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儒教圏国家では技術者や武官、職人といったブルーカラーを卑しいものだと見なして徹底的に冷遇いたそうですが、儒教の影響を受けていた日本では武士が支配階級として台頭してからも傾倒していたのは何故でしょうか?
技術者が下に見られる風潮は現在進行形で何も変わってませんが、武士やその後継である軍人などは戦前まで非常に高い地位であった筈です。
それなのに自らを卑しむ儒教の教えを武士の教養として採用し続けたのは何故なのか疑問に思いました。

A 回答 (5件)

「儒教」と一括りにしていますけど・・・・



性善説の孟子と性悪説の荀子も共に儒家であり
その考え方は様々です

で、国家の統治を行う上で儒教の思想が活用出来ると考えた為政者が儒学を取り入れる中で地域によって独自に発展していった面もあるでしょう

で、日本に於いて武士(侍)が思想的・知性的な面を重視し始めたのは
ずっと後の話で、江戸の初期までは必ずしも武士が儒教的な素養があったとは言えません

江戸幕府の治世の中で、平和な時代でも武士が生き残る方策として
純粋な武力組織から統治機構の官僚に転換していった結果です

鎌倉時代の武者などは、まともに文字も読めない人ばかりです
だからこそ、大江広元と言った元下級公家が幕府の要職を占めているのです
※承久の乱で後鳥羽上皇からの綸旨を当時の武士の誰も読めなかったなんて話もあるくらいなので

で、江戸時代でよく言われる士農工商で考えても、商人と農民の間という位置づけから考えても、必ずしも高い地位だったのでしょうか・・・・

明治維新以後の状況を恰もずっと昔からそうだった
という風に感じているだけと言う事はありませんか?
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儒教圏国家では技術者や武官、職人といった


ブルーカラーを卑しいものだと見なして徹底的に
冷遇いたそうですが、
 ↑
北島康介という水泳選手がいましたよね。
彼が金メダルを取ったとき、中国では
肉屋のせがれが、と随分とバカにされていました。

知人の中国人ですが、娘の見合い相手と
して紹介されたのが、大きなレストランの
経営者でした。
しかし、「レストランの経営者風情に
娘をやれるか」
と、怒っていました。

中国辺りは、万巻の書を読み、何もしない、
なんてのが尊敬されたりします。



儒教の影響を受けていた日本では武士が支配階級として
台頭してからも傾倒していたのは何故でしょうか?
 ↑
儒教といえば中国発祥で、韓国浸透です。
中国や韓国では、儒教が制度化されて骨の髄まで
染み込みましたが、日本では教養に過ぎませんでした。



技術者が下に見られる風潮は現在進行形で何も変わってませんが、
 ↑
日本では技術者は下に見られる
なんてことは無いと思いますヨ。
職人も、一定の敬意を持って扱われて
います。
ホンダの創業者、本田宗一郎は、社長を
しながら、工場労働をやっていました。
そのため、爪が真っ黒だったそうです。
ソニーの創業者 井深大はエンジニアです。

理系は人数が少ないので、役員などの
数が少ないだけです。
比率で見れば、文系と同じです。




武士やその後継である軍人などは戦前まで
非常に高い地位であった筈です。
それなのに自らを卑しむ儒教の教えを武士の教養として
採用し続けたのは何故なのか疑問に思いました。
 ↑
何でもそうですが、日本人は外来物を
自分たちに合うように改変してしまいます。

仏教など、本来の仏教とはかけ離れて
います。

儒教にしても同じです。

本来、能力主義を採っているはずなのに
世襲主義を基本にしてしまい、その中で
目上には従え、と、武士にとって都合の良い部分だけを
採用しています。
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論語と儒教の混同があるのではないでしょうか。


【参考:なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか 石平(著)】
儒教儒学者は日本の主流ではありません。しかし、論語は平安鎌倉を通して愛されて来ました。
倭寇解説本にも「論語があれば必ず買う。孟子はこれを憎む。」との日本人感が記載されています。論語とは、一言で言えば一般的な常識の書です。
従って、日本は儒教文化圏では無く、その影響は一部の学者に留まるっていたためと思われます。当然に武士も儒教ではなく、論語が基礎となっていたと考えられます。
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まず、混同している方が多いようですが、朱子学は宋の朱熹が儒学を独自に解釈した学問の体系です。

