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「幸せ」を安っぽく考えすぎてませんか?つまり、ほんとは幸せでもない事をことさら幸せに仕立て上げる風潮です。
例えば『失って初めて分かるありがたさ』のようなたぐいのものです。本当にありがたければ失う前からその尊さにとっくに気づいているはずだと思いませんか?

質問者からの補足コメント

  • 失って、それが貴重だったと気づいた←ありえません。あったときはそれは当たり前のことで、幸福でも不幸でもなかった。失って不幸になっただけです。
    幸せというのは日常的なことじゃありません。自己実現しているとき、自己に挑戦して打ち勝ったとき、そのような高い精神性を持たなければ『幸せ』などありえません。
    言い換えれば、幸せになれる人というのは、ごく限られています。

      補足日時:2023/01/06 19:37

A 回答 (19件中1~10件)

だから、何を以て幸せと意識するかです。


結婚して家族を造ることが幸せなのか、
結婚しなくても、生涯、好きなことが出来て
一生を終えることが幸せなのか、

今のように経済不安定で
何をするにも金がかかる。
だから、贅沢言わず、しばらく禁欲生活を送る。
コロナと急激な物価高騰で
経済不安定社会。
この状態は不幸ですか?

幸せと云うのは、具体的に
どんな状態か
極めて漠然とした言葉と云う気もする。
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この回答へのお礼

幸せとは自然にそれと感じることです。

お礼日時:2023/01/08 20:49

幸せとは、「生命力」が横溢していること、夢や希望を信じられること、その状態だからこそ自由で他人や環境に慈愛の念を持てる、ということだと思っています。



しかし時代は、こういったものを抑圧する文明であり、だから、銭金、スポーツ観戦で楽しむ、家族、笑顔、絆…そんなものを身にまとい幸せになった気になる。

その内実は、人の不幸を悦ぶ、人を差別して(苛めて)悦ぶ、人を引きずりおろして悦ぶ。ワイドショーなんかを見ればそう思わざるを得ない。

まあ、ゲームやドラッグで幸せを感じているようなものだと思う。これが言い過ぎじゃないところが現代の救いがたいところと思う。
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この回答へのお礼

>こういったものを抑圧する文明

すばらしい考察です。全く同意いたします。個人の「生命力」、これはニーチェがよく言ってますがその当然の人間性を抑圧されています。

お礼日時:2023/01/08 10:25

安っぽくと言うより、分かってないんですよ。

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この回答へのお礼

そうなんです。幸せなんてめったにあるものじゃありませんし。

お礼日時:2023/01/07 16:53

つまり『棚からぼたもち』は最高、


『もちからぼたもち』はどうでもいいと、
そういうことを仰られていますか?
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この回答へのお礼

いいえ。

お礼日時:2023/01/07 12:58

人間って頭悪いからね


気づかないんだよ

今あるものだけで幸せ感じてたら、向上心も無くなるし、購買意欲もなくなるよ
頭悪いぐらいがちょうど良い
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この回答へのお礼

頭が悪いのではなく、生物のサガにやられているのです。それに、
幸せに感じてない=幸せでない
です。

お礼日時:2023/01/07 12:59

そうですね


高い精神性を持たなければ『幸せ』とは言えませんね
別の言い方をすれば
「充実」ではないでしょうか
「歓喜」ではないでしょうか。

苦しみが無ければ、楽しみがわかりません
何の苦労もない 楽はありません
苦難と戦って勝利してこそ喜び(幸せ)があるのです

苦難を避け、逃げ、隠れる人には
「充実」はありません「歓喜」もありません

幸せを実現するために、個人が持つべき六つの品性を提起します。
・充実すること
・深き哲学を持つこと、
・強い信念を持つこと
・朗らかに生き生きと暮らすこと、
・勇気を持つこと
・寛容さを持つことである。

更に、幸福は、
生命の尊厳と価値、生存の実践と徳性、及び生活の調和と美という
「三つの領域」が具体的に示されねばなりません
更に、幸福とは
四つの対応
人と自然との関係、人と人との関係、人間が自身との関係、究極の信仰の関係。
更に、三つの見方、
我と非我、物と心、知と行。
等が具体的に示さねばなりません。
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この回答へのお礼

はい。全く同感です(*'▽')!

お礼日時:2023/01/07 13:00

そうですね・・



幸せなんて
足元に落ちてる小石のよう
誰かに蹴飛ばされ何処かに転がって探せない
手を伸ばし見つけても零れてしまう
大切な事は悲しみで霞すみ前が見えない・・

きっと”心に刻んだ幸せ”は失いませんよ永遠に
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この回答へのお礼

>幸せなんて
足元に落ちてる小石のよう

違いますよ。

>大切な事は悲しみで霞すみ前が見えない・・

これは言えます。

>きっと”心に刻んだ幸せ”は失いませんよ永遠に

刻むのではなく、刻まれるのです。

お礼日時:2023/01/07 13:02

逆に質問したいのですが、よろしいですか。


あなたの言う幸せと云うのは具体的にどんな状態を指して
いうのですか。
失ってみて、というのは何を失ってみてですか。
大事な物だから、失わないようにしようと言いますが、それは何ですか。
例えば、奥さんや恋人がいたとして
大事だと思ってもいつか別れは来るでしょう。
来ないでくれと願って日々努力しても
「会うは別れの始めなり」ですよ。
何でも終わりはあるのです。永遠はありません。
人はいつか死ぬのです。
不老不死はありません。
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この回答へのお礼

補足に書きました。

お礼日時:2023/01/07 13:02

少し、違うような気がしますが・・・・。



「幸せ」というのは、非常に相対的で、個人的な感情の領域
ではありませんか?

自販機で、百円の釣銭の取り忘れを見つけて、幸せを
感じる人も居れば、何億もの財産が有っても、幸せを
感じない人も居る。

それを単一に「幸せ」と言う括りで、論じることが、
無理なのでは、有りませんか?

「幸せでも無い事」と言う表現が、即ち、「幸せ」を
単一的で、硬直化した視線で、捉えているように
感じます。

だから、「本当にありがたければ」と言う表現が生まれるのでしょう。

このカテでも、「神とは」、「愛とは」的なテーマが
提出されますが、そういった「単純化」、「単一化」は、
論じるには都合が良くても、常に、本質から乖離する
視点であるように感じます。

『失って初めて分かるありがたさ』は、否定する要因を
見出せません。

「有難さ」は、個人の感情の問題であり、何ら、普遍性を
求めるものではありません。

「在る」ときは、自然で、空気のように感じても、
「失って」、あの状態が、「幸せ」と言う状態だった
「のかも知れない。」とは、人間の心の動きであって、
「あり得ない」と否定する性格のものでは、無いと
思います。

ここにあるのは、「単純化」であり、「硬直化」です。

私は、そのように思います。
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答ありがとうございます。
それでは、あなたの場合はどうなんですか?「失ってはじめてわかる大切さ」みたいなことはほんとにありましたか?あったとしてもそれは錯覚じゃないですか?
わたしもあります。中途半端な気持ちで付き合っていた彼女に振られたとき。「ああ、これが『失ってはじめてわかる大切さ』かぁ(゜-゜)」とかいう錯覚。なぜなら、中途半端な気持ちで付き合うくらいの価値観しか私は彼女に見出していなかった←すなわち幸せじゃない(不幸でもないニュートラル)

お礼日時:2023/01/06 21:18

要は人生失敗した人の話なんだね。

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この回答へのお礼

失敗だと気づかない人が多いということです。

お礼日時:2023/01/06 21:05

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