架空の映画のネタバレレビュー

一般的に保守派が邪馬台国九州説、左派リベラルが邪馬台国畿内説をとる構図があるのはなぜでしょうか?歴史的事実とか、通説はどうだとかは一旦置いといて、それぞれの理論を教えてください。例えばなんらかの皇国史観的な歴史解釈をする場合は邪馬台国が九州にあった方が都合がいいとか、逆に皇国史観や記紀の記述を否定するためには邪馬台国が畿内にあったほうがいいとかいうことがあるのでしょうか?
私的には神武東征絡みでこの構図が出来上がってるのかなと思ったりするのですが、わかる方が教えてください

A 回答 (5件)

古事記を参照。


崇神天皇の崩御干支を258年に当てれば、その時代が
卑弥呼時代になる。

当時、日本統一して中国が外交対象政府に
指定したところというなら大和朝廷以外、考えられない。

何で、それを採用しない研究者がいるか理解に苦しむ。
目を覚ましてほしい。
他地誘導は、村おこしというかご当地ソングみたいなものです。

邪馬台国という文字の当て方は中国式の差別侮辱漢字。
こんなものに振り回されるなかれ。

中国からみれば、大和は南の方角に見えて
ああいう記述が生まれ、それに惑わされて
様々な憶説流れ、
多種多様な説が立説。

大和朝廷に統一して
解明を望む。
    • good
    • 0

邪馬台国は現代の略漢字



正確には
邪馬台国でなく
邪馬臺國

この文字を見て
ヤマタイコクと読んで
上陸地から大和に向かう道が
おかしいと
思い込んだ馬鹿学者が
九州とか
四国とか
ケチを
つけて
説が日本全国に分化しただけ。

中には
村おこしで
自分の好きな土地に
邪馬台国があればいいなあで
勝手に
読者を
誘導。
ごまかされて洗脳されるなかれ。

あれは
「ヤマトノクニ」
と読めば
何の混乱もないでしょう。

正しく
読まない人の
勝手な憶測で
日本古代史が
混乱しているだけ。

魏志倭人伝の編者は日本に行っていない
使者が40年くらい経ってから
昔話に聴いて
それに従って
書いたもの。

だから
誤り多し。
それを妄信しているだけ。

振り回される必要ない。

大和朝廷にあてはめて
解釈すれば
いいのです。
    • good
    • 1

幾内は左側の人の勢力が強い地域です。


革新派の最初の知事は、確か京都知事だったと
記憶しています。

九州は保守層が強いです。

そうした違いから来るんじゃないですか。

事実の違いが、イデオロギーに左右される
てのは、変な話ですが。

似たようなモノには原発があります。

右派が継続、左派が廃止。

ポイントは危険性のはずですが、どういう
訳か、イデオロギーで色分け出来ます。
    • good
    • 0

畿内説は、畿内ヤマト王権の遺跡がたくさんあるので、予算を獲得したい大学の研究室などが、ウソを承知で言っていただけです。


数年前に世界遺産になって、そんなウソをつかなくても予算が獲得しやすくなったので、以降は畿内説を言っているようなところは無くなりました。
    • good
    • 0

>一般的に保守派が邪馬台国九州説、左派リベラルが邪馬台国畿内説をとる構図があるのはなぜでしょうか?



かならずしもそうではないですよ。
むしろ私は逆だと思っていました。

>逆に皇国史観や記紀の記述を否定するためには邪馬台国が畿内にあったほうがいい

邪馬台国が畿内にあったとすれば、古代のヤマト政権は2~3世紀頃には畿内はもちろん、北九州もその支配下においていたということになります。ですのでヤマト政権が東北などを除き事実上日本を統治していたことになります。

一方、邪馬台国が北九州だとすると、ヤマト政権はまだ北九州まで統治していていなかったことになり、ヤマト政権は弱小だったことになりますよね。

皇国史観の考え方でいえば紀元前5世紀には神武天皇が日本全体を支配下においていたとのことですので、邪馬台国が畿内にあった方が都合が良いと思うのですが。もっとも、本居宣長は日本が中国に朝貢したという倭人伝を信用せず、卑弥呼は朝廷の名をかたる九州の熊襲のたぐいと主張していますね。

質問者さんが「保守派が邪馬台国九州説、左派リベラルが邪馬台国畿内説」と思われている根拠は何でしょう?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

どうやら私の思い込みなのかもしれません。いろんな邪馬台国論争系の本を読んでいてなんとなくそういう構図があるように思えたのですが、もう一度調べてみます。
神武東征の下で、皇国史観的には邪馬台国九州説が都合がいいということはありませんか?素人質問で申し訳ないです

お礼日時:2022/04/06 21:03

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!


おすすめ情報