(儒学≠朱子学)

そして、それは江戸時代を語る上で重要な思想でした。
実は、朱子学は江戸時代の経済や身分への認識などの価値観に大きな影響を与えています。→「教養程度」どころの話ではありません。
(質問の範囲から外れるので、ここではこれ以上語りません)



質問の主旨は↓で良いのでしょうか。

A:儒教下の江戸時代で、武官である武士の地位が高かったのは何故か?


まず、江戸時代に浸透していたのは儒教の中の「朱子学」です。(重要)
儒教と朱子学には以下の違いがあります。

儒教:政治学(国家統治の方法)
朱子学:儒教をベースにした「哲学」

朱子学を導入したのは徳川家康です。
その理由は朱子学の思想は身分の上下や目上の者への敬意を重視しているので、下剋上を否定 でき、幕府体制を強化し平和を維持する効果がありました。
大名も家臣の謀反を抑止できます。
以上の事は、方法論である儒教ではできません。


質問の武士の支配者としての正当性 は以下によります。

回答A:朱子学での階級の最上位は官僚や学者 であったからです。
為政者でもある当時の武士(将軍や大名やそれらの家臣団)はそれらに該当します。
「儒教圏国家では技術者や武官、職人といった」の回答画像4
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自分がまだ幼い頃よりも以前の社会の「人間関係の尊卑、貴賤」の感覚の実態は知らないし、まして、自分の育った地域社会とは離れたところ、別のくになどの状況は知らないのですが、個人的には、対人的な扱いはそれこそ個人のポジションによって大きく異なるものであって、業務(?)の類別に依存するよりも、組織集団内の地位や行使できる影響力の大小によることが多いと思っています。



仮に、農耕栽培関係の業務に従事していても下男下女、使用人、5,6人を束ねる程度の役を果たすに過ぎないと、全くの部外者には「~~ふぜい」ということになるでしょう。 でも、50町歩以上の広大な地主だと、百姓風情がなどとはとても思えず「○○様」と扱われることが多かったろうと思います。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965257/5?toc …
日本で16世紀以降だと戦闘の主力は足軽のような「軽輩もの」です。騎乗する高位の武家出身者は戦力を担うものの主力ではなくなって、せいぜい部隊指揮です。 それも、戦役が終われば、主力戦闘員の武器武具類を回収してしまい、高位の武家出身者は出自と徳・教養・見栄えで権威を保ち、配下の身分秩序の厳正を保つことに汲々とします。 結果として、トップ以外は「~~ばら(輩)」扱いに蔑まれることが多かったでしょうし、上や他所ものからは陪臣や家人・家臣などは多くの場合、個人としては扱ってもらえなかったでしょう。 職人集団の場合、多くは徒弟制度ですから、下っ端は博徒ではなくても「やっこ(奴)」です。 問屋や商店、飲食店、旅籠、芸人などでも、トップと使用人などは違って当然です。 出自・家柄が大事で、男か女か、有業か無職か、大まかな業種区分などよりは、ずーっと重視されていて、それで尊貴や扱いが変わったのでしょう。

