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①(philosophy)(philosophia<ギリシャ>は愛智の意。西周は賢哲を希求する意味の周茂叔の文に基づき希哲学と訳し、それが哲学という訳語に定着した。)古代ギリシャでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派・論理実証主義・現象学など諸科学の基礎づけを目ざす学問。生の哲学・実存主義など世界・人生の根本原理を追求する学問となる。認識論・倫理学・存在論などを部門として含む。
②俗に、経験などから築き上げた人生観・世界観。また、全体を貫く基本的な考え方。「―に欠ける政策」

広辞苑の「哲学」を念のため引用しました。

あなたが所持している哲学(人生観、世界観、基本的な考え方)は

① 論理的帰結によって得られたものですか?

② 結論ありきで、理論は後付けされたものですか?

③ ①のケースの場合の具体例を教えてください。

④ ②のケースの場合、結論は何によって得られましたか?

質問者からの補足コメント



  • これこれ。

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/01/15 11:33

A 回答 (21件中1~10件)

仮の話なんですけど



まったく遺伝子の同じ一卵性双生児であっても

産まれてくるタイミングで兄弟や姉妹
ってなりますもんね

また、同じ家庭環境であっても

時間の前後があり、時間だけだはなく
愛情の受け取りかたなんかも
前後があれば差はでてきますもんね

例えば、お腹が空いてるのに
先にお乳を与えてた
なんてな、些細なことでもあるかも知れなくて

そういった、一卵性双生児がまったく同じ世界観(哲学)を持つのか

哲学っていうと大きな話になるから

なら、その双子ちゃんが思う
両親に対する思い込みや人物評価くらいがちょうど良いかも知れないですけどね

ちょいと前の質疑応答で、兄妹について話してたのも

兄妹ですら、両親にたいする人物評価って差があるはずであって

その兄妹で、誰が1番、両親の人物評価が正しいのか!

なんてな話になると変ですもんね

それぞれ、兄妹が見てきた両親の人物評価なら

どれも正しいはずであって

正解なんて沢山あって当然だとも思うんですよね

両親が子供たちに、人物評価を問いただして

誰々の人物評価が正しいって言い出したとしても

それってそうありたい願望でしかなくて、子供にそう思われたのは
事実ですもんね

まったく同じ両親なのに
微妙に違う人物評価になったり
家庭によっては、かなり開きのある人物評価にもなる

仮の話でだした
一卵性双生児であっても
まったく同じ人物評価はくださないだろうとおもうのは

あくまでもワシの考え方なんですけどね
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この回答へのお礼

その通りですね。

確かに、主観が感じる体験というものは千差万別。持って生まれた性格とか才能も違いますね。

お礼日時:2022/01/23 19:24

相手との相性は確かにありますね



哲学の違いってなニャンポコリンさんの助言から

哲学とは、自分自身が生きてる社会や世の中・様々なものが
どのように見えてるのか!
何故にそのように見えてるのか!

そういった、
見えてみるものを他人に説明したり
何故にそう感じたのかを他人に説明したり

そのための学問じゃないかとも思うんですよね

自分自身でみえてる世界観が
他人にも同じ世界観であるはずなんだけど

感じかたや、捉え方で違った世界観になるのは当たり前の話ですもんね

人に寄っては、自分自身が見えてる世界観こそ真実や心理だと
他人に押し付けてきたりするのと

ワシが観てる世界観を、妄想や戯れ言だと切り捨ててくる人も居てて

そういった押し付けや切り捨てには

軽くだけど抗いますよ
露骨に争うほどエネルギーは使わないですけどね

ニャンポコリンさんなんかが
ワシに話してくれる世界観(哲学)を聞かせてくれるときには

ニャンポコリンさんには、こう見えてるのか!
なんてな、違いが楽しく思えて
何故にそう見えるのか好奇心を引き立てられますよ

人間だから相性ってあるのは当たり前であって

相手の見えてる世界観に興味が持てるのか?
持てないのか?

