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キスカ島撤退は鮮やかな作戦でしたね。
これを指揮した木村昌福はどんな人物でしたか?
Wikiでは<人事においてハンモックナンバーが重視される帝国海軍では目立つ存在ではなかったが、太平洋戦争開戦時には熟練した「水雷屋」として一定の評価を得ていた。>とありましたが。

A 回答 (1件)

兵学校卒業時の成績がものを言う海軍において開戦前には目立つ存在ではなく、開戦時はまだ一艦長(乗艦は重巡洋艦鈴谷)に過ぎなかった。

これで南方作戦やミッドウェー海戦に参加している。この鈴谷艦長のとき、損傷を偽って三隈救援に向かっている。
(この「損傷偽装」の一件については証人が一人しかなく、創作という説が有力だが、「木村ならばさもありなん」と思わせる、人望の裏返しともいえる)

将官に昇進した後、第三水雷戦隊の司令官に任じられ、ニューギニアのラエへの輸送作戦を任されたが、連合軍空軍の猛攻に遭い、輸送船8隻は全部、部隊の8隻の駆逐艦も半数が沈められる惨敗を喫した(ビスマルク海海戦)。この際木村自身も重傷を負ったが、「(同乗している)陸兵さんが心配する」と、一旦は揚げた「司令官重傷」の信号旗を取り消させたとの逸話がある(こちらは事実らしい)

療養のあと、北方の第一水雷戦隊の司令官に転じた。

そこであげたのが、木村の特に有名な業績である、奇跡の作戦といわれた「キスカ島撤退作戦」である。この指揮では、味方に死傷者を出すことなく5200名余の日本将兵の撤退を完了させている。
このときに残した、「帰ろう、帰ればまた来られるから」の言葉は非常に有名。

この作戦後、木村はレイテ沖海戦に参加した。
その後、レイテ周辺の制海権は失われ、制空権もほとんど米軍に取られているという過酷な状況にもかかわらず、レイテ島への輸送作戦を強行する多号作戦に従事するが、マニラ湾への激しい空襲があったことにより、無事な駆逐艦を連れて退避する。
その後、ミンドロ島の敵泊地に対して艦隊を突入を敢行するという礼号作戦を指揮することとなった。この作戦では、重巡「足柄」、軽巡「大淀」、駆逐艦「霞」以下駆逐艦6隻の艦隊の指揮をとり、駆逐艦清霜を失うも、作戦は成功した。
戦後は、トレードマークだったカイゼル髭を剃り落とし、山口県で彼を慕う部下と共に製塩会社を興し、1960年2月14日逝去した。享年68歳であった。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<「木村ならばさもありなん」と思わせる>が印象的でした。

お礼日時:2021/09/19 18:05

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