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日本で、徴兵制があったのは次の時代でしょうか?

明治時代から昭和時代の前期
室町時代から戦国時代の前期
奈良時代の防人

A 回答 (5件)

> <足軽として、百姓の希望者を集めた>のですか。


領主は力(権力)で百姓をあつめた(徴兵)のではなく、希望者・志願兵だったのですか?

No.2回答者さんも、park123さんの思考に呆れたのか、回答をされていません。
wikiの《徴兵制度》をpark123さんは読みましたか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5 …
   ~~~~~~ 引用 ~~~~~~~
社会制度として確立された徴兵制度とは異なり、軍隊や部隊が住人や難民を強制的に徴発し、兵や水兵として利用することを特に強制徴募と呼ぶ。前近代のあらゆる地域でこの形態での徴発が行われたが、国家の近代化・市民化にともない衰退し、戦時国際法・ハーグ陸戦条約等では禁止されている。現代でも低開発諸国の紛争地域ではしばしば難民や地域住民への強制徴募が問題となる。
   ~~~~~~ 引用終わり ~~~~~

ところで、次のように書かれています。
   ~~~~~~ 引用 ~~~~~~~~
徴兵とは国民を兵士として召し上げ(徴)、兵役の義務を課すことであり、徴兵制度は憲法や法律により「一定の年齢に達した国民」に対し、「一定の期間兵役を課す」ための組織化した制度を指す。徴兵制において兵役は国民の義務的な負担として扱われ、国防への負担と貢献が求められる。
   ~~~~~~ 引用終わり ~~~~~

一般的に、年齢も何かしらの範囲があるだけでなく、病人や障害の大きいものは徴発され兵役を課されないし、女性も徴発され兵役を課されない、王族や貴族も各地の豪族や領主も徴発され兵役を課されない、さらにそこで働く者、例えば、家人、私奴婢、公奴婢/官奴婢、役所で使役される官戸、陵戸も、巫女や神人、僧なども徴発され兵役を課されることはなかったのが、古代の日本です。 名称は、国や言語が異なる地域で変わりますが、おそらくどこでも同じような強制徴募がなされたでしょう。 
そういう面で眺めれば、江戸時代のような状況だと、武士・侍は、予備役のようなものでしょう。 戦闘そのものがほぼなく、戦闘配置や戦闘訓練もなければ招集しても意味がないのでしょう。 しかし、軍事訓練でなくても、徴発し役を課すということは、必要があると思えば、やっています。

次のような説明もwebにはあります。
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attach …
   ~~~~~~ 引用 ~~~~~~~~
文久元年(一八六一)に広島藩主一行の領内廻在があった後、元治元年(一八六四)と慶応二年(一八六六)には、隣国の長州藩を攻めるため、幕府や諸藩の軍勢が前線基地となった安芸口や石見口へと領内を通行して行き、村役人や領民はその対応に追われました。
また、第二次長州征伐では、佐伯郡が戦場となり、大きな被害を蒙ったほか、戦場へは領内から多数の農兵や軍用夫が強制的に駆り出されました。
   ~~~~~~ 引用終わり ~~~~~

また、戦闘ということでなければ、土木工事や普請などには強制徴発し役を課すというのはあったので、江戸時代でも、適宜やっていたのです。
軍事徴発とは違いますが、和宮下向降嫁の際にも、徴発は行われました。
https://www.city.nakatsugawa.lg.jp/museum/n/naka …
https://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/078-14.pdf
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<強制徴募>は、意味の上では徴兵だと思います。
よって、室町時代にも強制徴募すなわち徴兵があった、ということになります。

お礼日時:2022/11/09 16:04



こんな風景があったらしい。
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この回答へのお礼

ノーコメント

お礼日時:2022/11/05 18:29

明治以前は徴兵制とは言わない。

戦の時だけ駆り出される臨時雇いになる。
普段は農民など。
そういうのは古代にも朝鮮への出兵などに使われた。

昭和前期にはこんな歌もあったね。
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この回答へのお礼

ノーコメント

お礼日時:2022/11/05 18:30

>領地内の百姓を集め、兵士(足軽)として引き連れていったようですが。


戦国時代の大名の家臣は、家老などの上級武士以外は、普段は農作業を
していて、戦の時に鎧兜を身に着けて、駆け付けました。
兵の数が少ない時は、足軽として、百姓の希望者を集めた様です。
足軽の殆どは無給で、乱妨取りが収入でした。
徴兵制度とは意味合いが違うと思いますが・・・
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家臣団を戦い専用の武士団としたのは、信長の父の織田信秀です、
織田弾正家は、普段は戦闘訓練に終始する家臣団を養うだけの、財力
が有ったのですね。

京に向かった今川義元の軍勢は4万人で、荷物運搬などの、人数を
差し引くと、2万人位で、大半は寄せ集めの雑兵、プロの武士は、
6千人位で、それも、3か所に分かれて、織田の砦を攻めていて、
本陣には、武士は2千人位で雑兵が、3千人くらい桶狭間に居たかと、
織田信長に就き従ったのは1500人と言われてますが、全員がプロの
戦う集団ですから、充分に勝算は有ったのです、幸運ではなく、実力
だったのです。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございました。
<足軽として、百姓の希望者を集めた>のですか。
領主は力(権力)で百姓をあつめた(徴兵)のではなく、希望者・志願兵だったのですか?

お礼日時:2022/11/05 13:37

日本の徴兵制度は大日本帝国に成ってからです。

(明治時代から)
税金の納付と兵役の義務の二つが課せられる様になったのです。

大日本帝国以前では、国防は武士が担っていたので、徴兵制度は有り
ません。

武士が台頭する以前は、豪族が担っていましたが、領地を守る事が
主で国防の概念は薄かったのではと、個人的に推察してます。
朝廷の警護は、朝廷が豪族に命じて交替でしてました。

奈良時代に白村江の戦で大敗してから、大宰府を守る為に、朝廷の命令で
各地から、防人として派遣されました。
万葉集に残っている詠は遠くの坂東や奥羽地方から派遣された人達が
妻や故郷を思っての詠んだのです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
室町時代から戦国時代の前期にかけては、戦いに際、地方の有力者が自分の領地内の百姓を集め、兵士(足軽)として引き連れていったようですが。

お礼日時:2022/11/04 17:39

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