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徳田球一や野坂参三が、日本共産党の中に分派を作ろうとしたんですか?

質問者からの補足コメント

  • いや〜分かりにくい!所感派と国際派というのは、何がそんなに違ったんでしょう?本当に党を二分するほどの、問題だったんでしょうか?

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/01/21 15:48
  • 大変詳しく教えていただき、ありがとうございます!しかしそれは、ウ〜ン、面白い!なんで路線が逆転したんでしょう?なんで徳田、野坂が穏健派から武闘派に転換して、宮本が武闘派から穏健派に転換したんでしょうか?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/01/22 00:40

A 回答 (3件)

日本共産党が武装闘争路線を捨てると、ソ連の共産党、中国共産党など海外の友党から批判が殺到しました。

それに対して執行部の徳田球一や野坂参三は機関紙赤旗に「所感」という形で反論より弱い言い訳を掲載して日本共産党の立場を説明しました。それに対して宮本顕治らが海外の共産党の言うとおりだと反主流派を結成しました。そのため、徳田や野坂を所感派、宮本らを国際派と言うのです。
日本共産党内では、所感派が圧倒して国際派は要職を追われて自己批判を強要されて主張を放棄させられました。
しかし、日本政府が共産党を非合法組織と認定して弾圧を始めたために、徳田や野坂といった所感派の幹部たちは日本を離れて中国に逃れました。地下に潜った共産党を指導したのが宮本顕治で、非合法が解かれた後に徳田や野坂が帰国したときには、共産党を牛耳っているのは宮本顕治になっており、徳田や野坂は実権がない名誉職に奉られてしまったのです。
さらに、この間に路線も逆転していて、徳田や野坂が暴力革命を主張し、宮本がそれを否定して選挙による合法革命を唱えるという事態になってしまいました。
カリスマだった徳田球一の死後、野坂参三が戦前にソ連のスパイとして仲間を売っていたことが露見して、野坂は共産党から追放され、宮本顕治の独裁体制になったのです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

大変詳しく教えていただき、ありがとうございました!

お礼日時:2024/01/30 12:12

徳田や野坂は北京に亡命したので、向こうの影響を受けて路線変更したのです。


逆に宮本は日本国内に残ったので、共産党が国民の支持を得る現実路線を模索せざるを得なくなり、武装闘争を捨てたのです。
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当初、徳田や野坂の所感派が主流派で宮本顕治の国際派が分派という立ち位置でしたが、選挙結果など国民の直接的意思表示や党内闘争で宮本の国際派が主流派になり、徳田野坂の所感派は分派にと立場が逆転。

宮本が毛沢東と大喧嘩して絶縁すると、完全に所感派は干されてしまいました。
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