ここら辺も重要なはなしだとも思うんですよね

古代から語られる世界観(哲学)つて
どれをとっても同じ世界観ではないけど

その世界観はしっかりとした論調で語られてたりもしますもんね

模倣するのではなく、その世界観をかいま見ることによって

現在の自分自身がみてる世界観が変化したり・より鮮やかに見えたりとすると思ってるから

哲学=学問=知識てな流れよりも

哲学=感性=認識てな流れをワシは求めてるんですよね

感性わ感情は、たんなる幻想であったり
そう思い込まされてる

なんてな世界観もあるけど、ワシ自分自身は感情的な生き物だと思い込んでるから

人の感情や意識がたんなる幻想でもないと思ってるんですよ

長いから、続く
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この回答へのお礼

ここのところいやに忙しくて、返事できなくて失礼しました。

私は、ほとんどすべての人間が正しいと結論付けているものって、直観によるものと思います。
そして、その根拠を、世にあるものを自分で組み立てて作っている状態。さらに、それを決めつけている状態。

決めつけているから、反対意見に耳を貸す余裕がなく、怒るんです。そして、排除しようとするのです。それは、人格とか人間性のなせる業でしょう。
または、人それぞれと言って無関心になるか。

真実を求めようとか、社会の本当の発展を求めている人ー少ないだろうけれどいますーは、いい議論をしようとします。そして、妥協をしませんから、時に押しつけっぽく感じたりするのでしょう。

お礼日時:2022/01/23 19:21

ワシは無学無為のため


何事も突進あるのみですよ

美しいハーモニー

Σ(゜Д゜)これはビックリです

美的感覚の乏しいワシには
確かに足りない感覚であって
耳の痛い話でもありますね

論理には時空
時間や順序なるものを明確にするってな捉え方でいいでしょうか?

1から2!
2から3!

順序だててゆっくりと話して貰える理論は、確かに聞いてて!安心感ってよりニャンポコリンさんの仰有る

美しいハーモニーてのはありそうですもんね

1から5なんてな論じてる本人だけが納得してしまってる場合だと

間の、2と3と4

見失ってて、論理を聞いてる方は戸惑うだけですもんね

1から2てのが
ひとによっては
1から5になってる事を、認識できなかったり

1から5を理解できない相手に
1から5が理解できないのは貴方の知識不足だとか切り捨てたりする人も

なかには居てますもんね
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

「美しいハーモニー」は一つの理想であって、確かに実現は難しいですね。
しかし、難しいからと言って、遥か天空の彼方へ打ち上げてしまうことは私はとても嫌なのです。

ドン・キホーテでもいいから、理想へ向かってゆくことがとても私はヒューマ
二ズムを感じます。

仰るように、私の1.2.3.4.5は、わしやけどさんのそれとは違うことが多いでしょう。
で、その違いには「理由」があるはずです。その理由とは哲学の違いでしょう。論理の技術の問題以前に。

そのあたりを丹念にできるかどうか、その作業をする前に相手を見下してしまっては、何も生まれませんね。
但し、相手によります。真理を求める顔をしても、我利我利の亡者と言うのはいますので。

お礼日時:2022/01/15 11:28

論理学とは



正しい判断や認識に達するための、思考の進め方(の形式)を明らかにしようとする学問

こういった言葉の定義がGoogle検索で出てきて

ニャンポコリンさんの求めるべき事柄は

その人の、思考の進め方てな事でしょうか!

それとも、他の人でも解りやすい
思考の進め方の提示になるんでしょうか?

持論を述べる人って、どうしても
その人なりの思考の進め方を説明しがちになって

他の人からだと、何故にそのような進め方になるのか?( ̄~ ̄;)

てな事柄は多いですもんね


思考の進め方を明確に説明するって言うのは
簡単なようで難しく

そもそも、説明って事柄を単体で考えても

相手に伝わる説明の仕方って

相手に合わせる能力なんかも必要になりますもんね

てなことだと

①相手に伝わる言葉であるべき

②相手に理解してもらえる説明であるべき

この2つが問題点なのかなぁ~
とはとは思ったんですけどね

論理学として学問的にとらえるのは
無学なワシからしたら
おこがましいはなしですもんね
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この回答へのお礼

