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大東亜戦争で日本がフィリピンに攻め入り、アメリカ軍を追いやったのは、フィリピンの油田など、地下資源が目的だった、言われているが本当か?
フィリピンはマレーシアから石油ガスを輸入している。
フィリピンに石油ガスの埋蔵があるとしても、取り出す技術が無い。
米軍を追いやってまで攻め入るにはリスクが大きい。
日本軍のフィリピン侵攻の目的は何だったのか?

質問者からの補足コメント

  • みなさんからの回答、ありがとうございます。

    質問は、フィリピンの人と話していた中で、フィリピンの人から言われたことです。

    フィリピンでは多くの人が、日本がフィリピンを植民地にした、と認識しているようです。

    質問は、私から、そんな事はない、フィリピンを植民地にする理由も無い、と反論したら言われた事です。

    もしかしたら、日本がフィリピンを植民地にしたことにする理由としてフィリピン国内で言われていることかも知れません。

      補足日時:2022/07/26 09:50

A 回答 (14件中1~10件)

フィリピンを足掛かりにして南方への侵略を


しやすくするためだと理解しています。
後、公的な場での大東亜戦争という呼称は
好ましくないです
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No7です。


補足についてですが。
(それ以外の、いわゆる戦争犯罪の冤罪については質問の主旨から外れるのでお話ししません。不要に話を広げるとそれらへの回答への反論が入り混じって混乱します。)

そもそも、その戦争犯罪とやらは、「占領後」の事で選良のの動機や目的とは無関係ですし。



A:>そんな事はない、フィリピンを植民地にする理由も無い、と反論したら言われた事です。

問題の主旨がずれています。

質問文:日本がフィリピンを攻めたのは、資源が目的か?
(↑については、私は回答したと思っています・
資源もあてにしていたとは思いますが)
資源の確保→植民地化が必須 ではないと思います。


日本はアジア諸国を一時的に統治しましたが植民地にはしていません。
少なくともそのような宣言はしていません。
欧米から解放した後も統治したのは、欧米の再占領を防ぐ為です。
実際、戦後に欧米はアジアを再占領しようと軍を差し向けています。


日本は占領後の1943年に軍政を撤廃し、「フィリピン共和国」として独立させています。
しかし、その後、日本の敗戦によってアメリカに再占領され、「現在のフィリピン共和国」として独立したのは、1946年でした。


「フィリピンの人」がAと考える理由ですが、以下の事が影響していると思います。
そして、その国の人の語る自国の歴史=事実 とは限りません。
植民地の定義を正確に知っているとも限りません。
(とある半島と島国にも、併合と植民地を混同している方がいますし)

1:フィリピンはスペインの植民地でした。
2:スペインと戦争をしたアメリカは、独立させる条件でフィリピンを味方にしました。
3:しかし、戦後にアメリカはフィリピンをで自分の植民地にしました。
4:その後アメリカは「1946年に独立させる」という約束をしています。
5:しかし、その前に大東亜戦争が起きてしまいました。

以上から、日本にたいして「余計な事をしやがって」と思った人はいると思います。
(戦争がなければアメリカが「本当に約束を守るつもりだったか」や「その場合どのように独立させるつもりだったのか」は不明です)


バータンについてですが(仮に事実だとして)

3の時に、フィリピンとアメリカは戦争をしています。(米比戦争 1899年-1902)
その時、アメリカは「フィリピンのゲリラは兵士としての資格に欠け、したがって、もし捕虜となった場合、戦争における兵士の特典を享けるに値しない」として「10歳以上はすべて殺すこと」と命令しています。

現地からは「アメリカ軍は犬畜生とあまり変わらぬと考えられるフィリピン人の10歳以上の男、女、子供、囚人、捕虜、……をすべて殺している。手を挙げて投降してきたゲリラ達も、一時間後には橋の上に立たされて銃殺され、下の水におちて流れていく」という報告がされています。
アメリカの議会では、この戦争で20万人のフィリピン人を殺害したという報告がされています。

「大東亜戦争で日本がフィリピンに攻め入り、」の回答画像13
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捕捉について



フィリピンを占領した日本軍はフィリピンを軍政下に置いたが、フィリピンは植民地化したスペインとも米国とも独立ゲリラ戦争を続けてきた国柄で、米国とは独立の約束を取り付けていた。その独立寸前に太平洋戦争が勃発して日本軍がやってきて独立がご破算になったという経緯がある。
独立軍は、引き続き日本軍と戦い続けることになった。

