上司より、中国では、挨拶は、「愛」が「迫る」という意味だということを聞かされました。
本当でしょうか?
挨と愛は、別物のような気がしてなりません。
挨拶の語源を教えてください。
また、どうしてこんなに難しい字なのでしょうか?

宜しくお願いします。

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A 回答 (3件)

オンライン語源由来辞典の紹介は、既にされているようなので、補足のみさせてもらいます。



infoseekマルチ辞書 の国語辞典にも

「挨拶」
[二](1)禅宗で、門下の僧と問答をして悟りの程度を知ること。
〔「挨」も「拶」も押すことで、押し合う意から。もと禅宗用語で、[二](1)が原義〕

とあります。

ここからも、挨拶が禅宗からということで、中国から来た言葉ではなく、日本でできた言葉だと分かります。


ついでに手元の漢和辞典(旺文社 標準緩和辞典)で漢字の意味を確認してみました。


1 ひらく、おしひらく 2 せまる 3 おしのけて進み出る


1 せまる 2 刑具で指にはさむ棒


次に、オンライン中日辞書で「挨」「拶」をそれぞれ引いてみました。(「挨拶」はありませんでした)

【挨】a i
『動』
(1) (順を)追う:
*~着数|順番に.
(2) (接近して)並ぶ,すぐそばにつく:
*~着妈妈|お母さんと並んでいる.→a2i

《拶》z a
迫る,強いる.→za3n
《拶》z a n
抑えつける,締めつける.→za1

となっていました。

上司の方は、完全に間違われているようですね。まさに"ガセビア"です。

参考URLは オンライン中日辞書 です。

参考URL:http://www.excite.co.jp/dictionary/chinese_japan …
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すみません、No2ですが、禅宗は中国発祥でしたね。

失礼しました。
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語源は下記URLのとおりです。



漢字が難しいのは、宗教用語だからかと思います。

参考URL:http://gogen-allguide.com/a/aisatsu.html
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オイースの起源はドリフターズのいかりやちょうすけさんだと思います。
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押忍(おす、おっす)とは、主に空手道・剣道・柔道などの武道の関係者の間で使われる挨拶の一つ。
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謹啓 浅春の候、貴社にはますますご隆盛のほどお慶び申し上げます。

 さて、私議、このほど長年勤務してまいりました○○○○株式会社を円満退社し、○○月○○日付をもちまして○○○○を開業することにいたしました。これもひとえに皆様方の厚きご尽力の賜物と、深く感謝いたしております。

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謹啓 浅春<暦はもうすぐ夏です=http://www2.crosstalk.or.jp/kuroda/aisatu.htm#5
の候、貴社<貴方様>にはますます ご隆盛のほど<ご清栄のことと>お慶び申し上げます。
(会社に出すのではなく、個人名で出すとと考えますが)
 さて、私議<私儀>、このほど長年勤務してまいりました○○○○株式会社を円満退社し、○○月○○日付をもちまして○○○○を<独立して>開業 することにいたしました<の運びとなりました>。
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 つきましては、なにとぞ<何卒>今後とも 変わらぬ<宜しく>ご指導ご鞭撻を賜わりますよう、切にお願い申し上げます。
(個人へのお礼は先に述べたのでここでは貴方の会社としてのおねがいかな)
まずは、<取り急ぎ>開業のお知らせ かたがた<の>ごあいさつ<ご挨拶を>申しあげます。
敬白

(今までの所と競合する場合は、どこかで○○社同様お引き立てなどと前職の会社を立てることも必要かな)

謹啓 浅春<暦はもうすぐ夏です=http://www2.crosstalk.or.jp/kuroda/aisatu.htm#5
の候、貴社<貴方様>にはますます ご隆盛のほど<ご清栄のことと>お慶び申し上げます。
(会社に出すのではなく、個人名で出すとと考えますが)
 さて、私議<私儀>、このほど長年勤務してまいりました○○○○株式会社を円満退社し、○○月○○日付をもちまして○○○○を<独立して>開業 することにいたしました<の運びとなりました>。
これもひとえに皆様方の 厚きご尽力<ご厚情・ご支援>の賜物と、深く感謝 いたしてお...続きを読む

Q荀子の「青は藍より出でて藍より青し」と「青は藍より取りて藍よりも青し」どちらが原文ですか?

