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フィクション作品であれば「余の顔を見忘れたか」が決めゼリフの暴れん坊な将軍もいるようですが、史実においては、殆どの大名はたとえお目見え(謁見)の時であっても作法により平伏し続ける事が求められ、面を上げて上様のご尊顔を見る事など許されなかったようです。

【参考URL】
江戸城/大広間/控之間/松之廊下 -大江戸歴史散歩を楽しむ会
https://wako226.exblog.jp/16483689/

 そこで質問なのですが、徳川吉宗が将軍だった頃の時代、史実において行事等におけるお目見え以外に、一般的な大名・旗本・代官の類の大半が江戸幕府の将軍の顔を直接見る事が出来た機会はあったのでしょうか?
 尚、あくまで「“大半の”大名・旗本・代官の類」が普通に将軍の顔を見る事が出来た機会に関しての質問であって、何らかの特殊な立場の者のような極一部の人物にしか該当しない話や、何らかの事故等で偶然将軍の顔を見てしまった等の例外的な話は除外します。

A 回答 (14件中1~10件)

> 御簾があろうが、御簾が上がっていようが、基本的には、平伏しているのが礼儀でしょう。

 面を上げよとでも言われもしないのに、顔を上げて尊顔を拝する、睨むなどできっこないです。
① つまり、一般的な大名・旗本・代官の類の場合、江戸幕府の将軍の顔を直接見る事が出来た機会は無かったという事ですね。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
①は、早とちりだと思います。
「将軍拝謁」に関しては、次のようなのもあります。
https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu-arch …
http://history.c.ooco.jp/ekken.htm
http://www.wattandedison.com/sugasugashiki_2023. …
ケルペンの綱吉拝謁では、御簾裏に将軍や正室はいて、透けてケルペンをみることができ、逆方向から将軍や正室の姿は明瞭には見えない仕組みにしていることがわかります。 
これが儀式としての将軍拝謁のやり方ですので、おそらく、正規の年中行事の大名らの将軍拝謁も同様でしたでしょう。
でも、将軍は将軍拝謁以外のときは大奥に引き籠もってばかりいたのではないです。
次のようなのもあります。
https://wako226.exblog.jp/iv/detail/?s=243734094 …
この絵図の状況で一般の旗本らが将軍の顔を見る機会もない、将軍に挨拶もせず過ごせないでしょう。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%85%A …
家康の娯楽
文武の道御教導ありしはいふもさらなり、小技曲芸の末までも棄てさせ給はず、四座の太夫、あるは狂言師なども、巧妙の名を得しものは、こと〴〵く召して、其業せしめて御覧あり、本願寺の内に、下間少進といへるも、申楽に達せしとて、召よばれし事も数々あり、もとより申楽をこのませ給ひ、駿城にては月ごと度々興行ありしことも、御みづからの娯観にのみにし給はず、公達を饗せらるゝか、さらずば諸大名・御家人等を慰労せらるゝ為に催されしゆゑ、いつも諸人に陪観せしめられしなり、この外も越前に幸若太夫・または平家かたる琵琶法師・あるは園棋所本因坊算師・将棊よくする宗桂などに至るまで、すこしも名高きものは、召して御覧あり、かゝりしかば、其頃道々のわざつかうまつるものも、みな家業を励みつとめて、いさゝか怠らざりしゆゑ、一時巧妙の徒多く出来しとなり、〈駿府政事録〉

小技曲芸、狂言、猿楽、カルタや将棋を鑑賞し、諸大名や御家人を同席させるとき、当然席位置に厳格な統制はしていたでしょうが、鑑賞者は平伏せず前を向くでしょう、将軍の後ろ姿や横からしか見えないかもしれませんが、将軍が退座するまでは、諸大名や御家人は席を離れることはできないでしょうから、平伏が間に合わず、顔を見てしまうこともあるでしょう。
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この回答へのお礼

>①は、早とちりだと思います。

 どこが早とちりだと仰るのでしょう?
 回答者様が仰る

>「将軍拝謁」に関しては、次のようなのもあります。

の内、1つ目の『史料解説―将軍への披露 あれこれ』には、「拝謁の際に大名達がどのような名で呼ばれるのか」という事と席順についてぐらいしか書かれておらず、「大名達が将軍の顔を見る機会」に関しては何も触れられてはおりませんし、3つ目の『将軍徳川綱吉に二度拝謁したケンペル』はそもそも外国人であるケンペルに関する話なのですから、本件とは関係の無い話に過ぎません。
 そして2つ目の『将軍謁見の様子』には

