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高校の世界史でフランス革命を学習しているのですが、三部会から第三身分が離脱し、国民議会を作ったあと三部会はどうなったのですか?

国民議会が1791年憲法を定めたり、その後にできた立法議会でも王権の停止を宣言したりしていて、なぜ第三身分が国の事を決めているのでしょうか?
三部会からの反発はなかったのでしょうか?
上の身分を差し置いてなぜ順調に勝手に国を動かしていけるのかがよく分かりません。

上手く説明出来なくて分かりにくい文面だとは思いますが、どうか御回答頂きたいです

A 回答 (1件)

ネットに情報があります。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95 …
全国三部会において、議決方法などをめぐる第三身分(平民)と第一・二身分(聖職者、貴族)との対立が深まった。そのため、第三身分(彼ら自身はコミューンと称した)は、1789年6月17日にアベ・シェイエスのもとで国民議会の成立を宣言した。しかし、下級聖職者らが合流に合意したほかは特権階級の支持をえることができず、国王政府も国民議会の弾圧を図った。これに対して国民議会の勢力は屈服せず、6月20日の「球戯場の誓い」などを通じて徹底抗戦の構えをとった。国民議会と国王政府の深刻な対立を懸念した国王も、国民議会を承認せざるをえなくなり、聖職者の多くと貴族の一部が国民議会に合流した。その後、国王の勧告に従って残りの勢力も国民議会に加わり、混乱は一旦収拾された。7月9日には憲法制定国民議会と改称され、憲法制定の準備を行うことになった。

高校の教科書にも記述があります。
1789年5月、ヴェルサイユで三部会が開かれたが、議決方法をめぐって特権身分と第三身分が対立した。
6月、第三身分の議員は、自分たちが真に国民を代表する国民議会であると宣言し、憲法制定までは解散しないことを誓った(「球戯場(テニスコート)の誓い」)。
特権身分からも同調者があらわれると、国王も譲歩してこうした動きを認めた。
国民議会は憲法の起草を始めたが、まもなく国王と保守的な貴族は、武力で議会を弾圧しようとした。
この頃パンの値上がりに苦しんでいたパリの民衆は、これに反発して圧政の象徴とされたパリのバステイーユ牢獄を7月14日に攻撃した。この事件後全国的に農民峰起がおこり、貴族領主の館が襲撃された。
国民議会は1789年8月に自由主義的貴族の提案で封建的特権の廃を決定し,領主裁判権や教会への十分の一税が無償で廃止された。また8月26日、議会はラーファイエットらの起草した人権宣言を採択したが、この宣言は、すべての人間の自由平等主権在民、言論の自由、私有財産の不可侵など、近代市民社会の原理を主張するものであった。

> 三部会からの反発はなかったのでしょうか?

「三部会からの反発」というほど、「三部会」は一体感を持つものではなく、内紛でどうにもならない状態です。三部会が一体となる状態にはないです。
http://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-027.h …

> 上の身分を差し置いてなぜ順調に勝手に国を動かしていけるのかがよく分かりません。

内部に意見の対立や利害の相剋があると、順調な運営にはならないです。
内部でゴタゴタが続くか、頻繁に状況が変わるほど大きな動きがあるのか、ひたすら平穏であまり変化や対立が起きずになるのかは、多くの場合、《その社会の経済状態・産業活動で決まる》ことが多いようです。
地方の豪族が割拠して地域経済がそこそこ ⇒ 社会経済の相互交流が高まり中央集権的政権 ⇒ 中央の一強だけでなく各地に経済力を持ち武力で自衛する集団が形成・武力集団も組み入れた封建制 ⇒ 産業と広域流通経済の発展で商工業や経済力を持つものの勢力伸長・商工業者や金融業者の意見や利害が社会の重要事項になる そうした変化は止められるものではないです。
家柄や宗教的権威をかざすことでなんとかやれる範囲はどんどん狭まります。

高校なら、教科書を三度、四度と読むと、それだけでも、結構分かることが多いと思います。
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この回答へのお礼

解決しました

細かいところまでありがとうございました!!
全て解決しました!!

お礼日時:2022/07/11 18:00

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