荀子の勧学篇第一に有名な
「青は藍より出でて藍より青し」の一節があります。
ネットでこの原文を調べていたところ、行き着いたサイトに
青、取之於藍、而青於藍→「青は藍より取りて藍よりも青し」
と出ていました。
「出でて」で慣れていたのでこの「取りて」に非常に違和感を感じます。
しかし調べてみるとこの二通りの白文が両方かなりの数見つかり、
「どちらが原文なんだ」と混乱しています。

よく出藍の誉れなどと言いますし、「出でて」が正しいと感じるのですが、「取りて」と変化していることがあるというのも奇妙な感じです。

また広辞苑を調べますと、
荀子勧学「青出于藍而青于藍」と出ておりネットでよく見かける
「青出之於藍」の白文とも違い、ますます分からなくなりました。

何が正しいと言うことではないのかもしれませんが、
1. 原文はどうなっているのか。
2. なぜこのように何通りかで知られているのか
についてご教示ください。

Aベストアンサー

#2です。
コメントを拝見しました。
確かに『荀子』の原文は「勸學篇」の冒頭にあり、「学は以て已むべからず」を論述するための譬喩ですから、
「優れた才能を持って生まれてきても、先人の著作や同時代の人の説に学ぶことをしなければ、せっかくの優れた素材に磨きをかけることができずに終わってしまう。
(藍が藍のまま青にならず、水が水のまま氷にならない)」
というのがその論旨でしょう。
前回引いた最後の部分は、『論語』爲政篇の
○子曰く、学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば、則ち殆(あやう)し。
○…子曰く、多く聞きて疑わしきを闕(か)き、慎みて其の餘を言えば、則ち尤(とがめ)寡(すくな)し。多く見て殆きを闕き、慎みて其の餘を行えば、則ち悔(くい)寡し。言に尤寡く行に悔寡ければ、禄は其の中に在り。
を思わせます。
「博学」も「参省(三省)」も『論語』に見える言葉ですね。

ただし、中国でも後世「青出於藍」で「弟子が師を凌駕する」「後人が先人に勝る」の意味に使われています。
白居易の作品にも例があります。
宋代の胡仔の文章に、
「東坡は蓋(けだ)し徐浩の書を学び、山谷は蓋し沈伝師の書を学ぶ。皆な青の藍に過ぎたる者なり。」
とあります。

#2です。
コメントを拝見しました。
確かに『荀子』の原文は「勸學篇」の冒頭にあり、「学は以て已むべからず」を論述するための譬喩ですから、
「優れた才能を持って生まれてきても、先人の著作や同時代の人の説に学ぶことをしなければ、せっかくの優れた素材に磨きをかけることができずに終わってしまう。
(藍が藍のまま青にならず、水が水のまま氷にならない)」
というのがその論旨でしょう。
前回引いた最後の部分は、『論語』爲政篇の
○子曰く、学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば...続きを読む

QサークルのOBに渡す挨拶状と案内状

大学生です。
とてもお堅いサークルにはいっております。
この度、代替わりをして新しい役員が決まって、挨拶に行きます。その際、挨拶状をOB・OGの方々に渡さなければなりません。また、追い出しコンパも来月あるので、その案内状も一緒に渡すことになっています。

そこで質問なんですが…
(1)封筒は茶封筒と白い封筒どちらがよいか
(2)挨拶状と案内状は同じ封筒にいれてよいのか
(3)封筒に宛名は書くのか

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

回答ですが…
1.どちらかと言えば白
2.一緒でよい(挨拶状の中身がわかりませんがおそらく)
3.書きましょう

と、一応回答しましたが、
間違いなく、一個上の代の役員に聞くのが一番ですよ(^_^;)
一個上ならば同様の作業をしているはずですし、
顔見知りでしょうから聞くことに気兼ねは必要ないですよね。

Q漢字の「罪」の語源について.英語の「sin」の語源について.

