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秀吉の中国大返しを初め、武士が長距離移動をする際に馬を用いる者と用いない者がいると思うのですが、その場合馬に乗っている主人以外の足軽などはその、主人についていけたのでしょうか、また置いてかれたりするのでしょうか

A 回答 (8件)

歩いてついて行くしかありません


最低限の荷物持ち 宿場で新しく馬や足軽を募集して入れ替えています。
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> 武士が長距離移動をする際に馬を用いる者と用いない者がいると思うのですが、その場合馬に乗っている主人以外の足軽などはその、主人についていけたのでしょうか、また置いてかれたりするのでしょうか



足軽や従卒が追いつけない速度で騎兵だけが行軍してしまうということは、軍事的にしないでしょう。
基本的に一団の軍勢として行動したはずです。
武士がいた時代の多くの道は、道があるにしても、日本ですから、多くの場合山麓を登ったり下ったり川を越えたりしないとならないので、「整備された平坦路を疾走する」ようなことには基本ならないです。
タフで、夜明けには出発して、日暮れまで行軍すると、夏季なら14時間近く行動が可能です。山谷徒渉休息を含めてのべ35kmくらい移動するのであれば、行軍時の平均時速30km前後でしょう。 兵装で30kmは、私にはキツいですが、タフな若者が中心ならば、出来ないことではないでしょう。 馬にしてもそのくらいが、限度らしいです。
https://www.jothes.net/contents/column/3261/
「秀吉の中国大返しを初め、武士が長距離移動」の回答画像7
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織田軍が、長篠の戦いのために進軍したときは、足軽たちに、馬防柵用の丸太を持たせて進んだという記述から、足軽の徒歩での速さに合わせてるようです。


先行して、食事の用意をしたり、川があれば、仮設の橋を造るか、渡し舟を用意するとか、いろいろと準備がありますから、騎馬のみですばやく移動ということはまずないでしょう。
秀吉の中国大返しのときは、京都に向かっていた他の武将たちの軍を、秀吉が纏め上げたのでしょう。
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馬の移動は基本は常足(なみあし)といって、時速5~8㎞/hの速度です。

これだとほぼ一日続けられたそうです。急げ!ってときは駆歩(かけあし)で時速20~30㎞/hになりますが、これを持続できるのはせいぜい1時間程度、一日数回が限度だったそうです。戦国時代は今より馬体が小さかったので、これより速度も時間も下回っていたはずです。
 これに対しヒトの歩く速度は時速4㎞/h程度、昔の人は1日に40㎞も50㎞も歩くのは珍しくなかったそうですので、常足(なみあし)ならついて歩くのはそんなに難しくなかったんじゃなかろうかと思います。問題は駆歩(かけあし)で、そこは後から追いつくってかたちになったんではないですかね。秀吉の大返しがどうだこだではなく、人馬一緒の行軍はさほど無理なことではないということです。
 ちなみに行軍ってのは可能であれば全軍一緒でいきます。そうでないと途中で攻撃されたら各個撃破って羽目になるだけですから。
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なんか、昔から勘違いしている人が多いけど、全軍が同時に移動する必要性は全くないんです。


秀吉をはじめとする指揮官の武将たちがサッサと戻り、徒歩の足軽たちは後から追いついてくる。
これで十分なんです。大事なのは秀吉「軍」がすばやく移動してきたということで、全軍移動では無い。姫路とかに待機していた少数の後詰部隊を率いて「備中から帰還した」と言えば、皆んな度肝抜かれるんです。実際に山崎合戦の秀吉軍の多くは、河内などに待機していた四国攻め用の部隊でした。
繰り返しますが、全部隊が同時に帰還する必要性は全く無いんです。
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馬が疾走するなんていうのはテレビや映画の世界です。


戦場での混乱時はいざしらず、通常の移動の場合は一緒に行動します。

なお秀吉の中国大返しでは武具を船で運ばせてというのは有力な説です。
装備を軽くして早い行軍を実現したということですね。
人員を船で運んだという説は聞いたことがありません。
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武士や主従関係の中での移動については、個々の状況や文化によって異なる要素が存在しますので、一概には言えません。



武士が馬を使用して移動する場合、その武士の従者や足軽も馬に乗って同行することが多かったと考えられます。従者や足軽は、武士の護衛や補佐を担当する役割を果たし、主人の近くにいることが求められました。そのため、武士が馬で移動する際には、従者や足軽も馬に乗って主人についていくことが一般的でした。

ただし、状況によっては従者や足軽が徒歩で移動する場合もありました。例えば、馬の数が限られていたり、移動経路が険しい山道や森林などであったりした場合、武士のみが馬に乗り、従者や足軽は徒歩で主人についていくこともありました。また、戦場では馬が制約されることもあり、徒歩で移動することがよくありました。

一般的には、武士の従者や足軽は主人についていくように組織されており、移動中に置いてかれることは少なかったと考えられます。武士と従者や足軽の間には信頼関係や指示系統があり、主人の意図に基づいて行動することが求められました。

ただし、具体的な状況や時代、文化によっては異なる要素が存在することもあります。武士の移動方法は多様であり、社会的な階層や地域の慣習、戦闘や行軍の状況などによっても異なる場合があります。
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秀吉の中国大返しは、船移動というのが定説です。



さて馬には2種類あって、人が乗って移動する為のものと、荷駄を運ばせる為のものです。

人が乗る馬として有名なのは、例えば信長は名馬を集めて、いざという時に素早く移動できるようにしていた。そのおかげで浅井朝倉に裏切られた時など素早く撤退しています。

荷駄隊は足軽達と一緒に、徒歩のペースで遅れて移動します。
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