ブルーカラーを「実作業の執行・労働に従事するもの」と考えるのであれば、神人・寺男・織子・仕立て職・左官・叩き大工・漁労・荷役・馬追・耕作・収穫・戦闘要員・丁稚・床屋・薬売り・魚屋・屑拾い・船頭・版木刷・茶坊主・三昧聖・中間・小者・湯屋の罐焚き・植木職・書き役(侍身分の者が担当していることも多い)・見回り同心などは、江戸時代の日本でも、社会的高位者からは「尊敬されるべき者」には扱われません。 社会的な地位は、そのものの属する組織集団内での地位・ポジションで決まるのが基本です。 
高位のポジションにつくものは、実作業から離れ、儀式の執行場面で役を果たすことが大事です。 高位の者は、自分の後継者として基本的には子を、儀式執行の役目をきちんと果たせるように育成します。 もちろん、子が実務の執行・労働従事に関心を寄せても構わないのですが、実務に入れ込んでしまっては、組織内の秩序維持に悪影響を起こすので、実務に入れ込まないで、格式・儀式の執行上の役割を果たすことに指導の重点を置きます。
実務の執行・労働従事するブルーカラーが、「高位ポジションは自分の連続線上に存在するもので、自分もその地位を得る権利は平等に持っていて、実力次第だ」と考えると下克上、ポジションの逆転、自分と自分の子がポジションを失う危険が生じるので、「地位は固定、カエルの子はカエル、身をわきまえることが大事。ブルーカラーはブルーカラーとして頑張れ!」と、体制内秩序・身分をどの業種でも教え込もうとしたでしょう。
江戸期の侍の高ポジションのものは、その地位を保持する上からも、学問を学び教養を積むべきものとされ、文の教育がしだいに組織化されます。 武はブルーカラーの侍が行使するものです。 農工商の場合でも、学問を学び教養をつけようとし、それで成功した者も多数いますが、親として子の教育で力を入れようとしたのは、読み書きの実務能力の獲得、集団内で競い合う習慣の獲得です。 明治以降、境が渾然としますが、基本は同じです。 高ポジションを獲得するには、実務能力だけでなく知識教養、高位にふさわしい振る舞い言動と人的ネットワークの獲得維持が重要です。 高等学校・大学・兵学校・士官学校などもそのような場として機能しています。


> 武士やその後継である軍人などは戦前まで非常に高い地位であった筈です。

俸給生活者であった侍身分者は、明治に秩禄処分と散髪脱刀令で収入も外見も失いました。 高い地位など失ったのでしょう。
軍人も徴兵令で年季奉公させられるものが大半です。 兵学校・士官学校などのエリート養成コースに入れれば高い地位を得られましたが、東大・京大を卒業するのと同様で、(家柄の後継者)が得られる制度ではないです。 

儒教文化、江戸文化、明治以降、独仏英米の文化もちらし寿司のようにまぜこぜに入ってきますが、基本的に、明治以降はメリトクラシーを基本にして家血統と金とを織り入れた地位になっているように思います。

朝鮮はちょっと変わっているようです。 両班という身分認識が有名ですが、この有名さには誤解も大きく混じっているようです。 身分としての両班を引き継ぐもの・戸籍上両班階級は、李氏朝鮮末期には、国民の相当多数(地区によっては7割以上)になっていたそうです。 もちろん「転んでも自力では起きない・箸と本より重いものは持たないと言われる両班」は有名ですが、そういう両班がいるということで、両班の半分以上は、日本の地主・家主・商家の主という程度のことだったでしょう。

中国だと科挙が有名で、これに合格し地位を得て富裕を極めるよう実例があがるのですが、実のところ、科挙に合格できない多数の文人がわずかな雇用主を求め先生扱いの名を得るものの、ろくな生活が出来ない寄生的存在に終わるので、むしろ商売や農業経営、工芸技能で生活した方が良いと考えた人もいるようです。 そのような状況だから、中国には社会的に自立した法曹身分や法律家階級は成立してないのです。 文系儒学で立身出世を目指したものの大半は、お抱え教師のような仕事か、事務仕事の担当職しかなかったようです。

群雄割拠の戦闘が常態ではなくなっている中国、朝鮮、日本では、軍も国家の偉容を示すお飾りと治安出動や犯行暴力集団征圧のような役目しかないです。 地方軍閥のようなのは例外だけです。 軍の幹部も、官僚の一部でしかないでしょう。 戦乱、戦役がなければ軍の重要性はどんどん低くなり、軍は弱くなり、軍のトップも高位の者を充てる必要はなくなります。
万一、強い軍と高い地位の軍のトップがいたら、政情が不安定になるから、そうならないようにするのが普通の政策でしょう。 弱い軍しかないときに他国と戦役になる・反乱や内戦を鎮圧しなくてはならなくなってしまったら、そのときに有能な文官を軍の再建強化に充てればいいのでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E5%9B%BD …
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