若干,英語の罪と日本語の罪とのニュアンスが違うのではと思うので…お聞きしたいと思います.

Aベストアンサー

英語の罪「sin」は「聖書の原則に照らしたときの違反」を意味します。

日本語の罪「つみ」は「道徳上、法律上、してはいけない行い」を意味します。
これはもともと「神の禁忌=[悪、けがれ、わざわい]をおかし、その報いを受けるべき凶事」という「できごと=罰」そのものを指す言葉がだんだんと変化してできた概念のようです。

「悪」は「道徳的なよくないこと」
「けがれ」は「きたないこと、よごれ」
「わざわい」は「わるいできごと」

これがもたらす結果が「罪」というわけですから、すなわち「罰を受けるようなおこない」が「つみ」なのです。

よって、
英語は「聖書に基づいているから罪」で
日本語は「罰があるから罪」
ということですね。

つまり、「罪」と「罰」の関係が、英語の「sin」と日本語の「つみ」では逆ということ?!

もっとも「罰」以前に「神の禁忌をやぶること」というのがあるから、根っこの部分では「つみ」も「sin」も同じでしょうか。
対象となる「神」の違いだけってことですね、結局。

Qあいさつについて 先日、あるブログの人の記事で、自分に挨拶する部下は好意的に思い、しない部下は好意的

あいさつについて

先日、あるブログの人の記事で、自分に挨拶する部下は好意的に思い、しない部下は好意的に思わない、と言う人がいました。例えば、退社する時、立って挨拶する部下を好意的に思い、パソコンに向かっているままの部下を好意的に思わないそうです。年始も、手土産などを渡しながらあいさつしてくる部下を好意的に思い、そうしない部下でも、そうする部下を見習って、後から来るなら、よしとするとか。そんな視点で部下達を見ている40代の男性に、違和感と気持ち悪さを感じました。

社員は、仕事をするために出社しているのであって、上司のご機嫌をとるために出社しているわけではないと、私は思います。

私の上司は、私にあいさつする事は求めません。
あいさつしなくても、仕事の出来だけで、評価してくれて、高品質な仕事をする事だけを求めています。私の職種は、技術翻訳という専門職なので、特にそういう傾向があるのかもしれませんが。。私は全く上司にあいさつしませんが、上司とは、深い良好な信頼関係で結ばれています。

人それぞれ、性格はちがうのだから、コミュニケーションの度合いも、人それぞれ違って当然、と私の上司は見ていて、そういう違いにより、部下を差別しません。

上記のブログの男性のような上司の考えをどう思いますか?

あいさつについて

先日、あるブログの人の記事で、自分に挨拶する部下は好意的に思い、しない部下は好意的に思わない、と言う人がいました。例えば、退社する時、立って挨拶する部下を好意的に思い、パソコンに向かっているままの部下を好意的に思わないそうです。年始も、手土産などを渡しながらあいさつしてくる部下を好意的に思い、そうしない部下でも、そうする部下を見習って、後から来るなら、よしとするとか。そんな視点で部下達を見ている40代の男性に、違和感と気持ち悪さを感じました。

社員は、仕事...続きを読む

Aベストアンサー

そのブログの方は、若いときからそのような上司の機嫌を必死に取らないといけない環境で働いてきたのだと思います。だからそれがその方の中では当たり前になっているのではないでしょうか?
そうではない環境で働いているあなたがそのブログの方に違和感を覚えるように、そのブログの方も「仕事さえしっかりやればいいんじゃないか?」というあなたのような考え方の人に違和感を覚えるのです。
私はそのブログの男性のような上司を「上司の機嫌を取ることも仕事の一部だと思っている方なんだろうな」と思います。
仕事をしない者の評価が下がるのは当たり前のことです。機嫌取りを仕事の一部だと認識しているのであれば、機嫌を取らない者の評価を下げる事は、本人の中では差別でなく正当に評価しているに過ぎない事なのでしょう。
そうであるにしろ私は機嫌取りで神経をすり減らすのは苦痛なのでそういう方には上司になってもらいたくないですね。

