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天智天皇はなぜ美化されてるのですか?

A 回答 (4件)

まあ、簡単に言えば、日本書紀を、唯一の正史としているからですね。

あれは、まったくの茶番です。都合の悪いことは神話に閉じ込め、都合がいい話だけを具体化する。なぜなら、天智天皇を正当化するために、作られた文書だからです。

矛盾はいろいろあります。

・ 今だに、邪馬台国の場所がわからず、その勢力と大和朝廷や、天皇家へのつながりがみえない。

・ 2~3世紀の大和朝廷の成立の過程があいまいで、通常どの国でも考えうる、土着勢力同士の権力争いが、具体的でない。

・ 欠史十代をはじめ、天皇の在位期間を学術的に検討して、調査すると、2~3世紀以前の既述に、正当性が一切見られない。

・ 神話と言われるなかに、正史にはない具体的な政争や戦争の記録と、合致するエピソードがつまっている。

など不思議がいっぱいです。

天智天皇が世に出た、645年の中臣鎌足と中大兄皇子による乙巳の変は、蘇我氏を滅ぼしたクーデターです。これ以降怪しいエピソードがたくさんあります。

・ 乙巳の変による大化の改新で悪者にされた、律令制に反対する蘇我氏(蘇我入鹿)というイメージは、今の研究では事実無根で、彼はむしろ改革派だった。

・ 中大兄皇子は反主流派で、中臣鎌足は百済王・豊璋というのが、守旧派の学者以外では常識。つまり乙巳の変は、外国人アウトサイダーによるテロ・クーデター。

・ その後、蘇我系天武と、中大兄皇子・天智との抗争、合理性ない白村江の戦いの出兵は、百済VS新羅派で外交方針争いだった。そう考えるとわかりやすい。(抗争は奈良、平安初期まで続く)

・ 外国人鎌足をアドバイザーにした、国の乗っ取りの仕上げが、大化の改心で守旧派を征伐し、律令国家を作った天皇家とそれを支援した藤原の開祖という、大フィクション。

・ 正史には、1世紀から7世紀までの史実(最初の4行の不思議の理由)を神話に閉じ込め、都合よく、万世一系天皇と藤原の正当性を導くあらゆる仕掛けを書き込んだ。

・ 奈良は一進一退も、奈良後期で勝ちをおさめた天智系と藤原。平安後期、自然発生した武士が、国を奪い返すまで、400年。傀儡王家と外国人藤原に日本はしゃぶりつくされた。

この辺が、悲しいかな、古代の日本の歴史です。こうなるのは、日本書紀を書いたのが、中臣鎌足の息子、藤原不比等だからですね。もっと、広くしらしめることで、私はむしろ、古代への愛着が深まると思っています。

ですから、日本書紀のような綺麗な歴史は嘘。3世紀は卑弥呼がいて、出雲系もいて、大和にも土着勢力がて、全国をゆるやかにつなげる統一っぽい動きもあったし、百済系、新羅系などが入り乱れていたと思われます。

だからこそ、大和にいない神武東遷で始まるのであり、出雲の国譲りなのであり、日本書紀の神話の多くは、様々な勢力の戦争や、人物、土着勢力を象徴しているわけです。そして、大和朝廷成立後も、何度も政権は交代し、その権力をめぐって、普通の国に起こるさまざまな政変があったわけですね。

それらを通じて、宗教を取り仕切る権威としての天皇という存在が、国全体に浸透していったというのが、実態だと思います。
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「皇祖」とみなされた, というところかなぁ.



平安時代 (以降) の皇統は
天智天皇→志貴皇子→光仁天皇→桓武天皇
とつながる. つまり「皇統の起点」ってわけ.

なお奈良時代においても特別視されていた, という説はある.
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時代が大きくかわったときには、その中心にいた人は評価が高くなります。



天智天皇は中臣鎌足と組んで当時の最有力であった蘇我馬子を暗殺し、馬子の父、蝦夷を自害においこみます(乙巳の変)。いわばクーデターをおこしたんですよ。

歴史というのは勝者の記録です。ですのでだまし討ちをしようがなんであろうが、「勝てば官軍」なのですよ。
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美化されているというなら天武天皇では。



記紀での天智は、乙巳の変は良しとしても、その後は割と淡々とキングメーカー的存在で長年頑張っていたことが記述されているが、白村江の大敗は、腹心の中臣鎌足とともに外交・戦争の戦略・戦術的無能ぶりを示している。
その内政も死の直後の壬申の乱の大敗で、国中の不満を存命中は何とか抑えることに成功していた程度のモノだったことが分かる。
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