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奴国も卑弥呼も 金印をもらったんですか?

日本史

A 回答 (5件)

>奴国も卑弥呼も 金印をもらったんですか



はい。どちらももらいました。

博多の志賀島で見つかった現存する金印は
「漢委奴国王印」
つまり魏志倭人伝のころの「魏」ではなくその前の「漢」の時代。
具体的には、後漢書東夷伝にある記述で
卑弥呼より前の57年に後漢の光武帝が送ったものと
考えられています。

卑弥呼の時代では、魏志倭人伝に金印を送ったとされていますが、
こちらは現在まで所在不明です。
ちなみに、魏志倭人伝にある金印の部分は矢印のところ。

 制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米
 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 
 班布二匹二丈以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝
 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 
                ↑ 
 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞
 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印靑綬
 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張
 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹
 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚
 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受
 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

印の材質で国の格式が区別され、上から玉、金、銀、銅で、
金印が与えられた国は中国から見た場合
銀印や銅印よりも格式が上とみられました。
同じく名称にも格式があり、璽、章、印の順です。
金印はそれだけありがたいものでした。
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既に回答がでていますように、どちらももらっています。



奴国が金印をもらったというのは、『後漢書東夷傳』の中に、「奴国」「光武賜以印綬」の記述があります。
卑弥呼が金印をもらったというのは、『魏志東夷傳倭人條』(いわゆる魏志倭人伝)の中に記述があります。

卑弥呼が魏から金印をもらったというのは、確定的な事実だとみられています。
「金印をもらっていない」と主張する人は見たことがありませんし、壱与が魏に返したというのも聞いたことがありません。
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漢書地理志には奴国へ印綬が授けられ、それが出土したとされています。


http://nihonshimatomenote.seesaa.net/article/438 …
魏志倭人伝には卑弥呼へ金印を授けたと書かれています。
http://nihonshimatomenote.seesaa.net/article/440 …
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NO!です。


いや、魏の皇帝からそういう名前をもらったのでは?ということになっています。
なお、金印をもらったとしたら、卑弥呼の次の代の壱与が魏に返したのでは?という説が有力です。
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卑弥呼はもらっていないという説が大勢です。


ちなみに卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」と言う封号をもらったとされています。
金印は「漢委奴国王」と彫られているので別人ですね。
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この回答へのお礼

そうなんですね!
親魏倭王 と金印に
掘られていたんでしょうか?

お礼日時:2018/05/03 17:34

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印は、封をするのに使います。袋でも箱でも、泥をべったりつけて印を押して乾かします。封をあければ泥がぼろっと割れて開けたことがバレるので誰かが勝手に開けられない、って感じで使われてたようです。

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