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東條英機以外の人物が当時の首相を務めていたら、特攻作戦は無かったでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 誰が立案したんでしょうか?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2025/03/10 09:23
  • しかし東條英機が猪突猛進型の戦争方針を繰り返し繰り返し発信していたから、それに影響された周りの軍幹部が、特攻を立案する雰囲気が作られていた、とは言えないんでしょうかね?

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2025/03/10 16:12

A 回答 (10件)

最初の航空特攻である神風特別攻撃隊の出撃は1944年10月20日で、


東條内閣はサイパン失陥等で1944年7月18日に総辞職しているので、
特攻隊の時の内閣はそのあとの小磯国昭内閣の時です。

ちなみに、神風以前に真珠湾で投入された特殊潜航艇と言う潜水艇は、
当時の潜水艦乗りには特攻兵器の一種と考える者が多かったようで
片道でもそれなりに志願者がいたようですが、山本五十六は
帰還のめどが立たつまでは実戦投入を認めませんでした。
また、人間魚雷で有名な回天は神風より前に開発が始まりましたが、
回天の提案をした竹間忠三大尉や、入沢三輝大尉、開発まで係わった
黒木博司大尉や仁科関夫中尉らは軍の司令部ではなく現場の人です。
戦局の打開からそれなりの多くの軍人が特攻を考えていたので
いわば必然的に始まったものです。
神風は大西滝次郎中将が始めましたが、東条英機には特に関係なく
軍令部の誰が立案して始めたというわけではありません。



さて、よく戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」から、
東条英機は兵士の命を大事にしないと考える人がいますが、
よく読めば、「死ぬ気で戦うべきで安易に降伏するな」
ということを言っているにすぎません。

以前に戦陣訓の話が出た時にこれを否定する意見がありましたが、
例えば戦陣訓が出る前のノモンハン事件で捕虜になって帰還した
原田文男少佐や大徳直行中尉は自決勧告を受けて抗弁しましたが
受け入れられずに結局は自決させられています。
当時としては、戦争で捕虜になるくらいなら自決するべき
と言う考えが東条に関係なく一般的でした。

他にも戦陣訓を読めばわかりますが、敵の捕虜を大事にしろとか
生きて帰ったら戦死者を慈しんでも誇大な自慢はするなとか
戦地において病気で死ぬのはダメだぞとか書かれています。
(戦陣訓があるから捕虜をとらないとか、虐待したとかいう研究者は
 戦陣訓を全然読んでないと言うことになりますよね)
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この回答へのお礼

大変詳しく教えていただき、みなさん、ありがとうございました!

お礼日時:2025/03/13 10:07

そもそも、特攻隊の出撃は昭和19年秋のレイテ決戦からのことです。

それに先立つ昭和19年7月18日に東條内閣は総辞職していましたから、特攻について何らかの責任を負わせることは法理的に否定されます。『戦陣訓』が念頭にあるとお見受けしますが、「捕虜になるな」と「必ず死んで来い」との間には超えられない断層があります。少なくとも、特攻の開始と『戦陣訓』に密接な関係があるとする研究者や戦争経験者は皆無ですし、東條陸軍大臣の指導が影響したとする説も絶無です。
(『戦陣訓』と、玉砕や集団自決との関連を指摘する研究者・経験者は枚挙に暇ないこととは対照的です)

まあ、ソ連や北京政権の人民裁判なら有罪かもしれませんが(微笑)
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特攻はむしろ海軍主導でしたからねえ。

太平洋戦争では米軍の空母機動部隊に対抗する手段がなくなったから海軍が講じた手段。主導したのは大西中将とされています。ちなみに侍従武官の城英一郎(海軍です)が提言したのは航空特攻であって、特攻全般の主導ではないです。陸軍はその時点でそこまで追い込まれてはいません。また特攻というと太平洋戦争ですが、歴史的には旅順港の閉塞戦とか旅順要塞の攻略戦とか、陸海に限らず日本軍の伝統的手段であったという説もあります。
それに東條首相というのは航空関係に造詣が深いわけでもなかったですし、そもそも調整型の人物であって主導型ではない。猪突猛進型でもなくむしろ慎重派。特攻の方針も、自ら推進したというよりは追認したというレベルだと思います。だから彼が首相でなくても特攻の方針は変わらなかった。
 ちなみに当時の日本軍に空軍はないです。
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特攻作戦を立案・指揮したのは、政府ではなく 海軍・空軍の司令官。


東條英機は 作戦の細部には 関与していない。
山本五十六少将(太平洋戦争時の連合艦隊司令長官)が 会議で、
「飛行機の体当たり戦術を断行する」と言ったそうです。
この回答への補足あり
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東条英機は特攻隊とは関係なです。


特攻作戦の旗振り役で実質的な最高責任者は、軍令部第一部長だった中澤佑です。反対派を抑え込み、源田実らの特攻推進派に同調し「本人たちの崇高な自由意思に任せるべき」と実施させて、黒島亀人が次々と発案する奇々怪々な特攻兵器を承認し続けました。
最後は「死ぬのは俺の係じゃない」と責任を否定し続けました。
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特攻作戦は、海軍の伝統で、真珠湾奇襲作戦でも志願兵による戦死が決定的な特殊潜航艇攻撃が実施されている。


マリアナ沖海戦の完敗で海軍は米海軍と対抗できる力を完全に失ってしまった。それ以降、大規模な組織的特攻作戦が繰り返されることになるが、最初の特攻作戦命令者は大西瀧治郎海軍中将(当時は第一航空艦隊司令長官)と言われている。

東条英機は陸軍であるし、あまり関係ないだろう。そもそも東条英機は海軍がマリアナ沖海戦で完敗してしまった結果、サイパン島を米軍に奪われて帝都東京が米軍の長距離爆撃機B29の爆撃圏内に入った責任を取って首相を辞任しており、時期的にも関係なさそうだ。
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歴史に「タラレバ」はありません。


 
まあ、開戦自体冷静に分析すれば無理なのに、敢えて開戦をした。
そして明治この方敗戦を経験していない事で、世論も開戦を後押しした。
 
特攻も、この延長線上ですよ。つまり誰が首相でも行った。
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神風特攻隊は、マリアナ沖海戦後の昭和18年6月末頃に、侍従武官だった城英一郎大佐が提案されたそうです。

この時は、「まだ、その時期ではない」として提案は退けられたそうです。
(参考:世界初の空母対空母の戦いといわれる珊瑚海海戦が昭和17年5月上旬です)
日本軍がめいっぱい戦力を集めて戦ったマリアナ沖海戦で、ボロ負けしたので、「普通の戦い方では、もう米軍に勝てない・・」という考え方をする軍関係者は多かったと思います。
だから、首相が東條英機でなくても、だれかが特攻作戦を提案して実行されていたと思います。
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東条英機が特攻作戦を立案・決裁した訳ではありません。


他の人が首相でも実行したかもしれません。
この回答への補足あり
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タラレバ

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