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北条時行は、何故一時的にとはいえ鎌倉奪還に三度も成功したのですか?北条得宗家の血筋にそれだけの価値を当時の武士達は認めていたのですか?

A 回答 (4件)

中先代の乱のことですね。

御恩と奉公で、北条家から土地を分け与えられた御家人は、奉公という形で戦いに馳せ参じます。
この関係が崩れた1333年、自分たちの土地を守る為に、新勢力(足利、新田)と覚悟を持って戦いに望んだと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2022/08/27 19:25

後醍醐天皇の王政復古政策が、武士を軽んじすぎていたため。


武士の力で鎌倉幕府を倒しながら、時代錯誤も甚だしかった。
後醍醐天皇に忠誠心が厚かった足利尊氏を征夷大将軍にしておけば、朝廷の威信は少なくとも後醍醐天皇と尊氏が生きている間は保てただろう。
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足利尊氏は京都を離れ、鎮圧に赴く。


後醍醐天皇はこれを契機に
足利討伐を決意。
しかし、時代錯誤。

小田原北條氏は、この時行の子孫という説あるね。
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武士、特に坂東の武士のほとんどは建武政権に失望していた。


そして幕府の消滅によって、それまで抑えられていた、些細なことから発展する近隣武士との対立が激化し、「そっちが宮方(建武政権)ならこっちは北条に着こう」「やや、アイツは北条か!ならウチは足利だ!」と旗頭にして自分を守って隣接する敵対勢力を滅ぼそうとしたからです。
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