そして軍政を敷いた日本軍は、物資を日本に大量に送るなどフィリピンの一般国民の恨みを買ったことは間違いない。そのために反日意識は非常に強く、独立軍のゲリラ戦で日本軍は苦しめ続けることになった。
今の対日感情は好転しているとはいえ、フィリピン人は当時のことを忘れているわけではない。

なお、フィリピンは鉱物資源はそれなりに豊かだが、当時は石油資源はない。今あるガス田はオーストラリアが採掘権を持つ海底ガス田で産出量もたいした量ではない。戦争当時は発見もされていなかったのではないだろうか。
もし、ご質問者が話を聞いたフィリピン人が「日本軍はフィリピンの油田を狙ってやってきた」と本当にそのように言ったのなら、何かの勘違いでしょう。

それに比べて、インドネシアの油田は当時も産出量が非常に多く、当時の日本の必要量よりもかなり大きな大油田だった。
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医療関係者かもしれないが本物の医師ではない。

本格的な教育を受けてない感じが漂っている。そんな人も世の中にはいます。その関連で、再び回答させてください。

大東亜戦争(太平洋戦争)のフィリピン侵攻について、日本軍はフィリピンよりむしろインドネシアなど周りの国々が重要でした。そういう全体像を見ないと理解が進まないでしょう。
一方、本格的な医学教育を受けてなくて、人体の一部には詳しいものの、人の生死に鈍感な人もいる。人間は体温が数度上下しただけでも重篤に陥る。もともと生き物にはホメオスタシス(恒常性維持)の仕組みがある。体温や体液濃度などを自動的に一定に保っている。
それが崩れるとあっけなく死ぬことさえある。私は思い出す、年取った開業医、本物の医師が泣いていたのを。一人息子は医学部のサークルで真夏のトレーニングで、(他学部の体育会とは別系統で先輩のシゴキなどはないが)下級生の一人として頑張った。日が高いうちから自主的に何人かでミニマラソンをした。そして急死した。持病などはなかった。
小さな医院は後継ぎを失った。まだ開いているが、設備を更新する気力もないらしく、古びている。シゴキではないから訴えることもできない。

話を元に戻して、1942年フィリピンのバターン半島である。衰弱していた捕虜を炎天下で無理に80kmも歩かせれば死の危険が予想された。実際に途中でバタバタ死んだし、到着後も回復せず死んだ。米軍捕虜だけでも2千数百人、フィリピン軍捕虜は1万数千人が犠牲になった。
そのとき、日本軍で「捕虜は虐待して殺すべし」などと命令書が出ていたわけではない。出るはずもなかろう。
しかし、刑法の考え方には「未必の故意」がある。確たる殺意まではなかったが「死ぬ危険性がある」、「それでも仕方ない」と思っていたケースだ。未必の故意は殺人罪で罰せられる。
さらに過失致死罪がある。殺す気がなくても死なせたら処罰される。その一種が「認識ある過失」だ。たとえば、室内でバットの素振りをして、自分でも危ないとは思っていたが、ちょっと距離があるから大丈夫のつもり、しかし誤って近くの人を死なせてしまった。これは「未必の故意」と似ているが過失致死で、その中でも重く罰せられる。
また、他のケースで「危ない」という認識さえなくて死なせた場合も、過失致死罪に問われる。
人の生死は重大事だから、故意はもちろん過失で捕虜を死なせた場合も罪に問われる。法学の専門教育を受けてない私でも、「そりゃそうでしょう」と思う。一方、虐殺の命令の根拠を挙げてみてなどと要求するのは、尋常な考え方ではあるまい。

最後に述べたいのは、官僚の情報量とネトウヨのチェリーピッキングである。私は官僚でも何でもないが、昔の友人には偉くなった人もいた。付き合いづらくて交流もないが、間接的に薄っすら伝え聞いたこともある。
彼らの所には情報が集まってくるのである。国民各層に報告を求める、学者を招いて意見を聴取する。たとえば慰安婦問題でも捕虜虐待でも、彼らは昔の公文書も含む資料を握っている(それを公開した例として、デジタル記念館 慰安婦問題とアジア女性基金https://www.awf.or.jp/)。そんな官僚の集団的認識に基づいて発せられたのが、河野談話(1993年)である。また、藤崎一郎・駐米大使による「バターン死の行進」の被害者への謝罪である(2009年5月、自民党麻生内閣の時)。単に河野や藤崎の個人的見解ではない。
つまり、「官僚や為政者が言うから正しい」ではなく、私たち一般人が入手できる程度の資料は、すでに彼らが読み込んで分析していると考えるべきだ(専門家からも意見を聴取済み)。そのうえで政府が、役所の責任・日本の責任など認めたがらない彼らが、過去の加害を認めて謝罪したという事実は大きい。
しかしネトウヨさんは、自己流でチェリーピッキングした資料を羅列して、珍説を開陳するのだった。
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日本は開戦時に南方のジャワの確保と米英の重要軍事拠点の壊滅を


