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場所がわからないのかもしれませんね。 
迷っているのかもしれませんね。

この文の中の「の」の働きを教えてください。

A 回答 (27件中1~10件)

「的」


病的なまでのこだわり様・・・・。
この場合の「的」、病気なの?それとも病気ではないの?。
病気と断定できない故「的」をつけています、二者択一なら病気ではありません。
ごちゃまでで、その時その時で自分にとって都合よく解釈している人います。
「の」の働き、何ですね、意味とか何を表している、とかではなく、言い換えれば「機能」?。
直前の内容「場所がわからない」これをひとまとめにして名詞のごとく扱わせる機能を持ちます、扱うのは、受け取る側です。
「場所がわからない」→品詞分解すれば?。
場所・が・わから・ない、→複数の品詞からなる複合語になっています、単一の品詞ではありませんね。
「場所がわからないの」、全体であたかも単一品詞の名詞と同じ扱いを可能にするので、助詞「の」の中でも、そんな機能を持っている場合は準体助詞といわれるのが一般的です。
文の構成上、あたかも名詞のように扱われるので「場所がわからないの」全体を形式名詞といわれることもあるようです。
「の」単独では、品詞名でもある〇〇名詞なんて表現はあり得ません。
最初に示した、病的なまでに・・・の的と全く同じ意味で論理的という人以外は。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考にさせていただきます。

お礼日時:2022/05/01 14:09

最近やたら引用が多くなりました。


コピペ丸投げ知識の披露にはもってこいですね。
下手に自分なりの理解でもしようものなら支離滅裂、すべて掲載ではスペース不足ですね。
で、理解不能に対しては、お得意、18番の「こうした寝言では、・・・・」。
アメリカ某有名大学で留学生が発表して、出どこを教授に尋ねられて、大学の図書館の本の名前を言ったところ、その辺に出回っている本に載っているようなこと、本学では教えていません。
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書き忘れがありますので追加をさせてください。


#22の方は下記の質問に答えることができないようですね。
わからないことはスルーするか、または論点をすり替える、というお得意の手法がここでも発揮されていますな。
とはいっても答えちゃうと自らの矛盾を暴露してしまうことになるので、その意味では賢明なのかもしれんですな。(笑)
いや、それ以前に質問の意味を理解できていない可能性のほうが高いか。(笑)

>>「顔が青いが心配だ」
口語では一般的に「の」を使用しますが、古文では省略が一般的です。

a.「迷っているかもしれませんね」は古文なんですか?
b.「顔が青いが心配だ」を古文にできますか?
《認識としては存在しているが調子に合わせ省略される場合》は、どのように表現するんですか?
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#21です。


#22の方のご回答について。
この方は、文章の読解能力や事態認識能力がほとんどないため、このように不合理な言いがかりを平気でつける習性をお持ちです。
このサイトに参加している常連さんであれば、だれもが知っていることですが、新規の方々は十分に注意が必要ですね。
むろん、この方のように根拠なしに、このような批判をしているわけではありません。
#22の、こんな短いコメントにもかかわらず、そのすべてが不合理で埋め尽くされているのは、むしろ感心せざるを得ない。(笑)
以下検証していきましょう。

1.
>辞書のコピペの能力しかない回答者がしつこく言い訳されていますので本質的な誤りを指摘しておきます。

#7で最初に
《この「の」を<準体(助詞)>などと呼んでいる回答者がありますが、》と言い掛かりをつけてきたのは、この方のほうです。
無視してもよいのですが、質問者さんに誤解を与えないよう、あえて反論しているにすぎません。
《しつこく言い訳されています》など、盗人猛々しいと言わざるを得ない。

2.
>>>《話者の認識を明確、確実なものとして表現する》必要があるのはなぜか?

このような質問を発すること自体、言語は話者の認識の表現であることが全く理解できていないことを露呈しています。

読解力がないので、こうした頓珍漢な批判(のつもりなのでしょう)を平気でやります。経緯は以下のとおり。

・hakobulu⇒
「迷っているのかもしれませんね」の「の」は省略できるが、
「顔が青いのが心配だ」の「の」が省略できない理由は何か?(#19)

と質問したわけですが、それに対して、

・アスナロウ⇒
どちらも省略は可能で、話者の認識を明確、確実なものとして表現する場合に<抽象名詞>「の」を使用するということです。(#20)

という答が返ってきましたが、これは答になっていないということです。
この方は、

・アスナロウ⇒
「顔が青いが心配だ」
口語では一般的に「の」を使用しますが、古文では省略が一般的です。(#20)

とも言っている。
『口語では一般的に「顔が青いのが心配だ」の「の」は省略しない』
ということですね。
それはそうでしょう。
ここで、

「迷っている(の)かもしれませんね」の「の」は普通に省略できるのに、「顔が青い(の)が心配だ」の「の」が一般的に省略できないのはなぜか?

