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天智天皇の時代、百済と仲良くするか?新羅と仲良くするか?ってそんなに重要なことだったんですか?

A 回答 (5件)

中大兄が即位して天智天皇になったときは、白村江の戦で大敗した後のことで、百済はとっくに滅亡しています。



唐と仲良くするか?新羅と仲良くするか?の間違いという前提で回答すると・・・、
当時は、唐・新羅連合が怪しくなり、新羅を滅ぼして朝鮮半島全域を支配しようとしていた唐と、朝鮮半島から唐を追い出したい新羅が、日本を味方に付けて戦いを有利にしたちと思っていた時代です。
日本としては、どちらに味方するのか、或いは中立を決め込むのか、国防上の大問題です。
天智天皇は、どちらが有利に戦いを進めるのか?どちらが有利な条件を出すのか?など天秤にかけて、様子を眺めるのが良いと考えていたのでしょう。

質問の通り、中大兄時代の戦況で云えば、高句麗と百済に圧迫されて苦境に立っていた新羅が、唐と同盟を組んで瞬く間に百済を滅亡させましたが、その後、高句麗征伐に唐・新羅連合が軍を北に向けた間隙を突いて、旧百済勢力が百済再建に動き出した時になります。
この時は、日本の半島利権を守るためにも、元々親和性が高かった百済に援軍を送っていますから、中大兄以前と同じく、一貫して百済寄りの姿勢だったということかと思います。
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この回答へのお礼

大変詳しく教えていただき、みなさん、ありがとうございました!

お礼日時:2023/01/12 15:54

日本は辺境の後進国でしたから。


文明文化は大陸や半島から伝来するものでした。
製鉄製銅の原材料の鉱石も輸入に頼っていたので、半島に友好国が有ることがとても重要だったのです。
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日本は防衛で朝鮮も防衛の為日本の力が必要だったので、この頃は


利害が一致していたのです。
何せ、唐は巨大な国ですから。
百済とは、聖徳太子の頃から交流が有りました。

高句麗、百済、新羅の三国が朝鮮には在り競っていました。
日本は国内で争っていても、外敵が来ると一つに纏まって
戦いますが、朝鮮にはそれが無いのです。
唐は高句麗を攻めきれずいました、そこで二番目の力の新羅と
同盟を結び、一番弱い百済を攻略後、高句麗の北からと南からは
新羅が攻めて、高句麗を攻略する事に成功しました。
百済の防衛に日本水軍に行って白村江の戦いで大負けして百済は滅び
難民として四国や関西地区に住んだのです。
その後、高句麗も滅び難民として、埼玉県の高麗郡に住みました。
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強い方と仲良くし 同盟を結べば こちらに 攻めてこられなくて済むというのは いつの時代でもどこの国でも あると思います だからやは

り百済か新羅か 重要だったと思います
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そりゃそうだ。

白村江の戦いの大敗で軍事弱国を露呈してしまった時代です。ここで外交政策を間違えると国が滅びてしまう。
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