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勝ち負けということは、人生において不可避の部分があり、とても重要なものの一つであると考えています。

自然界においては弱肉強食、力の拮抗した者同士の死闘があります。これは、本質的に勝ち負けと言えるのか?

受験、就職、またその後の人生において、人により差が出ることは避けられない事実です。これを勝ち負けとするならば、必ずみじめな敗者が、勝者よりもたくさん生まれてしまう。

学校の運動会で順位をつけないことについては、今でもあまり賛成ではないですが、一理あると思うようになりました。

生命において、また人生においての「勝ち負け」を哲学してください。

質問者からの補足コメント

  • 先ほど復帰しました。
    何かの手違いだったようです。

      補足日時:2023/04/14 13:51

A 回答 (19件中1~10件)

「勝つと思うな、思えば負けよ」

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この回答へのお礼

これ、深いね。

お礼日時:2023/04/12 09:05

勝ち負けの、


二者択一ぢゃ無く、
共存と言う「第三の選択肢」を追求すべきです。
持続可能な社会実現の為にッ!
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この回答へのお礼

勝ち負けは無視するということ?

「第三の選択肢」とは?

お礼日時:2023/04/12 09:07

「自分の弱い心に勝つ!」



日々感化され一念発起しますが、弱い意志力に挫折する。幾度となく流れ流されとうとうこんな年になりました。残されたのは「勝つよりも負けない」心。(頑張れ俺!)
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この回答へのお礼

>「自分の弱い心に勝つ!」

うむっ!

経験に裏打ちされた哲学ですね?

人生は常に「今から」です。

お礼日時:2023/04/12 09:15

学校の運動会で順位をつけなくなった事は、個人的には愚案の極みに思います


人間は誰しも得意不得意が違い、何かのメリットをもつと同時に 何かのデメリットを持ち生まれている

足が速く生まれた人は、他に何かデメリットを持ち生まれている。
足が遅く生まれた人は、速く生まれた人に比べ、別で得意点がある。

にもかかわらず順位をつけず‘‘平等の誤用‘‘をするのは、
足が速く生まれた人だけメリットを除かれ、あるしゅ差別される事。

苦手は苦手として覆い隠さず、順位をつける事をしなければ
それこそ差別である と思っております
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この回答へのお礼

うむ、勉強のできる子、容姿のいい子などは常に脚光を浴びて、足の速い子は脚光を浴びることができないのは、確かに不平等と言えますね。

お礼日時:2023/04/12 09:21

将棋が趣味ですが、楽しめるには勝つことでそのため強くなるのが


修行であり、重要と考えてました。

しかし、どうせプロになれないし、無料のAIにすら勝てない中 、
アマは負けてもいいし、それでも精一杯やれば楽しいという事が
少しづつ分かってきました。負けても楽しめれば、無敵です。

僕は国立大学落ちて母は浪人して来年受験でよいと言ってくれました
が、勉強は好きでないと断り、短大卒で就職したため、学歴社会で
同じ仕事でも給料が安い身分制度を実感しました。

38で民間相談所で婚活すれば、男女の人数合わせのため、男性は
大卒でないと参加できませんとか、嫁さん迄、学歴で決まることを
思い知りました。

しかし、大学受かって苦労知らずの人生より、社会の影を知って、
良かったと思っています。
もう、30年も前、県立高卒の妻と結婚、1っ戸建てを建てて、
息子も生まれ、マイカーもありますし、ローンなしで妻の年金を
合わせると、毎年、銀行残高が増えてます。

あとは、健康に注意して、食と運動に気を配るユーチューブでも
学習、介護なしに一生を終われば勝ち、と思っています。
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この回答へのお礼

「分相応」という言葉があります。

極端な進歩意識は薄く、競争意識も薄く、「無病息災」で平穏に生きることを勝ちとする。

こう言うと、少し悪いように聞こえるかもしれませんが、誰もが望む基本的な生き方と言えるかもしれません。

社会とは、太古の昔からこういう庶民によって支えられてきたことは事実ですね。

お礼日時:2023/04/12 23:02

現代人が考える「勝ち負け」は


かなりの部分で間違った評価指標を脳みそに刷り込み過ぎたことによって
起きていると私は思う。

学歴、財力(お金)、地位などがその典型。

お金に関して負けた、というのは本当にお金が無くて今日の夕飯さえ食べられない、という「負け」よりもむしろお金を持ったり使うことで「勝ち」であるはずだ、という特に根拠のない価値観を自分に刷り込んでしまうからである。

その刷り込んだ価値観と比べて自分はどうなのか、で「勝ち負け」を
決めているわけだ。

つまりすべて他人にとっては無意味な比較から
勝ち負けを決めているにすぎない。
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この回答へのお礼

かつては、「尊敬語」とか「謙譲語」などに表れているような、他人に対する「敬意」という倫理観があり、それを人々は文化として受け入れていたのですが、もうかなり以前からではありますが、そんなことに価値を置かず、寧ろズケズケモノをいう事が何か現代的であるかのような感覚に変化してゆきました。

その挙句、「年寄り早く死ね」「男に人権なんかない」「貧乏する奴が悪い」などなどの言葉がネットの普及とともに飛び交うようになってしまった。
それは、ネットだから出るのではなく、人の心の中にあるものですから、そういう文化に変化したということですね。