Q「愛」と「哀」、「哀しみ」と「悲しみ」

「愛」と「哀」が同音異義語である事。「悲しみ」と「哀しみ」が同音異義語である事。また、「哀」には「哀れ(あわれ)」という意味もある事。
哀れ『goo辞書引用』
1.強い心の動き
2.かわいそうな状態
3.底知れないような趣。情緒。ものがなしさ。
(以下略)

特に、この場合は「3.」の意味合いが強いように思われます。
要するに、日本における「哀」には、「愛」「悲しみ」「日本的な情緒、即ち『しみじみ?』」が含まれていると推量されます。

具体的に考えてみると、桜を見て、その見た目の美しさに「愛」を感じますが、いずれ儚く散り行く様に春の終わり、「悲しみ」を覚えるのだと思います。しかし、それは同時に夏の到来、そしてまた次の年に来る春をも意味するのではないでしょうか。

そういった「季節的流動性」に、水のような「流れ」を意識する包括的な情緒、気持ち、そして最終的にそういった気持ちを意識出来る「自己」の美意識、自然への同一観、一体感などを「哀れ」と表したのだと考えます。

また、悲しみは英語の「sad」つまり涙を流したり、否定的な感情になったりなど、比較的生理的な意味合いが強いと思います。 
一方哀しみは、悲しみという感情に悲しみを引き起こした対象に対する哀れみ、愛情など、情緒的な意味合いが含まれていると思います。「悲」という言葉に「愛」を含んだのが「哀」でしょうか。

さらに、悲しみは自らの心に雨が降るようなもので、哀しみは降った雨が土に浸み、心の土壌となって花や木を育むようなものだと思います。つまり、悲しみによって哀しみを覚え、時間をかけてより人間的な成長が促されるのだと考えます。

ご教授の程、よろしくお願いします。

「愛」と「哀」が同音異義語である事。「悲しみ」と「哀しみ」が同音異義語である事。また、「哀」には「哀れ(あわれ)」という意味もある事。
哀れ『goo辞書引用』
1.強い心の動き
2.かわいそうな状態
3.底知れないような趣。情緒。ものがなしさ。
(以下略)

特に、この場合は「3.」の意味合いが強いように思われます。
要するに、日本における「哀」には、「愛」「悲しみ」「日本的な情緒、即ち『しみじみ?』」が含まれていると推量されます。

