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645年に大化の改新が起きましたが、その時に中国内部でいざこざが起こっていたと大学の教授から聞きました。どのような感じで大化の改新と関係するのか聞きたいです!

※聞き方下手ですみません。

A 回答 (5件)

中国内部のイザコザは年中行事で、その意味では大化の改新とはあまり関係ない。



問題は、中国が漢帝国崩壊後の分裂状態から、隋・唐帝国による再統一で周辺諸国に軍事的拡張政策を採りだしたこと。
具体的には、漢帝国が北方や朝鮮半島に楽浪郡や帯方郡を置くなど植民地化したことを、隋・唐帝国が倣ったことだ。

隋も唐もその方面の強国高句麗を狙って何度も大軍による遠征を繰り返している。その隙を突いて新羅が高句麗の領土を掠め取り、高句麗が隋の大軍を撃退すると百済と組んで新羅を圧迫するという展開だ。

そういう状況で、朝鮮の三国は日本に援軍を求め始めた。
百済が当時の最先端文明である仏教とその関連技術を日本に贈ったのは、それが最大の理由だ。日本が仏教に大いに興味を示すと高句麗も高僧を日本に派遣して日本の助太刀を引き出そうとした。それが欽明~推古天皇の時代だ。
そして日本も当時の実力者蘇我馬子が大陸情勢を探りに遣隋使を派遣した。その傍ら、百済と高句麗への返事を保留しつつ、国内の防備を固め始めている。

そして、日本は、蘇我氏中心の豪族主導国家体制で、やがて来襲が予想される隋・唐帝国の大軍に備えるのか、天皇家を中心とした中央政府による挙国一致防衛体制を築いて備えるのか、という蘇我氏と天皇家の主導権争いが勃発した。

それが乙巳の変であり、大化の改新は、乙巳の変を受けた天皇中心の中央政府設立に向けた動きということになる。

この状況は、幕末に、欧米列強に対抗するために、幕府中心(佐幕派)でいくのか朝廷中心(勤皇派)で行くのかの主導権争いが勃発したのと同じだ。
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中国では、618年に隋(王朝)が滅び、唐(王朝)がおこった。



唐は、均田制と租庸調制を核とした律令法に基づく中央集権的な
国家体制の充実をはかり、太宗(唐)の治世には、
貞観の治と呼ばれる盛期を迎え、周辺諸国を圧迫していった。

一方、朝鮮半島諸国では、引き続き権力集中が政治の目標とされた。
百済では、641年、義慈王がクーデターによって権力を掌握し、
642年以降、新羅領に侵攻した。
高句麗では、642年、宰相の泉蓋蘇文せんがいそぶんが国王と
大臣以下の貴族たちを殺し、百済と結んで新羅領をうかがった。
新羅は唐に救援を求めたが、唐が要求した女王交代の採否をめぐって、
647年に内乱状態となった。
太宗(唐)は、644年から高句麗征討にのり出した。

倭国において、クーデター(乙巳の変)とそれに続く政治改革
(大化改新)が行われたのは、
これら東アジアの国際情勢に対応したものであった。
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中国内部でいざこざがあったとしても、それが日本に伝わるのに相当な時間がかかる。


中国と日本の間には、潮流激しく荒天も多い東シナ海が横たわる。

中国がもし攻めてきても対抗できる国を一刻も早く、という思いがあったのは事実だが、それほどの切迫感ではなかったのもたしかである、
何しろこのあと日本は朝鮮出兵して白村江の戦いでぼろ負けしている。
防衛に迫られている人間の行動ではない。
(白村江のあと日本は中国・新羅の報復を恐れて防備体制を固めるが)

大化改新は不確かなことも多いが、ズバリ言えば「内ゲバ」である。
渡来派と土着派の主導権争いである。
渡来文化である仏教に傾倒し政策を推し進めた「厩・蘇我派」を日本古来の伝統をよしとし仏教への傾倒に反発を感じていた「天智・中臣派」が滅ぼした。
そういう話である。

ちなみに、天皇一系も鵜呑みにすることはできない。
藤原氏が日本書紀・古事記の中で言っているだけである。
「推古・厩」ラインと「天智」ラインでは毛並みが違う。
昔は天皇家にいくつかの系列があったり、複数の豪族に継承権があったりしたのかもしれない。
そのあたりの史実が確定しないと、大化改新の真の姿も見えてこない。
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まず



中大兄皇子と、中臣鎌足が、蘇我入鹿を殺したクーデターが、645年の、乙巳の変ですね。

その中臣鎌足は、百済王の豊璋であることはほぼ、事実です。

つまり、この事件は、

・日本を改革してきたリーダの蘇我入鹿を
・うだつの上がらない、反主流派の中大兄皇子をたて
・亡命中の百済王が、煽ってクーデターを起こし、
・日本を乗っ取った

事件です。このあと、蘇我の天武系と、中大兄皇子の天地系は、150年抗争を繰り広げるのです。

例えば、白村江の戦いで、日本は百済復興を目指して、唐と新羅の連合軍と、国益からも外交的にも全く意味のない戦いをします。これは、中大兄皇子・天智天皇が、百済王の豊璋ですから当然の流れです。

蘇我氏は入鹿の死で力を落としますが、天武天皇など蘇我系の力は続きます。壬申の乱などが典型ですね。蘇我氏系の復活でもあります。奈良の都はその蘇我系天皇の都なのです。

やがて150年の抗争に勝った天智系が、今度は都を京都に移し、それ以降栄えた藤原は、中臣鎌足を開祖とする豊璋の末裔ですから、日本は武士が政権を取り戻すまでの400年間、朝鮮の傀儡の末裔にいいようにされたのです。

なぜ、この事実が隠蔽されたか?

それは、

日本書紀を作ったのが中臣の鎌足の息子、藤原不比等だからです。

・卑弥呼から続く、日本の2~3世紀の歴史を抹消し神話化。
・歴史から、6~7世紀の蘇我の功績も消して、
・まるで律令制に反対する、抵抗勢力のように仕立て、
・それを救ったのが大化の改新・・・である。

という、とんでもない史観を描いた。

だから、
・邪馬台国がどこか、卑弥呼がだれかわからない。
・皇紀も科学的には、500~700年ズレ
・欠史8代もあり。
・少なくとも、3、4回王朝が交代したのは明らか。
・国内、外国勢力入り乱れ、日本が形作られた。

こんな歴史は、ヨーロッパのすべての国しかり、ドタバタも含めて、みんな誇りとして知識として知ってる。それが、民族や国のアイデンティティだからです。ところが、日本・・・万世一系の説明に都合がいいために、国中でいまだに、思考停止のうその歴史を教えている、不思議な国日本です。

こんなことを言うとバカな右翼が左翼扱いしますが、私は左翼でも、天皇否定でもありません。日本を愛する中道右派として、正しい歴史を正しく振り返り、その上で、2000年の伝統を感じる。それが真の愛国心だと思っています。

詳細はいろいろあれど、すでに学術的にわかっている大きな流れや、過去の歴史の矛盾を、御用学者が封印し、万世一系の非現実的な歴史にこだわることこそ、傀儡政権の事実を認めない、売国奴精神だと心から思います。
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いざこざ・・・・



当時の唐は二代皇帝太宗の時代
確かに太宗の即位に関してはいざこざというかクーデターのような事は有ったけど、それは二十年近く前の話だからね・・・・
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