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関ヶ原の戦いで小早川秀秋はなぜ、大谷吉継や、石田三成を裏切ったのですか?

A 回答 (6件)

西軍のほとんどが、日和見でした。


実際に戦ったのは、大谷軍と石田軍ぐらいで、すぐ東軍有利の形になったようです。
そこで家康が、早く裏切れと鉄砲で催促したので、その脅しに負けて。。
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小早川勢の陣の構えから見れば、合戦以前に東軍に付くことを決めていたと考える方が自然らしい。


家康の催促も実際はなかったらしい。
開戦と同時に駆け下った、と考える方が自然らしい。
だからこそ大谷勢は不意を突かれたのだろう。

関ヶ原については江戸時代の潤色が多く、従来の定説はもはや信用できなくなっている。
今後の学術調査の展開を待つしかない。
たとえば開戦後2時間程度で勝敗の行方は決まってしまったらしい。
でも「長時間戦い抜き知略も駆使した」ほうが、「神君」家康に箔が付く。

以上を除けば、あとは3番と5番の言うとおりかと。
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小早川秀秋の実父は、「おね」「ねね」等と呼ばれることの多い北政所の兄


つまり、叔母と甥の関係です
小早川へは養子として入っています

で当時北政所は大阪ではなく京都に在住しており、豊臣家(淀殿や秀頼)とは疎遠になってました
なので、豊臣家が~というよりも、北政所からの働きかけかと
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それが正しい選択だったからだよ。

何故なら、それにより戦国時代は終わったのだから。何時までも際限も無く戦争を続けてはいけないと考えたのだ。
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小早川秀秋は幼少の頃から豊臣家の親族として重用されましたが、秀頼が生まれてからは、小早川に養子縁組させられたり、朝鮮出兵で、大将になったものの三成に疎まれ減封させられるなど、秀吉や三成を憎んでいたでしょうね。

それに目を付けた家康と密約を結び、それでも合戦の最中に戸惑っていたところへ家康から大砲で「早くしろ!」と威嚇射撃を受け、ついに家康側に加勢する決心をしました。
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