派遣するよう
依頼しました。

「非職五等駅逓官小尾輔明朝鮮政府ノ傭聘ニ応シ渡航ノ件」
(アジア歴史資料センター レファレンスコード:A01100274300)

ちなみに、郵便切手は日本に印刷を依頼してきたので
日本から親睦のために2万枚を無償贈与しています。

「朝鮮国政府ヨリ依頼ノ郵便切手無代価贈付ノ件」
(アジア歴史資料センター レファレンスコード:A01100266700)

このように、日本の影響下で近代化が図られましたが、
当たり前ですが日本のおかげとは言いませんし、
予算が無いのに無理をするから壬午軍乱や甲午事変が起きました。
「朝鮮紀行」だけみれば朝鮮は独自に近代化が進められていると
思うかもしれません。
当時のその他の資料との比較は重要です。
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>比較的スムーズに移行したようです。


これ、違いますよ、髷を切るのは、女性陣が反対して、スムースに
行きませんでしたのです、岩倉具視が明治天皇に髷を切って戴、
その、姿を新聞の掲載してから、進んだのです。
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当時は閔妃が、閔妃に恨みを抱く朝鮮人一派と日本人の襲撃で、閔妃が殺された乙未事変があったばかり。


その事件で、執政を担っていた重臣たちの一部が、日本を習った近代化路線を復活させよとした政策のひとつが断髪令。

両班層の多くは保守派で、近代化路線を快く思っていない。
そういった保守派が、乙未事変とその後処理で盛り上がっていた反日意識を利用して、断髪令を契機に改革派の抹殺を図ったのが、断髪令の争乱。
断髪令を主導した金弘集の死で幕を閉じることになる。

このような、朝鮮王朝によくみられる血で血を洗う呵責なき政争が背景にあったことが一番の原因ではないでしょうか。

バード氏の目線で全方位的に朝鮮を断じるのは危険ではないでしょうか。
当時の欧米人旅行者たちの視線だけを信じれば、日本人は「根をよく食べるトンデモナイ民族だ」とか、それこそトンデモナイ話のオンパレードになってしまいます。
それはそれで貴重な記録ですが、物事の現象としての一面にしか過ぎません。

問題は、例えばバード氏の「朝鮮人が一番新しい物好きで、進取の精神が高く、新しい最先端のモノが輸入されると飛びついて広める」という現象が朝鮮人の特性であると安易に信じるのではなく、どうしてそのようにバード氏の眼に映ったのかを、多面的に分析していくことではないでしょうか。
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wiki によると『「身体、髪の毛、肌は父母から譲り受けたもので、傷つけないのが孝の始まりだ」という儒教の考え[1]から反発が広まり』とあり、またマゲ禁止令ではなく断髪令です。


知識がないので想像ですが、朝鮮のまげは日本のように頭を剃って行うものではなく単に髪を結っていただけ(日本のお相撲さんスタイル?)だったのではないでしょうか。それで、断髪を強制されたために上記のような考えから反発されたのかなと。
間違えていたらすみません。
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