>国主になると、上段の次の間の中ほどで謁する。将軍を拝し見ることはできません。平身低頭するだけです。

>将軍の場合は将軍からご覧になるだけで、こっちから仰ぎ見ることはできません。

とはっきり書かれておりますから、正しく

>① つまり、一般的な大名・旗本・代官の類の場合、江戸幕府の将軍の顔を直接見る事が出来た機会は無かったという事ですね。

という事になります。

 また、回答者様が

>この絵図の状況で

と言って挙げておられる鷹狩りに関しても、今回改めて調べてみましたところ、将軍に付き従う鷹匠や犬引き、勢子等は徒士や足軽クラスといった身分的には旗本未満の立場の者たちでしかなかったようです。

>家康の娯楽

に関しては、他の回答者様に対するお礼欄で

>家康の頃はまだ幕府が始まったばかりの時代で、格式とか作法と言った類のものが定まってはいなかった可能性が高いと考えられますので、初期の数代くらいまでは本件の対象からは除外してした方が良いのではないかと思います。

と、既に述べております。

お礼日時:2025/07/21 01:10

>何らかの特殊な立場の者のような極一部の人物にしか該当しない話


だと思いますよ。
それこそ老中クラスだと顔を見せただけで驚愕しますし、直参旗本クラスだと「見忘れたんか?」なのかと。

見忘れた?と聞くくらいなら双方に面識があるとみていいでしょう。
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この回答へのお礼

済みません。御回答に書かれている事が不明瞭で、何を仰っておられるのか今一つ分かりません。

>老中クラスだと顔を見せただけで驚愕します

とは
「老中クラスの人に、将軍様が顔を見せると、その老中クラスの人が驚愕します」
という意味なのでしょうか?それとも
「一般的な大名・旗本・代官の類に属する人に、老中クラスの人が顔を見せると、一般的な大名・旗本・代官の類は驚愕します」
という意味なのでしょうか?
 どちらの意味としても受け取る事が出来るため、どちらの意味なのか分かりません。


>直参旗本クラス

とはどのような立場の人間の事を指しているつもりで書いておられるのでしょうか?
 「直参」とは、江戸時代、将軍に直属した一万石以下の武士達の事で、将軍に「お目見え」(謁見)出来る「旗本」と、「お目見え」出来ない「御家人」の2種類が居ました。
 つまり、「直参」であっても「お目見え」出来たとは限りません。
 また、「旗本」である以上は「直参」であるのは決まり切っていますから、「旗本」の前にわざわざ「直参」を付けるのは、「老中」の頭に「幕臣」を付けて「幕臣老中」と呼んでいるようなもので、「単なる直参」なのかそれとも「旗本」なのかはっきりしません。


>見忘れた?と聞くくらいなら

 いや「見忘れた?」と聞いているのは

>フィクション作品であれば

の話に過ぎず、史実において将軍がそのように訊いたわけではないでしょうから、本件とは関係の無い話です。

お礼日時:2025/07/20 10:08

>何らかの特殊な立場の者のような極一部の人物にしか該当しない話


>例外的な話は除外します

剣術指南、上覧試合、将軍継承祝儀披露、婚儀祝賀、御殿回遊招待、四季折々の祝賀、桜見物 ほとんどの場合が、例外的であり、同席を許されるものも事前チェックの上でしょう。 
大名にしろ、旗本にしろ、その人数は多いです。 その1/3でも、一同に会するのはちょっと無理があるでしょう。 
御簾があろうが、御簾が上がっていようが、基本的には、平伏しているのが礼儀でしょう。 面を上げよとでも言われもしないのに、顔を上げて尊顔を拝する、睨むなどできっこないです。
写真、似顔絵の配信もないと思います。
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この回答へのお礼

