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古代の日本社会においては春から夏までの半年間と、秋から冬までの半年間をそれぞれ1年と数えていたとする説があり、春秋年ないし春秋二倍暦説と呼ばれていますね。

質問は、当時、もしこの説のように行われていたとしたら、この半年ごとに1年というのは、何がメリットだったのでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

これはいわゆる魏志倭人伝の注釈に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」(日本の習俗では正月や四季を知らない。

春に耕し秋に収穫することを年紀としている)との記載によるものです。

春が来た、畑を耕して種をまこう(ここで1年)。秋が来た、作物を収穫しよう(ここでまた1年)。ということで年紀のサイクルが短く分かりやすかったんじゃないでしょうか。

現在の1年を2年とカウントすることで、天皇の享年を長くでき、数字上で長寿に出来たので長いことは良いことだということになったんでしょう。特に日本書紀は海外(中国)を意識して書かれた書物ですので、「我が国の天皇はこんなに長生きなのだ。すごいだろう。」というつもりだったのだと思います。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<畑を耕して種をまこう>から一年が始まり、<作物を収穫しよう>からまた一年。<年紀のサイクルが短く分かりやすかった>のですね。

お礼日時:2024/05/14 18:33

>伝承をこれ幸いと利用したと思っています。



その通りです。異常な高年齢(伝承)は、ある政治目的のためには非常に都合が良かったのです。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

お礼日時:2024/05/20 18:12

>私は、記紀が説明するために春秋年説を用いたのでなく、逆に、当時使っていたから記紀がそれを鵜吞みにして、異常な高年齢を疑うことなく記載したのだと思いますが。



その点については私は、異なる見方をしています。つまり・・・

当時、書紀(日本書紀)の著者は、異常な高年齢を信じていませんでした。しかし、ある政治的な目的のために異常な高年齢をそのまま書紀に記載しました。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
私も信じてはいなかったとは思いますが、伝承をこれ幸いと利用したと思っています。

お礼日時:2024/05/20 16:41

>この半年ごとに1年というのは、何がメリットだったのでしょうか?



まず、中国では、遅くとも戦国時代(紀元前4世紀ころ)には、王朝による政治として「太陰太陽暦」を行っていました。人は1年で一つ加齢しました。

一方、日本では、古くから(たぶん縄文時代から)自然発生的な習慣として「春秋暦」が行われていました。人は1年で二つ加齢しました。

日本における「春秋暦」は、国や王朝が何らかのメリットがあって政治として行ったものではないのです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
為政者側にはおそらく直接の関係がなく、庶民の<自然発生的な習慣>なのでしょうが、何がメリットだったのでしょうか?

お礼日時:2024/05/20 16:38

>[質問は、”当時、【もし】この説のように行われていたとしたら”



だから何度も説明しているように行われていません。
つまり考える必要のない説です。
記紀の年数・年齢を2で割れば常識に見えてしまうので、
2で割ればいいのだろうと思い込んで立てた説で、
誤解です。そんな説は成立不能です。
記紀の掲げる年数と年齢はもっと複雑な計算方法が隠されています。
だから2で割ればいいという方法を
「馬鹿の一つ覚え」と形容したのです。

誤説として捨てることです。

メリットも何も、そんな説は立ちません。
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この回答へのお礼

ノーコメント

お礼日時:2024/05/16 12:29

>「質問は、この半年ごとに1年というのは、何がメリットだったのでしょうか?です。



だから投稿に述べたようにメリットも何も、半年を1年にしたという
説自体が空想だということです。
古田武彦が唱えて、いろんな人が右に倣えして、
さも魏志倭人伝にそういうことが書いてあるからこれで正しいと思い込んで使うようですが、私は信じません。
何でも魏志倭人伝を盲信する勿れです。所詮、中国の使者の見聞録です。
1年は12カ月、1月は30日前後、月によって異なる今の旧暦というか太陰太陽暦的な暦が使われていたと思います。
ただ、〇〇年という部分は本当の年数と加工年数の組み合わせで
どっちを使うかはその時々の天皇の事績に合わせていて、
神武紀元を前660年にむりやり持っていこうとして
歴代個々の天皇の在位時期を本当の在位時期ではなく
別の在位時期へと移動していったのです。
多分、安閑天皇の辺からは正しい在位時期に配置されていると
思いますが、それ以前は疑うべきでしょう。在位年数も
本当の年数ではない天皇が多く居るでしょう。
それが日本書紀です。
古事記は別でこちらはかなり信用できると思いますよ。
崩御干支はそのまま西暦に当てはめて、実際の在位時期と推察して狂いはないと思う。多少日本書紀と比較して
中には履中が6年説と5年説
継体が25年説と11年説で中の年数も吟味が必要。
鵜呑みは危険。

