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邪馬台国東遷説についてどう思いますか?

A 回答 (6件)

魏志倭人伝で九州説と大和説があり、


九州説を立てた人が、3世紀以降、
大和に朝廷があるために
九州から大和に遷ったとしただけでしょう。

神代は九州にあったが、神武天皇の時に
大和に進軍して長髄彦を討って大和に朝廷創立。
以後は大和に都。

紀元2600年は嘘、
まあ、600年くらいサバ読みでしょう。
紀元前後の頃に九州から大和に進軍したのでしょう。



魏志倭人伝に出て来る邪馬台国は3世紀の話ですから
大和です。崇神天皇の頃ですね。
古事記の崩御干支で
崇神天皇の崩御年は258年と出てくる。
卑弥呼の時代は239年で、ちょうどぴたりと
ぶち当たる。
だから邪馬台国は断じて
九州ではありません。
大雑把な記述で様々な説が出ていますが、
大和説以外は、自分の好きな土地に
読者を誘導しようとしているだけ。
九州内でもいろんな候補地ありますね。
ほかに四国とかさらに外国に行って
フィリピン・エジプトなんて突飛な説もある。
こういう奇説は立てた人が
その説を正当付けるために
好き勝手な解釈で
読者を誘導して
いつのまにか
立説者のもっていきたい地に
読者を誘導しているだけ。
いわゆるご当地ソングね。

大和朝廷説以外は排除しましょう。
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ゴミですw


畿内ヤマト王権が、邪馬台(ヤマト)国と同じ名前だから、この2つはつながりがあるのだろう、関連があるのだろう、というアホな考えです。畿内説も同じです。

実際には4世紀に書かれた中国の歴史書である三国志(史書)に、倭国の王(女王)が邪馬台国に居る、と書かれていたので、後にまったく関係ない畿内ヤマト王権が、自分たち(倭の国の王)が住んでいるところをヤマト国と呼ぶようにしたものです。

旧唐書(史書)に、『日本舊小國 併倭國之地(日本は旧小国、倭国の地を併せたり)』と書いてあります。つまり元の倭国(九州)を旧小国(畿内ヤマト王権)が吸収合併して今の日本になった、とはっきりと書いてあるのです。これが正しい。
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邪馬台国関連の遺跡は発見されて無いので、実在したのかも解らない


状況です、しかも日本には記録が無く、中国の古文書に記載されて
いるだけです、その古文書の真偽を確かめる手立てないのです。
無い無い尽くしなのに無から有を導き出そうとしているので滑稽に
さえ思います。
歴史学者と称する方々の恰好の印税稼ぎになってますね。
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少なくとも、九州説と畿内説の論争には、決着は付きませんね。


「どっちも正しい」みたいな説ですから。

従い、ソコソコ有力な説ですが、現時点では不要な説と思います。
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神武東征がそれに相当する史実に基づいた神話であると考え、また邪馬台国が大和朝廷の前身であると想定するのなら、必然的に邪馬台国東遷説が正しいという話になる。



上記の2点の前提は、現段階では考古学的にも文献史学的にも証明されていない。
したがって、邪馬台国東遷説は有力な仮説のひとつであり、それが正しいとも間違っているとも断定できる状況にはない。
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ありそうな話だと思っています。



そもそも、北九州が朝鮮半島に近いですから、渡来人の多くが朝鮮半島から北九州に渡ったのでしょう。朝鮮半島の影響を受けて文化も発展したはずです。良盆地は朝鮮半島からだいぶ離れていますしね。

ですので北九州で発展したヤマト政権が東遷し、奈良盆地になった古代政権を服従させたと考える方が自然でしょう。それを伝説化したのが神武天皇の東遷ではないでしょうか。こう考えるのが一番わかりやすいような気がします。
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