つまり、一般的な大名・旗本・代官の類の場合、江戸幕府の将軍の顔を直接見る事が出来た機会は無かったという事ですね。

お礼日時:2025/07/20 09:03

「“大半の”大名・旗本・代官の類」が普通に将軍の顔を見る事が出来た機会に関しての質問



下記のwebの記事を読まれて、どのようにお感じになりますか。
https://note.com/m_bungeishunju/n/n600be15b3e8a? …
上覧相撲や花見もされているようです。 大名・旗本の3割が同席したというようなことはないのでしょうが、数名程度は同行、同席も許されていたでしょう。 家斉という人は結構さばけてもいたようなので、婚儀の挨拶、褒美の授与なども、謁見を許した状況でやっていたのではないでしょうか。
柳生も剣術指南で将軍に会っているのですが、剣術ではなく、学問や文化の関係でも、そこそこの旗本などにあっていたでしょう。 
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j …
特殊な立場の者のような極く一部の人物にしか該当しない話に思えるのかもしれませんが、誰よりも浜御殿を活用し楽しんだのは家斉だった。招待された大名や家臣たちは、そこで振る舞われる食事や美酒を味わい、家斉の趣味でもある「庭」にて、能や踊りを鑑賞したり、釣りを楽しんだらしい。浜御殿の観遊するルートは、その時々によって異なるが、大きな泉水を囲むように各施設等が配置されているため、泉水をまわるように巡っている。その一例として、天保5年(1834)8月 23 日に寺社奉行ほか 22 名の大名・幕
臣が招待された際の順路。基本的には、朝より一日をかけて泉水を反時計回りに廻っていた。集団行動を基本としたが、自由に見学したり、植物等を採取することが許されていた。三間橋→八景山→観音堂→植え込みや木々の間→富士見山→海手の小橋→御亭山の腰掛→松の茶屋→燕の茶屋→見合所(鷹の茶屋)→御泉水での釣り→高見所で昼食→馬場→高見所→新銭座の菜園
→鳥溜まり(庚申堂鴨場)→栄螺山→庚申堂→織殿→海手で御座船天地丸の見学→塩竃→松の茶屋  多数の大名や家臣を招待しても、自分は顔も出さないということも考えられますが、招待された側としては、お礼の挨拶を何らかの形でやっていたと想像します。
https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/ …
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この回答へのお礼

>数名程度は同行、同席も許されていたでしょう。

>柳生も剣術指南で将軍に会っている

 それは

>何らかの特殊な立場の者のような極一部の人物にしか該当しない話

>例外的な話は除外します

に該当しますので除外します。



>招待された大名や家臣たちは

 その際、将軍の顔を直接見たという記録があるのでしょうか?
 それとも将軍は御簾の中に居て、顔を見る事は出来なかったのでしょうか?

お礼日時:2025/07/14 07:33

「大名格差」こ本に詳しく掲載されてます。


http://amazon.jp/dp/480130493
将軍に謁見するのには、旗本と外様、石高などに依り厳格に決められて
ますね。
謁見する部屋も違って格差を付けてました。
行事では年賀の挨拶が最大事なようです。
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この回答へのお礼

質問文中に書かれておりますように、謁見では将軍の顔を見る事は出来ません。
 ですので謁見に際しての格差について書かれているだけの書物であれば、本件の参考にはならないと思います。

お礼日時:2025/07/14 07:22

家康は、鷹狩りの休憩で立ち寄ったお寺などでかなりいろいろな人に逢ってたという話があります。

また、鷹狩りは体力を使う娯楽ですから、お年寄り連中ではなく、比較的若手が同伴してたでしょう。

吉宗の犬追物も、観客なしの競技では面白くないので、やや離れた場所からでしょうが見物自由。休憩場所でも、日ごろ会わない人たちと会ってたでしょうね。吉宗が庶民相手の野菜などの価格をよく知ってて、老中に、お前たちも、それぐらい知っておけと言ったのは有名。情報源があってこそ。
 記者にカップラーメン1個いくらが知ってますか。と質問されて、さぁ、500円ぐらいじゃないか。って答える政治家は、吉宗からすれば政治家失格。
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この回答へのお礼

家康の頃はまだ幕府が始まったばかりの時代で、格式とか作法と言った類のものが定まってはいなかった可能性が高いと考えられますので、初期の数代くらいまでは本件の対象からは除外してした方が良いのではないかと思います。