その変化した文化の中から、仰るような「勝ち負け観」が確立したのでしょう。

その変化をもたらした元凶は、商業主義に堕ちた文化人だろうと思います。

お礼日時:2023/04/12 23:19

生物的には 生きてる者が勝ちで 死んだ者は負けだ。


魂としては 善き輝きと共に在る者が勝ちで 悪しき醜き執念と共に在る者が負けだ。
人としては 幸せである者が勝ちで 不幸な者が負けだ。
地球生命的には 進化し発展する者が勝ちで 退化し停滞する者が負けだ。

狭い範疇で 周りの顔しか見ていないと 勝ち負けは単に「周りより頭一つ出ていればいい」となる。
そういった比べることでしか勝ち負けを感じられない習慣は 価値観は周りと同様になり 全体として負けに向かう。
だから より大きな目を持つこと 大所高所が極めて大切となる。

人の生はたかだか100年程度であり 死んで持って行けるものもない。
個にとっては重要なことだが 生命全体にとって 時の流れから見れば それは一瞬の輝き 川の水の一粒に過ぎない。
しかしそれらは積み重なり 世界を形作るものの一つとなる。
なくなって良いものもまた 何一つない。

在るものが在るべくして在ることを知り 在るように在る事。
「自己実現」が近い言葉だが 本質はそれ以上に未来を見据えるもの。
全体的には それがおそらく 「勝ち」だ。
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この回答へのお礼

>より大きな目を持つこと 

仰る通りですね。
周囲の人間に勝つことが最大の価値であるなら、相手を威嚇したり、騙したり、貶めたりしてどんな卑怯な手も使って、引きずりおろすことをする。
そして、勝利の高みから呼吸をするように侮蔑の言葉が出るだろう。

そんなことをされたら、人は必ず復讐をする。それは、犯罪であったり、迷惑行為であったり、ネット上の暴言であったりするのだ。

当然、社会全体として負けに向かう。

>全体的な勝ち

むむっ!

お礼日時:2023/04/12 23:34

「勝ち負け」を判断する事柄なのか。


「勝ち負け」の判断基準は何か。
「引き分け」はないのか。

「勝ち負け」は人生において不可避、と考えること自体に問題はないか。

人はいつかどこかで必ず死にます。

その人の人生は、絶対唯一のその人の人生です。
その人生は、その人が評価すべきでしょう。

その評価の判断基準が、勝手に規定された基準であるのなら、それを盲目的に使うことは不幸です。

単なる、遊びとしてのゲームの勝ち負けということなら、ゲームの参加者であれば、そのゲームの勝ち負けの基準を受け入れることは当然ですが、人生には客観的な勝ち負けの基準などありません。

社会の勝手な価値基準に惑わされることなく、自分自身の価値基準を持つことが大切でしょう。

キチンとした価値基準を持てば、「勝ち組」だの「負け組」だのの言葉に翻弄されることはないはずです。
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この回答へのお礼

人生において、学校の成績の結果、進学する学校の偏差値のレベル、就職する先の知名度、収入の額、社会的立場の違い、結婚できるできない等々が現実としてある。その差を勝ち負けと一般的には言われる。

勿論絶対的なものとは言い切れないが、社会の客観的基準ではありますよね?

それに対し、あなたの哲学を教えてほしいという質問です。

お礼日時:2023/04/12 23:43

人生において大事なのは、勝ち負けではなく、どれだけ多くの人と助け合い、協力しながら、数多くの困難に立ち向かえるかと云う問題だ。



勝ち負けだけならば、2人が殺し合いをすれば必ず1人は死ぬことになる。
そういう社会からは何も生まれない。ただひたすら衰退するだけだ。
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この回答へのお礼

ふむう…

困難に立ち向かった結果の、勝ち負けは不問なのか?

お礼日時:2023/04/12 23:47

自然界には勝ち負けや優劣はありません。


ただ生き残るものとそうでないものがいるだけです。

私は剣道を習っていたころ「勝つことは大事だが勝利に固執したり負ける事を恐れたりしてはいけない」と教わりました。

指導してくれた先生の話では昔の日本人は勝敗にあまりこだわっておらず、むしろそれにこだわるのは卑しい精神であったらしいです。
「勝者は敗者に対しても一定の敬意と哀れみを持つ」それが武士道なんだと。

しかし、明治維新や日本が敗戦すると海外からの勝利至上主義的な精神が入ってきた為に「勝つこといがいに意味はない」「勝者は全てを手に入れ敗者には何をしてもいい」という考えが広まったそうです。
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この回答へのお礼

>自然界には勝ち負けや優劣はありません

そうかも知れません。

ただ、「死」については№7の方も触れていましたが、これを負けとか、忌むべきものとするのは大きな誤りではないだろうかと考えています。(書き忘れたので)

大きなことを言うようですが、私は「死」というものの哲学的位置づけが、人類の文化を大きく変えることであろうと思っています。

自然界では「死」は残る「生」にとって必要なものです。人類の文明は自然界の上に作られたものですから、自然界の法の上にあるはずです。だから人間の死も忌むべきだけのものではないだろうと考えているのです。

日本人の倫理観は「武士道」の影響が大きいのでしょうね。

お礼日時:2023/04/13 00:01

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