目標に南方作戦を策定していました。
このうちフィリピンはM作戦と呼称しました。
ジャワに至る経路とその脅威の排除を目的にして、
海軍は右回りのフィリピン、陸軍は左回りのマレー後略(E作戦)
を重視していましたが、最終的には同時残なう二本立てで
実施する事のなりました。
ということなので、フィリピンの資源はほとんど関係りません。



さて、後世の政治家が謝罪したから歴史的事実とか、
とんでもないことを述べる方がおられます。
(せめて辻正信の偽命令とか挙げればいいのに)
アメリカはウンデッド・ニーの虐殺やサンドクリークの虐殺などを
これまで一切謝罪するどころか叙勲するなど誇っているので、
こんな思考の方は無かったと思うんでしょうね。
後世の政治家が勝手に歴史を決めるとは恐れ入ります。
この様な、偉い人が決めたことで真実が決まるという考えなら、
足利事件のような冤罪は永遠に理解できないでしょうね。


パターン半島では、南方作戦でほぼ唯一日本が苦戦しました。
当初のフィリピンはマッカーサーが指揮していましたが、
日本の進行が危惧される中、ろくに補給物資を備蓄しておらず、
食料と弾薬が少ない中でマニラを放棄してゲリラ戦を命令しました。
マッカーサーは命令を理由に事後をウェンライト中将に丸投げして
「I shall return.」とカッコつけて自分だけさっさと逃げ出しました。
パターンでの組織的抵抗に限界がきて集団投降した時には
大量の投降者を保護するのに収容所を離れた場所にしか準備できず、
作戦が完遂していなかったのでトラックなどの準備も十分ではなく
仕方なく徒歩での移動となりました。
この時には、捕虜は水筒くらいのほぼ手ぶらなのに
監視兵は正式装備なので何キロも荷物を持っていました。
しかも監視兵一人で何百人も監視しながらの行軍です。
(このため、フィリピン兵の多くが逃走したとみられます)
これは(ちょっと誇張はあるけど)捏造でも何でもありません。
ただし、捕虜を虐める行為自体はそれなりにありましたが、
陸戦規約での捕虜の扱いはあくまでも自軍と同程度であり、
交戦中に自軍以上の人数が投降したのに自軍より優遇しろとか、
当時の事情を知らない脳天気な意見にすぎません。
しかし、戦時中からこの事件はプロパガンダに利用されました。

戦後、マッカーサーは自分の経歴に傷をつけた日本軍が許せず、
ミズーリの降伏文書調印にウェンライト中将を列席させました。
その上でフィリピン攻略の指揮官だった本間雅晴を処刑するために
本間が捕虜への人道的扱いを指示していた記録もあるうえ、
偽命令の辻政信が見つからないから虐殺に反対した人たちを
パターンを死の行進とするなどで戦犯として処刑しました。

捕虜の扱いについて、
「一億人の昭和史 日本の戦史 7 太平洋戦争1」(毎日新聞社)
「特別手記 ビリビット俘虜記」カレイ・M・スミス(P68)
  最初の一年間は全ての捕虜が食べたいだけ食べることができた
この中で、日本軍が食糧にするため家畜を飼う試みがなされるなど
捕虜への配慮が書かれています。実際に戦況が不利になり移送される時
移送されるまでは70㌔あった体重が40キロ台になったようです。
本間中将が捕虜に配慮した影響は各所で確認できます。
イギリスがアローン捕虜収容所などで戦時下でもないのに
投降した日本兵を捕虜扱いしないで過酷な労役をさせて給料も払わず
あまりの食糧事情への抗議に「家畜用飼料を食べさせてやっている」
とまじめに回答したり、赤痢を患者をまともに診療しないで放置など、
パターンでの行進よりよほどえぐいことをしても謝らずに平気ですが、
どちらが虐待か、反日を拗らせた人以外なら容易に判るはずです。