とにかく、2倍暦と春秋暦とかいうのが用いられて
年齢と在位を2で割ればいいという説自体がなかったと私は考えます。

日本書紀で崇神が68年在位、
古事記で258年崩御。168歳。(日本書紀と異なり、在位年数と年齢を入れ替え、100を加える。そうすれば68+100=168となりますよね。開化天皇は古事記が63歳、日本書紀が在位60年。
多少くい違うが、どちらも嘘。単に加工後の数値として出て来た60年という年数を日本書紀は在位期間に採用。古事記は年齢に採用。但し何かの目的を加味して敢えて63歳崩御と述べる。再述するが、どちらも嘘ですよ。
本当の在位は多分、60年ではなく、せいぜい6分の1の10年程度でしょうね。年齢は30歳程度でしょうね。数えで31歳と推察。
まあ、安康天皇の3年在位は信用できると思うが、在位時期は別の時期でしょうね。その前に木梨輕太子という皇子がいたが、彼は執政時期が10年程逢って中国から興王と呼ばれたと推察。だから日本書紀と古事記で安康以降の在位時期が本当の在位時期より10年ずつずれた位置に配置されるはめになった。古事記の方が信用できると思う。継体天皇の時にこれらを修正して在位時期の配置を正しくしようと正されたということでしょうね。

すなわち日本書紀と古事記はそれぞれに如何に各天皇別に在位・年齢・崩御時期などを加工して正規の歴史の展開を意図的陰謀で日本を神仙の住む悠久の歴史を持つ神の国に偽装するかで別々の歴史編纂書を造れという勅命のもとに個別編纂されたが、その時、大本の方針として古事記は出来るだけ正史に近い形で物語や事績を加工して掲載し、
日本書紀は再録しますが、神武天皇の即位時期を前660年、年齢127歳在位年数年は皆数値通り信じる必要なし。まして127を2で割って63程度に持っていくことも不要。
推測で申し訳ないが、たぶん神武天皇は在位20年程度、年齢も70歳前後ではありませんか。概数で正確な数値は述べにくいですが、わたくしの説とお思い下さい。約20年が76年に、約70歳を127歳か137歳へと拡大偽装ですね。

まあこんなものです。とにかく春秋暦は空想ですからお捨てになることを勧めます。何でも2で割ればほぼ合う。これを大変失礼ながら怒り心頭になると思うが、敢えて「馬鹿の一つ覚え」と形容させて戴いた次第。
馬鹿と言われて怒るのは頭を冷やされて冷静になってから、再度この投稿全文を読み直して自分はどういう説で日本古代史を組み立てるべきか今一度考え直してくださいということです。

質問文に出て来る「春秋暦」を用いるメリットも何も、初めから
春秋暦自体がありませんよということです。
当時、日本に来た魏の使者が見聞して帰国後、
40年程経って昔話として陣寿に語って述べた見聞録が
魏志倭人伝。もう魏の国は滅びてありません。
魏の使者が日本に行ってこうこうこういうことを当時の
日本人から伺い、日本の風土や伝説も聞いて自分なりに
文章を纏めて遡って編纂したわけです。それが魏志倭人伝ですよね。
略称とかいう人もいますが、正規の完全文書名は永いので省略しますご存知ですよね。陣寿さん自体は日本に行ったこともない。それを鵜呑みするなということです。「park123」様、よろしいでしょうか。
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この回答へのお礼

質問は、”当時、【もし】この説のように行われていたとしたら”

お礼日時:2024/05/15 13:11

神武紀元をむりやり紀元前660年に持っていこうと


苦心惨憺して推古以前の天皇及び登場人物の年齢を
異常に長生きに見せただけ。
実は皆今の人と変わらぬ常識的数値になると思う。
因みに神武以前はもっとすごい。
1.天照大神:105000年
2.天忍穂耳神:1794300年
3.ニニギ尊:318542年
4.ホホデミ尊:637892年
5.ウガヤフキアヘズ尊:836042年
3~5の合計は天孫降臨~神武東征までの年数ということで
合計して1792476年となり、日本書紀は
約数で1792470年余りとする。
これを解けるかですね。
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この回答へのお礼

質問は、この半年ごとに1年というのは、何がメリットだったのでしょうか?です。

お礼日時:2024/05/15 08:17

月はどうなるかです。


1~6と7~12のどちらの月もある。
2で割って1年を6カ月にはできない。
よく考えてほしい。
2で割ればいいというのは誤解。
絶対に妄想。
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この回答へのお礼

質問は、この半年ごとに1年というのは、何がメリットだったのでしょうか?です。

お礼日時:2024/05/15 08:17

あれは妄想と思います。


記紀の数値はあちこちで異なる。
100を超えるから何でも半分にすればいいというのは
馬鹿の一つ覚えと思う。
もっと複雑な解析法を考えるべき。
古代日本人を馬鹿にしている。
100を超えるから2で割れば常識数値になるというのは当然の話。
其れで解ければ苦労はない。
だからそんな説は採らない。
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この回答へのお礼

質問は、この半年ごとに1年というのは、何がメリットだったのでしょうか?です。

お礼日時:2024/05/15 08:15

説明に好都合だと思ったのは、そういう説を唱えた学者たちであって、もちろん記紀の作成者たちではありません。

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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。

お礼日時:2024/05/15 08:14

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