ふむ、思考の進め方とは限らない、ということでしょうか。
ということよりも、論理はあくまで共有する「ツール」というと言う風に考えています。

ただ思うことは、人間の「考え方」の基盤は時空を基準にしているということではないかと見ています。そこから順を追って理で詰めてゆくというやり方は、人間がアプリオリに備えている能力ではないかと思います。

だから、論理学に見られるような正確な論理というものは人々の共感を得て学問的に認められているということが言えると思います。

論理は共有できる言語であり、その言語を使って争いではなく、美しいハーモニーを奏でることが可能だと考えています。

以前、amaguappaさんという頭のいい人がいて、そういうような話をした記憶があります。

学問的とか哲学的とかいう言葉を大上段に構えられて、ビビッてはいけません。尤も、わしやけどさんは大丈夫でしょうけれど。

お礼日時:2022/01/08 14:20

なら、ニャンポコリンさんに


あらためて問うなら

ニャンポコリンさん御自身の人生でね

哲学とはどうあるべきか!

他人の人生や世の中は、とりあえずめんどくさいから

置いといてでの問いかけですよ~


ワシは( ̄~ ̄;)型にハマらないけど
それとなく哲学的な要素は残ってて

話し言葉で相手に伝えられる哲学を目指してますけどね

なかなか、これが!Σ(゜Д゜)

相手に伝わらないから、まだまだ道のりは険しいですけどね

話をしてたら、哲学的なはなしだった
哲学だと敬遠てなかんじではなく

哲学ぽいけど個人的にはこんな感じじゃないかと

相手から引き出したい感じですね
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この回答へのお礼

>哲学とはどうあるべきか!

学者先生たちには、西洋哲学の枠、特に西洋近・現代哲学の小さい枠を破ってほしいと思う。

我々素人は、哲学をよく勉強して理解すべきだと思う。そのうえで、日常生活から線を引く思索をすべきです。
話し言葉でいいんですよね。だって、文化って我々庶民が話し言葉で共有するものですから。

ただ、意見がぶつかった場合は、論理学のキチンとした論理で議論すべきです。そうでないと、ぐちゃぐちゃになりますからね。

お礼日時:2022/01/06 15:08

ひとり遊びが上手な子供って居てますもんね



探求心や好奇心

内面に向けて燃やすタイプだったんですね

哲学者は変り者が多いから

自分自身の理屈や論理などなど
ブレない生き方が身についてたのかも?知れないですね

成長してからは、自分自身の理屈や論理
ブレたことってありますか?

オシエテヾ(・ε・。)
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この回答へのお礼

私は学校の勉強に興味がなく、嫌いでもあったので、若い時分は論理性が全くなかったですね。育たなかったと言っていいと思います。

更に言えば、「理屈」を言う人間を蔑みさえしていたので、尚更でした。

でも、論理というものを理解していなかったわけではなかったようです。

時代が変わり、科学の時代になり、論理性が必要になってきたので、身に着けなければ、と思うようになったのは、ここ6~7年です。
どこかで吸収したのでしょうね、論理的考え方の骨子は持っていたように思います。

以前は、世の中の理論は立派なものばかりだと漠然と思っていましたが、学者のいうことはともかく、素人の言う論理はいい加減なものばかりだということが分かってきました。

私自身の論理の骨組みは良いと思います。色々な理論(詭弁を含めて)に流されずに、ぶれないように気を付けています。

また、論理というものは道具ですから、色々な理論があり得ます。何を前提にし、何を目的にしているかで理論が変わってきます。

論理的整合性があれば、真実だというのは、論理信仰にすぎません。

お礼日時:2022/01/03 20:19

ニャンポコリンさん



明けましておめでとうございます!

(  ̄▽ ̄)にっこり

御兄妹の性格と、ニャンポコリンさんの性格の違いを理論的に把握するよりも、子供の頃からの経験によるものの考えが大きいのでしょうか?