具体的に考えてみると、桜を見て、その見た目の美しさに...続きを読む

Aベストアンサー

”哀”という概念については、人の成長による感覚の変化が根底にあるのだと思います。



喜怒哀楽は、現実から生じる悩みや、その解決から生じていますが、

これを自分で解決したり、再現できない幼い頃は、

主観としての感情表現になります。

翻弄される時代ですね。

しかし、現実と向き合い、幻想を捨てて合理性を理解しだしますと、

気負わずに自在に手に入れられるようになり、

憧れを失うかわりに、実利を得ます。

全ての物事は手間により制御が可能であると知ったとき、

畏怖や恐怖、焦燥は無くなりますが、神秘も消えてしまいます。

しかし、例え合理によって作り出されたものでも、

幼い時に感じていた喜びや、実際的な良さは変わらないと知り、

心から良かったと感謝するようになります。


これらの考えが定着しますと、

翻弄されるよりも、制御しようとする自分が主体(=成長)と成ります。

しかし、あるとき、

芸術や文学に触れて、自分が幼かった時の感覚を思い出し、

その世界観を(嘘だと知っていても)素敵だと感じます。

こういうときに、思うことは、

物事を制御できても、その成果を味わう感覚が消えてしまったら、

全くの無駄であり、勿体無いということです。

苦労してでも、

翻弄されていた時代の感覚を呼び覚ましたいと思うわけです。

それが無ければ、全体で意味が薄れるという合理的な発想からです。


たまには失敗をし、悲しみや怒りを感じないと、

その感覚を生きている間に使い倒せないと、知るわけです。

ですのでこれらも制御をして、味わうようになります。

ところが無駄に失敗をすることも、無駄と感じて出来ませんから、

何らかの偶然や不注意により生じた事件を大事にして、

悲しさや怒り、解決できた喜びを味わいます。

つまり、これらも自分の機能の一つであり、忌むべきことではなく、

生きているうちに楽しまないと損であると言う考え方に変わります。


この様に成ると、本来の自分の感情は、楽しむという”楽”しかなく、

他の感覚は、意図して呼び起こしたり、他の人に共感する場合のみ

使用するものになるのです。


”悲しい”は主観としての表現です。

ですから、もっと客観的な感情、”哀しい”に変わります。


例えば、

自分の知る因果により結果が見えており、先に結果を知ってしまう。

しかし、それらを知らず未来を信じて活動する人々の様を見たとき、

未来との同時性により、哀しいと思うわけです。

また、思わぬ縁により哀しい未来を変えた人がいて、その喜ぶ姿を見て、

喜ばしいと感じます。

更に、既に知っている人の愚かさを聞き及び、

知っていはいるし、仕方のないことだと分りつつも、

許せないと言う感情が沸き起こったとき、怒りを感じるとなります。

怒るではありません。

総じて、主体としての感覚は”楽しい”しか残らなくなり、

その状態になれば、仏像の様に微笑んでいるでしょう。


愛と言うのは、これらの合理を得て、謎が少なくなり、神秘がなくなり、

欲求が減ってきても、

「では辞めようか?」

と問われたとき、躊躇無く、「それはない。」と答える強い核の様なものです。

哀と言葉が似ていても、違うものです。


合理は、存在する法則を探求し、利用するために使用する道具です。

しかし、そこに既にある物に対しては使用できません。

「だってそうなってるんだもん。」

と言うものは事実そのものであり、

事実から派生したもので説明することは出来ません。

順番が逆になるからです。


愛とは始めから存在する物です。


全ての生物、または自然界の天体であっても、

継続するという強い力が先にあります。

これに理由を求めると、謎が深まります。

疑問と言うのは、継続するためにはどうすれば良いのか?

と言う限定された目的にしか使用できないものであり、

自由に適用できるものではないのです。

何故、継続しないといけないのか? と言う疑問を持つためには、

もっと本来の目的となる継続対象が無いといけません。

xxを続けるために、○○を継続しないといけない。

と言う答えしかないからです。


人は翻弄されますと、「何かの継続が危ぶまれる」と直感し、

そのときに様々な感情が沸き起こり、悩みが生じます。

この感情を強く受け取ってしまい、付随物であるもの

(二次的に引き起こされる現象)愛として理解し、

付随物を追い続けて、本末転倒になることが多くあります。


例えば我が子と共にいて喜びを感じたとき、

これを愛だと思ったり、

仲間や恋人と時を同じくして、喜びを感じ、これを愛と思ったりします。


しかし、これでは喜びが薄れたときに、愛がなくなったと錯覚します。

悲しみが訪れたとき、愛がなくなったと錯覚します。

本来は、「では辞めるか?」と問うたとき、躊躇する僅かな核が愛なのです。


例えば、ハリーポッターを育てた叔父さん夫婦は、

目の悪いハリーにメガネを与え、

個室を与え、食事を与え、教育を与えています。

喜びが無くなり、悲しみと怒りを抱えて別れる恋人同士よりも、

ハリーを愛していた事になります。


体裁が悪いとか、辞めるほうが面倒だ?という気持ちから生じたものかもしれません。

しかし、ここに躊躇があり、「では辞めるか?」と言う問いに、

仕方なく継続を選択しています。

これが長期に続くものほど(継続が本質であるため)愛の強さであり、

我が子ではない(育てる理由にならない)ハリーを愛していたという証明になります。


可愛いと感じたり、好きだと感じる感情も、二次的なものです。

これを愛だと思ってしまえば、

憎らしいと感じたり、嫌いだと感じたら、容易に継続を断念するでしょう。


例えば、

嫌いあっている家族が、家族を半年続けて辞めてしまえば、愛が薄いでしょう。


しかし、

子供が大人に成るまで続けていたら、そこには愛があるのです。

愛とは、個々人がそのとき感じる意思や感情とは無縁であり、

主観が認知する以上に強い制約です。

本人の思考や感じ方・気持ちと言うのは、

継続に関しての不満や不安を指しているだけであり、

(既に継続が前提にあり、これがあるから生じる感覚である)

