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崇神天皇が第10代天皇で古事記から戊寅の年崩御とあることで
西暦258年に当てれば、邪馬台国女王卑弥呼の時代に来ますよね。

未だ天皇の称号はなく、当時は大君・大王とか
翻字する形で「おほきみ」と呼ばれていて、
まだ大和朝廷といっても
支配地域は蝦夷や熊襲など背く種族もいて全国統治は遠い先だったかもしれませんね。

でも中国後漢には来朝できたとして
生口(奴隷?)を160人献上して倭王師升とか言われて
後漢書倭伝に出てきますね。

この王がいたとすれば、崇神天皇より前は学者が欠史時代というのは
嘘になりませんか。
当時、大君の地位にいた古事記・日本書紀でいう
西暦107年
に師升に当る誰か後世
諡号を得た
神武~開化の誰かに当てはめて
欠史時代から有史時代に昇格させる
なんて見方は
どうでしょうね。

誰かご回答できる方はお願いします。

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    258-107=151
    ということで
    崇神天皇の上を過去へ過去へと
    崇神天皇の上が欠史時代ならぬ
    有史時代にして
    神武天皇~開化天皇の
    中で150年分遡ろうという試みはしないわけね。

    ご来場者のなかに以上のような視点の人はいませんか。

    崇神天皇没年を258年として
    10代分遡れば神武天皇に行ける
    107年はその途中という考えは飛躍しすぎか。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/12/05 15:23

A 回答 (2件)

ファンタジーならまだしも、ちゃんと考えると、広開土王碑から西暦の400年ごろにヤマト王権が韓半島に侵攻したことがわかり、日本側の資料である記紀でも神功天皇(神功皇后)の三韓征伐の話として残っています。


これをさかのぼること50~100年くらいの間に、ヤマト王権は日本(西日本)を支配下におさめただろうと考えられます。
古墳の前方後円墳が最初に出てくるのが3世紀の終わり、3世紀というと分かりづらいですが西暦の200年代で、この終わりごろ。前方後円墳の広まり方は結構早い気がしますので、ヤマト王権が武力で支配していったというより友好的な地域と従わない地域があって、後者を武力で制圧といった話がヤマトタケルの話などになるでしょう。

師升は西暦の100年ごろの人ですから、当然というかヤマト王権とは全くなにも関係もない人です。地域的に九州(福岡、奴の国)の人物だっただろうと考えられます。ヤマト王権と関係ないので記紀にも出てきませんし、欠史8代ともまったく関係ありません。ということになるでしょう。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

Thank you

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お礼日時:2021/12/05 15:23

当時、外国の人が


倭国にいくたびに恐らく
トップが変わってたかもしれません。
めんどくせ~と思ただろうね

自称、私が王様だぜ て感じ

日本が神の国だと言う路線が500年後に後から作った書物で決まった。
海外の文献では
集落を統治し戦争などして支配して九州方面に日本の始まりの
倭国を作りあげた。王様説のが最近は正しいと思う人が多い

金の判子が見つかったし
神様に献上してないしね

卑弥呼さんて、詐欺師も登場しないといけない時代ですな
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この回答へのお礼

Thank you

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お礼日時:2021/12/05 15:24

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