という疑問が浮かびませんか?
それが質問の要旨です。
しかし、
《話者の認識を明確、確実なものとして表現する場合に<抽象名詞>「の」を使用する》というのは、「迷っているのかもしれませんね」と「顔が青いのが心配だ」のどちらにも言えることですから、質問の答えになっていません。
ですから、#21で、

・hakobulu⇒「顔が青いのが心配だ」という文において、《話者の認識を明確、確実なものとして表現する》必要があるのはなぜか?
という点について述べないと意味がありません。(#21)

と申し上げたわけです。
しかし、こうした質問の意味すら理解できずに、詭弁を振り回しては言いがりをつけるのがこの方のスタイルなのです。
・・・昔からですが(笑)。

これもすべて彼の読解能力の欠如にあることは明らかですが、この方は、仮に自分が間違っていることに気づいても、決して訂正しようとはしません。
プーチンみたいに、あれこれ屁理屈を捏ねては自分の意見を強引に押し通そうとするのが決定的な欠点です。巻き込まれないようご留意ください。
キリがないので、特にallotmentさんからのご質問が無い限り今回はここまでとさせていただきます。
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No.23 の誤りについて。



こうした寝言では、下記の問題に正しく答えることはできません。

言ふを、 の活用形は終止形ですか?連用形ですか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …
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No.21 の本質的な誤りについて



言語表現ということが全く理解できずに、辞書のコピペの能力しかない回答者がしつこく言い訳されていますので本質的な誤りを指摘しておきます。

>>《話者の認識を明確、確実なものとして表現する》必要があるのはなぜか?

このような質問を発すること自体、言語は話者の認識の表現であることが全く理解できていないことを露呈しています。

なお、
<準体助詞>という誤り
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9857 …

<形容動詞>説は誤りである
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9598 …

を参照下さい。この辞書コピペ専門の回答者には論理的な思考力が全く欠けています。■
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この回答へのお礼

『の』の分析、それからリンクも貼っていただきありがとうございます。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2022/05/01 14:07

#19です。


やはりなにもわかっておられませんな。
無駄だと思いますが、いくつか指摘しておきましょう。

>どちらも省略は可能で、話者の認識を明確、確実なものとして表現する場合に<抽象名詞>「の」を使用するということです。

「顔が青いのが心配だ」という文において、《話者の認識を明確、確実なものとして表現する》必要があるのはなぜか?
という点について述べないと意味がありません。

>「顔が青いが心配だ」
口語では一般的に「の」を使用しますが、古文では省略が一般的です。

a.「迷っているかもしれませんね」は古文なんですか?
b.「顔が青いが心配だ」を古文にできますか?
《認識としては存在しているが調子に合わせ省略される場合》は、どのように表現するんですか?
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言語とは何かの本質的な理解のない方が非論理的な回答を並べられていますので、くどくなりますが補足しておきます。



>><準体助詞>という表現は誤りだというご見解のようですが、それは個人のご自由でしょう。

いいえ。
好き嫌いの問題ではありません。
誤った品詞分類は語の意義を正しく捉えら得ない論理の露呈で、対象を正しくとらえられず、誤解、混乱を招きます。

>><抽象名詞>と呼びたければ、そう呼べばいいだけの話。

いいえ。
対象の本質を捉えた科学的、論理的な分類に基づく、正しい適切な理解と、命名が必須です。

>>「品詞名や呼び方は何でも構わない。」と申し上げているように、そう呼ぶことに反対しているわけではないので。

自身の無智と非論理性を曝け出しているだけです。
何が正しいのかの論理、判断を有していないということです。

>>「迷っているのかもしれませんね」の「の」は省略できるが、
「顔が青いのが心配だ」の「の」が省略できない理由は何か?