こちらを優先すると、因果が逆転しますから、不幸になるのも当然なのです。



継続を前提に、その不安要素を取り払うように頭脳を使うことを賢いといい、

一過性の物として扱って、他に逃げようという意思が働いたまま、

頭脳を使うとズルイと表現されます。


人の本当の知能は、前者のときしか向上せず、

全ての偉人(普通の人の日常もですが)は、継続を前提に考えをめぐらしており、

全ての犯罪者は、妨害や阻止、断念や回避、攻撃と逃走を前提に考えをめぐらしております。

ここにも愛の有無が違いとして存在しています。


そして、継続を断念する他人の姿に哀を感じ、継続を断念した過去に哀を感じるわけです。

自らが継続を断念する予感や不安から生じた悲しみとは別のものです。


例えば、自分や他人が持つ、嫉妬や劣等感、優越感、ねたみは全て、

「それほどまでに自らを継続したいのだね。

 それほどまでに、善を自ら成して、他人に喜ばれる姿を求めているのだね。」

と言う強い望みがあるわけですから、

その姿を見てショックを受けずに、落ち着いて考えると、

その姿の中に愛があることが分ります。


人はこれを知ることで、愛しいと感じます。

忌むべきものの様に感じられるのは、これらの本来の感情の使い方になれておらず、

愛から生じていると考える習慣が無いからです。

一方で、恨みや憎しみは、他人を滅して継続を断念させる意思があります。

つまり本来は愛であったのに、

望みが強すぎて苦しくなり、反転してしまったことになります。

八つ当たりですね。

これらは知識として知ってはいても、

やはり有っては成らないことと感じますから、

躊躇無く、滅すると考えるべきです。

この強い炎が本来の正しい怒りです。

しかし、当人が恨みを捨てて、泣き言をいい、嫉妬の気持ちに戻ったときは、

これを愛しいと感じて、助力をする。

これを愛するといいます。



悪しき感情であっても、愛であるものと、愛とは反対になったものでは大きく違い、

ここに線を引いて考えることが、愛(継続)に対して忠実であるとなります。


また、これらの線引きが出来ていませんと、合理性に欠ける行動が多くなり、

自らの消耗が激しくなり、自らの継続が困難になります。

愛とは自らの主観ではなく、根底にある法則であり、継続を指します。

主観を優先すると、それは愛ではありません。

気持ちを無視して継続をしていれば、そこには強い愛があるのです。


幼い時は、自らの継続が不安であり、他人が頼りです。

ですので、世話を焼いてくれるときの相手の表情や感情を覚え、

それを得られるように考えて、それを大事にしてしまいます。


しかし、大人に成れば世話を焼く側になるのですから、

気持ちや感情を大事にしすぎる必要は無く、その時代の後遺症か、郷愁であるとし、

あまり深追いをせずに、継続(=愛)にのみ強いプライドを持てば良いと思います。


ですが、

そうした感情を持てる今現在は、自分の”継続”が続いており、愛が続いています。

これは是非楽しんで、使い倒したいですね。


以上、ご参考に成れば。

”哀”という概念については、人の成長による感覚の変化が根底にあるのだと思います。



喜怒哀楽は、現実から生じる悩みや、その解決から生じていますが、

これを自分で解決したり、再現できない幼い頃は、

主観としての感情表現になります。

翻弄される時代ですね。

しかし、現実と向き合い、幻想を捨てて合理性を理解しだしますと、

気負わずに自在に手に入れられるようになり、

憧れを失うかわりに、実利を得ます。

全ての物事は手間により制御が可能であると知ったとき、

畏怖や恐怖、焦燥は無くなり...続きを読む


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