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江戸幕府の中にも、幕府が留学させ育てていた幕臣はいましたし、勝海舟などは富国強兵を目指していました。なにも、それまでの幕府の功績を、薩長に横取りされることはなかったのでは?

しかも、そもそも薩長は攘夷派でしたよね。
なぜ大政奉還後、開国推進に切り替えたのでしょう。
どちらにせよ開国したなら、明治維新は必要ありませんでした。

開国に関して、幕府は孝明天皇にお伺いを立てず、開国してしまえばよかったのではないでしょうか。天皇は国際情勢を知らないから、攘夷、攘夷と希望だけを言っていたわけなのですから。

A 回答 (3件)

>薩長に横取りされることはなかったのでは?


鳥羽伏見の戦いに負けたから。
それまでは、薩長が押しているとはいえ幕府もまだ盤石だった。
薩長自体が、この戦いに勝てる確信を持っていなかった。

>なぜ大政奉還後、開国推進に切り替えたのでしょう。
薩摩も長州もイギリスと実際に砲火を交えている。
それでぼろ負けして攘夷は不可能と悟った。

>開国してしまえばよかったのではないでしょうか。
それこそ「官軍」の名目を薩長に与えてしまう。
鳥羽伏見で幕府が負けた最大の原因は、薩長の陣に錦の御旗が翻ったことだった。
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この回答へのお礼

開国か、鎖国かについて1000年も権力の座から遠ざかっていた天皇が出てくる問題だったのでしょうか。
錦の御旗を薩長に挙げさせ、天皇の力を幕府側に見せる必要もないですし。鎖国だとか、公武合体とか言っておきながら、天皇めちゃくちゃ。

お礼日時:2021/07/17 19:32

慶喜のシナリオは、「大政奉還しても朝廷に政務を行う能力がないことを見越し、再度慶喜に政権を委ねる」というもので、現実に慶喜は大政奉還の傍らで、自身を総理とし有力大名などを閣僚とする政権構想を練っていました。

その証拠となる文書も残っています。また、京における薩長の武力に対抗すべく、会津・桑名など親慶喜派の諸兵も関西に向けて動いていました。

薩長もそれを知っていたので、朝廷を掌握すると、新政権から慶喜を排除したうえで、王政復古の大号令をかけたというわけです。

その後紆余曲折はあったものの、鳥羽伏見の戦いとなりました。

孝明天皇を無視して開国と改革数s目用としてもを、簡単には動かないでしょう。佐幕派に中にも依然として攘夷派の武士が多いですしね。
特に幕府が、日米修好通商条約を締結して経済を大混乱させてしまった大失政後は、民心も離れてしまっており、幕府が日本をまとめるリーダーシップを発揮できない状況になっていましたからね。
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だから


王政復古ですよ。

武士の世を終わりにし、
幕府も消えた

西洋技術どんどん吸収。
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