どちらも省略は可能で、話者の認識を明確、確実なものとして表現する場合に<抽象名詞>「の」を使用するということです。

「迷っているかもしれませんね」

「顔が青いが心配だ」
口語では一般的に「の」を使用しますが、古文では省略が一般的です。
この場合も、「顔が青い(■)が心配だ」と実体認識はありながら、省略されており、■(零記号)になっています。

良く知られているのは、

いづれの御時にか、 女御、更衣あまた さぶらひたまひけるなかに、 いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めきたまふ(かた)ありけり。

のように名詞「かた」が認識としてはあるが省略されています。また、

負ける(の)が勝ち

のように、認識としては存在しているが調子に合わせ省略される場合もあります。■
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この回答へのお礼

顔が青いのが心配だ。
顔が青いが心配だ。

確かにそういわれてみれば『の』がなくても使えますが、すると、一番目の『が』が格助詞であるのに対して、二番目の『が』が接続助詞のような働きに代わります。
ちょっと調べてみたら、↓
(準体助詞的に用いて)下の名詞を表現せず、「…のもの」「…のこと」の意を表す。
と出てきましたが例が古文になっていました。(goo辞書)
現代日本語では主流でないものの、習慣的に残っているいい方という理解はできますか?
歴史を感じます。

お礼日時:2022/04/29 23:17

#17ですが、#18の方のご回答を拝見して再度おじゃまします。



>「品詞名や呼び方は何でも構わない。」という品詞区分の意義が全く理解できていない回答があるので、少しくどいのですが、<準体助詞>という誤りについて纏めたものを下記しておきます。

<準体助詞>という表現は誤りだというご見解のようですが、それは個人のご自由でしょう。
<抽象名詞>と呼びたければ、そう呼べばいいだけの話。
「品詞名や呼び方は何でも構わない。」と申し上げているように、そう呼ぶことに反対しているわけではないので。

ただ、色々と御託を並べているようですが、論点を把握しておられるのでしょうか???
つまり、質問者さんは何を知りたがっているのか?
ということを、あなたは理解していますか?
ということです。

<準体助詞>という誤りについて纏めたければ、それも結構ですが、その前にまず質問に答えましょうよ。
<準体助詞>と呼ぶべきか<抽象名詞>と呼ぶべきかは、また別の問題ですよね?
論点をずらすことで自らの無知を糊塗しようとする手法は、すでに見透かされていますぞ?
ご質問の論旨は以下のとおりです。
(答えられるなら)答えてみましょう。
(答えられないなら)わかりません、と明記しましょう。
あれこれ詭弁で誤魔化したり、論点をずらして逃げようとするのはおやめになったほうがよろしい。

(論旨)
「迷っているのかもしれませんね」の「の」は省略できるが、
「顔が青いのが心配だ」の「の」が省略できない理由は何か?
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「品詞名や呼び方は何でも構わない。

」という品詞区分の意義が全く理解できていない回答があるので、少しくどいのですが、<準体助詞>という誤りについて纏めたものを下記しておきます。

まず、<助詞>と<名詞>は学校文法でも付属語と自立語という全く異なる品詞類に区分され、〔実は「準体助詞」と呼んでも「形式名詞」と呼んでも構わないと思います。〕などいうのは品詞区分の意味をなさないというしかない。品詞の定義、区分が全く理解されていないのである。

「なんな【の】でしょうか」の「の」も<形式(抽象)名詞>であり、「な」は連体形の判断辞で、活用の整合性からも「の」が名詞でないと非合理である。

<準体助詞>という名称、区分を生んだのは学校文法の提唱者である橋本進吉である。ここに、形式主義、機能主義的な橋本文法の欠陥と矛盾が露呈している。

いま、<普通名詞>を使い、

(a) 青い【リンゴ】はすっぱく、赤いリンゴはあまい。
(b) 私が干渉した【行為】は、よくなかった。

というところを、初出以後はもっと抽象的に、<形式名詞>を使用し、

(c) 青い【もの】はすっぱく、赤い【もの】はあまい。
(d) 私が干渉した【こと】は、よくなかった。

と表現することも多いし、さらには「もの」と「こと」との段階をも超えてもっと抽象的にとらえて、

(e) 青い【の】はすっぱく、赤い【の】はあまい。
(f) 私が干渉した【の】は、よくなかった。

とどちらも同じ形式の「の」で表現することもしばしば行われている。

対象それ自体のあり方は何ら変化していないのだが、認識がヨリ抽象的ヨリ普遍的になったために、次第にその具体性・特殊性が後にかくれてしまったのであり、その抽象的な概念を表現するために適当な言語規範がつくり出されて「もの」や「こと」が生まれ、ついには「の」が使われることになったのである。

(a)の「リンゴ」や(b)の「行為」ならば、誰でも口をそろえて<名詞>だというに違いない。だとすれば、これらに代って使われる(c)の「もの」や(d)の「こと」も、具体と抽象との違いこそあれ、やはり<名詞>だと考えなければならない。通説も、これを<名詞>と認めて、いまでは<形式名詞>と呼んでいる。(e)(f) の「の」にしても、文法の教科書などに縁のない素朴な人びとなら、これも「もの」や「こと」と同じ性格の語と受け取って、やはり<名詞>だというであろう。極度に抽象的で、対象がどんな実在かよくわからないけれども、客観的なものごとを扱った客体的表現であるぐらい、検討がつくのである。