「虐殺」は、殺す意志を持ってむごたらしく殺害する事。
パターン半島死の行進を虐殺というかは非常に疑問ですが、
捕虜に犠牲者が出たのは事実であり、、戦後陸軍軍務局長が提出した
「大東亜戦争間軍法会議処刑掠奪強姦等犯罪事例」では
30件虫20件がフィリピンと群を抜いて多かったのは事実です。。
しかしその過程を無視して、なんでも日本が悪い、反論は捏造と、
ろくに考証しないで語るのは歴史の改ざん以外の何物でもありません。
違うというなら、虐殺の命令などの根拠を挙げてみては?
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多数の回答者さんが書かれている通り、インドネシアの油田が主目的で、それを補助するのがフィリピン攻略でした。


司馬遼太郎も、大東亜戦争はインドネシアの石油を盗りに行った戦争だ(日本軍がいくらきれい事を言っても)と書いていました。1941年12月からの戦争です。司馬は学徒出陣して戦わされて、戦争の意味をとことん考えたのです。

このようなテーマでは、よく聞かれてもいない事を騙る方が湧きますね。「バターン死の行軍」は戦後に日本を悪者にする為に作られたデマだという、デマを語る人です。
しかし、日本政府はバターン死の行進について正式に謝罪しています。2009年5月(自民党麻生内閣の時)、駐米日本大使を通じて、バターン死の行進の被害者の元米軍人捕虜に謝罪しました。
2010年9月(民主党菅内閣の時)にも、岡田克也外相が元米軍人捕虜6人に謝罪しました。日本政府が招待した人たちで、バターン死の行進の被害者を含んでいました。

List of war apology statements issued by Japan - 英語版ウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_war_apolog …
(日本語版にも同様の項目があるが、なぜか載っていないので英語版を挙げた)

つまり、ネトウヨさんがいくらデマを捏造しても、すでに日本政府が過去の加害を認めて謝罪しているのです。
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①日本にとって必要だったのは、マレー半島やインドネシアなどのゴムやボーキサイト(アルミニウム)、石油ですね。


②フィリピンはアメリカの重要な植民地で、その防御のために陸軍部隊を駐留されているほかアジア最大のアメリカ軍の海軍基地があり、巡洋艦や潜水艦が配備されていた。

③ほらっ、①の場所を攻略しても、②のフィリピンにアメリカ軍の軍艦や飛行機があると日本に持って来れないでしょ。だから、日本にとっては目障りな地域、アメリカにとってはアジアの利権を守るために必要な地域だったんですね。
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他人様に好意による回答を求める質問にしては、態度が傲慢だと思う私は心が狭いのだろうか。




他の方の回答でも合っていると思いますが。

回答
1:開戦時の日本の対米戦略は「漸減邀撃戦」でした。(知らないならググって下さい)
その為に、あそこは基地化しておく必要がありました。

2:日本にとって「絶対国防権」でもありました。
そこに飛行場を作られると、日本本土が連合国の爆撃機の航続距離内に入ります。



このようなテーマでは、よく聞かれてもいない事を騙る方が湧きますね。「バターン死の行軍」は戦後に日本を悪者にする為に作られたデマです。

捕虜の移動は、元の場所に留めた方が被害が大きくなるからです。
移動も、日本兵はフル装備でしたが、捕虜の荷物は水筒程度でした。
殺すなら水など持たせないと思います。
更に行軍速度もゆっくりでした。


(倍速でも聴き取れます)
「大東亜戦争で日本がフィリピンに攻め入り、」の回答画像7
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フィリピンの石油資源が目的なんて言われていたことはないと思うけど。

見たこともないし聞いたこともない。
 侵攻の目的はフィリピンが当時のアメリカ軍の極東における最大の根拠地だったから。それだけ。
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日本の目的は、インドネシアの油田。

だから油田を破壊される前にインドネシアのパレンバンに空挺部隊で急襲をかけて奪取に成功した。

フィリピンには開戦初日に台湾南部に集結させた陸海軍合同の500機で、フィリピンのB17重爆撃機部隊を含む米空軍殲滅を目的に、大空襲をかけ、この一撃で在フィリピン米空軍の殲滅・無力化に成功した。

これは、在フィリピン米空軍の、日本のマレー上陸部隊とその輸送・補給船団攻撃を防止するためにどうしても必要な作戦であり、前述の南方作戦の本命だったインドネシア作戦を成功に導くためにもどうしても必要な作戦だった。

また、フィリピンは、マレー半島・シンガポールとともに、インドネシアの石油を日本に運ぶルートを塞ぐ形で存在しているので、そのルートを安全にするためには、絶対に占領しておく必要があった。だから、シンガポールとインドネシア占領を優先させつつも、フィリピンも占領しておく必要があった。
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