>吉宗の犬追物も、観客なしの競技では面白くないので、やや離れた場所からでしょうが見物自由。休憩場所でも、日ごろ会わない人たちと会ってたでしょうね

 それは史実に基づく話なのですか?それとも回答者様の単なる空想の話なのですか?
 もし仮に史実だったとしましても、それは将軍御用達に指定された土地で行われたものと思われ、そのような土地で暮らしている庶民であればこっそりと見物する事も可能だった可能性はあるでしょうが、そのような将軍専用の場で

>一般的な大名・旗本・代官

も見物していたものなのでしょうか?
 少なくとも警備上の問題がある以上、関係者以外が将軍居る場所の近くに居たというのは不自然に過ぎると思います。

お礼日時:2025/07/14 07:18

幕府でそれなりの役職についていたのなら顔を見る機会はあったと思います。


今で言うなら閣僚というか。
老中・若年寄を筆頭に町奉行、勘定奉行、寺社奉行など各種奉行やお側衆、京都所司代、大阪城代や大番頭や大目付とか奏者番とか高家とか。
それらが一般的な、って範囲にいるかどうかは質問者さんの感覚次第ですが。
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この回答へのお礼

>幕府でそれなりの役職についていたのなら顔を見る機会はあったと思います

 何故そのように考えておられるのか分かりません。
 将軍の警護や、将軍が就寝中に老中などによって持ち込まれた政策などを取次ぐ役割がある側衆や、将軍に勤仕して、日常の細務に従事する小納戸等の極一部の役職を除いて、大部分の役職は将軍と顔を合わせずとも成り立つ職務ばかりです。
 どのような根拠から

>幕府でそれなりの役職についていたのなら顔を見る機会はあったと思います

とお考えなのか、根拠をお示し願います。


>それらが一般的な、って範囲にいるかどうかは質問者さんの感覚次第ですが。

 大名が260~270人くらい居たのに対し、大名役の職種は12種、45人しか居なかったそうですから、役職持ちの大名は2割にも満たず、大半の大名は役職に就いていなかった以上、(私個人の感覚とは無関係に)客観的に見て「一般的」とは言えない事は確かです。

お礼日時:2025/07/14 06:58

山王祭(日枝神社)と神田祭(神田明神)では祭礼の行列が江戸城内に入り将軍も見物したそうです。

一般の大名や旗本も行列に紛れ込めば将軍の顔を見ることが出来たかもしれませんね。もっとも将軍も御簾内に居ることにして、実はいなかったかもしれませんが・・
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この回答へのお礼

いや、某暴れん坊な将軍が下町に出歩く程では無いとは言え、一般の大名や旗本クラスだとて祭礼の行列に紛れ込むのは無理なのでは?
 加えて将軍の方も御簾の中に居るのでは、外から御簾の中に居る将軍の顔を見る事は出来ないと思います。

お礼日時:2025/07/12 23:46

史実でいえば、あのように将軍を外出させれば何人もの人間が切腹になる。


将軍とは比すべきもない大名ですら、椀の中に蠅が入っていたら周囲に気づかれないよう黙って食べてしまうだけの心得が要ったのである。

というわけで、将軍はふだんは本丸御殿に潜んでいるしその区域も限られている。
拝謁には手続きがいるし将軍の外出にも煩雑な手順を踏まなければならない。
手続きを踏めば拝謁は可能だったが、お気楽に申し出られるものではない。

例外的に、御庭番などは身分は低くても手続きを踏まなくても将軍から声をかけられれば顔を見ることができた。
将軍直々の密命を賜る身としては当然のことではある。
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この回答へのお礼

>例外的に、御庭番などは身分は低くても手続きを踏まなくても将軍から声をかけられれば顔を見ることができた。

に関しては

>何らかの特殊な立場の者のような極一部の人物にしか該当しない話

>例外的な話は除外します

に該当しますし、

>一般的な大名・旗本・代官の類

でもありませんので、本質問の対象外になります。

>一般的な大名・旗本・代官の類

 本質問は

>お目見え以外に、一般的な大名・旗本・代官の類の大半が江戸幕府の将軍の顔を直接見る事が出来た機会はあったのでしょうか?

というものですので、その点に関しての話を教えて頂きたかったです。

お礼日時:2025/07/12 23:37

無理っしょ。

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この回答へのお礼

御回答頂き有難う御座います。

お礼日時:2025/07/12 23:48

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