しかし、多くの学者は、この「の」を「もの」や「こと」に相当する語だと認めながら、しかも<名詞>とは見ていない。その理由の一つは、彼らが<名詞>の本質をその内容にではなく形式や機能の特殊性に求めているところにあり、今一つは、日本語の特徴である<助詞>の中にやはり同じ<形式>の「の」が存在しているところにある。

橋本進吉は、品詞分類の根本的な基準を、自立して文節を構成できるか否かに置いたから、<名詞>は自立して文節を構成できる語だと規定した。「花」は、「花、実ともに美しい。」のように自立した文節になるし、「花を」「花に」「花だ」などのように<助詞><助動詞>が付属してさなざまな文節がつくれる活用のない語であるから、これは<体言>であり<名詞>であるという。

(e)(f)の「の」が、自立して文節を構成できないことはもちろんである。しかも、他方で、同じ「の」は「梅【の】花」「私【の】財産」のような形で多く使われているし、これらは<格助詞>とよぶのがふさわしい。(e)(f)の「の」は、自立して文節を構成できない点で<格助詞>と一致するという事情もあって、これらを<格助詞>の特殊性な使い方だと解釈するのが通説となっていった。

形式主義は語の内容よりも形式を優位に置き、表現主体の認識ではなく語の「かたち」を何よりも重視する。彼らにしても、形式が変わることなしに内容が変わるという歴史的事実は否定しない。「たたむ」という動詞が、そういう性質を持つ実体の名称になって「たたみ」という<名詞>が生まれたというような、語の転成も否定しない。【けれどもこれらは、語が本質的に異なった性格のものに変化したわけではない】。同じ<名詞>としての意味の変化であり、同じ客体的表現いわゆる<詞>としての語の転成である。

橋本は形式主義者であるだけに、「の」を<助詞>と見て、山田孝雄の資格付与節を吟味し克服するどころかこれを忠実に受けついだばかりか、山田とは逆に「の」を格助詞から追放してしまった。こうして橋本は、<体言>につく「の」を<準副体助詞>、他の語についてその語に<体言>の資格を付与する「の」を<準体助詞>と区別するのである。

『国語法研究』は、橋本の形式主義およびそれを補強するための機能主義を読みとるのにふさわしい。「の」は形式的に<助詞>であるけれども、「赤い【の】を見せる。」「死ぬ【の】は困る。」などを考えてみると、これらの「の」は「他の語について或る意味をを加えて、全体として体言と同じ機能を持ったものを作るもの」と思われてくる。<助詞>は橋本文法では<辞>とよばれ付属語とされているのだが、【これらの「の」は他の語につくことで全体が、<詞>すなわち自立語と同一の機能を持つものになる】、と説明する。「の」それ自体は<体言>ではないが、これが他の語につくと「の」をふくめた全体が<体言>の資格を持つことになると見て、これを「準用」と名づけた。「語が或る品詞の資格を得て、その品詞と同等に用いられる事をその品詞に準用せられたものと見るならば、その資格を与えるこれらの各種の辞を準用辞又は準用助詞と総称してよかろうと思う。」先の例でいえば、<助詞>「の」は用言「赤い」「死ぬ」に特殊な資格・特殊な機能を与えるわけであって、「赤いの」「死ぬの」全体が<体言>機能を獲得する。それゆえ「の」はここでは<準体助詞>とよばれることになる。

ここでは、「赤いの」「死ぬの」という、連体形「赤い」「死ぬ」と形式(抽象)名詞「の」との活用の関係は無視されることになる。文法の持つ論理性をこのような機能論では捉えらえないことになる。

また、「の」はすべて<助詞>とされ、その中に<格助詞><準体助詞><終助詞>を区別する。(f)の「の」は、<準体助詞>で、「これ欲しい【の】」 のように文の終わりに使われる「の」は終助詞である。これが「のか」「のさ」「のね」「よね」「のよ」などの形をとるときにも、一語として扱うのが普通であるが、これらは語とは何かが理解できない誤りである。

詳しくは、

三浦つとむ『日本語の文法』(勁草書房:1975.7)
「第三章 日本語の<形式名詞>―「の」とその使いかた」の「三  橋本文法は「の」を<準体助詞>と解釈する」を参照下さい。■
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