経験することと
論理的に組み立てて行くこと


この両輪が揃ったからこそ
出せる答えですもんね
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この回答へのお礼

明けましておめでとうございます。

私は小さい時から、哲学者だったようです(笑)。

赤ん坊の時は一人で遊んでいて、全く手がかからない子だったと母親は言っていましたし、壁を見ていたり、石ころをじっと飽きもせず見ていたりして、何かを見ようとしていたことなどを覚えています。

お礼日時:2022/01/02 21:54

環境が同じだと


同じ性格に育つことはなく

似たような性格には成りやすい傾向はみられるけど
反発して、特出した性格にもなりやすい!

ワシは三人兄妹の末っ子で
上の二人とは、まったく違う性格だから

同じ環境であっても
環境を受け取る側の受け取りかたって
やはり個人差が出てしまい

受け取りかたから、個性ってつくられたりもしますもんね

詭弁は許さない!
この言葉から、詭弁なるものにたいする受け取りかたを考えたときに

実直な長男気質では無さそうだとおもったから

ちょっと尋ねちゃいましたよ!

なかには、殿様長男てな性格のかたも居てるけど

そういった方は、そもそも長男とか、兄弟とかの存在を感じさせないので
( ^∀^)(笑)

兄妹がいてるからこそ

対比や比較などなど
育った環境から獲た経験なんだろうと
思いますよ

対比と比較

考察するには、より情報が多い方が望ましくて

考えを深める人にとっては
ごくごく自然な事を、自然に行ってるだけなんですけどね


でね、現代だと独りっ子や!おおくても兄弟が二人まで

なんてな風潮だから

3人以上の兄弟や姉妹などの環境に育つ人は減りそうだとも思うんですけど

そうなると、そういった時代における
哲学の有りようってのか、存在意義ってのが
( ̄~ ̄;)現代以上に喪失されるんじゃないかと

家族や兄妹が多いほど
喜びは増えるぶん、悩みも増えて

悩みが増えるぶん、答えを哲学や宗教などの教えに求める

悩むからこそ哲学であって
哲学で答えが獲られるわけではないけど

答えを導きだすための手掛かりってのは
哲学のなかには溢れてますもんね
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この回答へのお礼

性格というものには色々あって、兄弟がいる場合、親も含めた数人の集団の中で、作られるものも当然あるでしょうし、生来のものもあるでしょうし、その区分は一般的には考察されないようです。

モノの考え方などは、どうやら生来の要素が大きいと思いますよ。これは、経験上そう思います。

お礼日時:2022/01/02 21:55

演繹法からすると


ニャンポコリンさんの育った家族構成では
ニャンポコリンさんが特殊なタイプだったんですね
(  ̄▽ ̄)にっこり

つかぬことを伺いますが
ニャンポコリンさんは次男か三男でしょうか?
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この回答へのお礼

兄妹と書きましたのでそう思ったのでしょうが、私は三人兄弟の真ん中の次男です。

次男とか三男とかは、やんちゃで奔放な人が多いと言われていますが、そういうところは私にもあるでしょう。

兄も妹も、ごく標準的な日本人と言えるでしょうね。悪く言うわけではないですが、標準的な枠の中から出ようという意思がないし、標準的に冷たくて、標準的に情熱がない(笑)。

同じように育っているわけですから、この違いは家庭環境によるものではなく、私の個性ですね。

お礼日時:2021/12/26 15:03

詭弁を許さない



( ̄~ ̄;)

無知が無知に論じるために
詭弁を使う話はきくけど

ニャンポコリンさんは無知ではないから

詭弁に引っ掛けられることって
無さそうにはおもうんだけど

そもそも、弁にたいしての
整合性や正当性の解釈の違いとかっでは無いでしょうか?

ワシは詭弁すら、楽しくたいらげてしまったりして

まぁ~そんな考え方もあるねって

済んでしまうんですけどね

何事も経験

詭弁も経験するのは、人生においての彩りではないでしょうか?
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この回答へのお礼

悪智慧も進化するから、油断はできないと思っています。

ただ、世の中深くものを考える人は少ないです。私の親もそうでした。兄妹もそうです。

立場の高い人間たちの詭弁は重大なことになり得るから、詭弁を憎むのです。

お礼日時:2021/12/26 12:49

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