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平安時代の貴族に仕える女房についての質問です。

昼の間は主人に侍っているので当然主人の部屋にいるわけですが、仕事が終わってからはどこにいたのでしょう。
主人と同じ殿舎の一角でしょうか。
それとも女房たち専用の殿舎があったのでしょうか。

A 回答 (2件)

絶対にここだ、と決まったものではなく、形態はバラエティに富んでいたらしい、という感触です。



どこで読んだか忘れましたが、確実に記憶に残っているものとして「渡殿」が挙げられます。
寝殿造りの場合、寝殿と対の屋などを結ぶ部分として渡殿の存在がありますが、これは字から想像されるような渡り廊下としての機能ばかりではなく、居室としても使われていたらしいのです。
同じ「渡殿」と呼ばれるので紛らわしいのですが、透渡殿は何しろ壁とかありませんから、まさに廊下、それに対して例えば北渡殿(場所によって名が変わるので、名前が機能を表してないと諦めるしかないようですが……)は壁も屋根ももちろんあり、ここを几帳などで仕切って女房の私室にしていたということはあったようです。

以下は「絵巻物の建築を読む」(東京大学出版会)の拾い読み。

○「台記」によれば、藤原師長は日頃東三条殿の上官廊、すなわち西北渡殿を居室としていた

○「兵範記」によれば臨時に東三条殿を皇居とした際、同所を東宮御所として使用したこともある

○北側の渡殿は桁行二間と広く、蔀が吊られ、内部には間仕切り用の襖障子もあった。

○同じく台記に渡殿や中門南廊、厩の南妻に居室を設けたことが記されている。

また、同書掲載の寝殿造り復元図を見ても、東の対から伸びる「東二棟廊」「侍廊」は東の対から見て向こう側に特に建物がないので、廊下として作られたものではなく、長屋状の居室として使用されていただろうと思えます。

その他に、ひょっとしたら上臈女房などは寝殿の北孫庇辺りに居室をもらうこともあったのではないかとも個人的に思っていますが、それは居室ではなく伺候の場としてのみ使われたのかもしれず、自信はありません。

いずれにしろ、日本家屋は実に融通無碍で、空間を自由自在に几帳や屏風で区切り、あまり細かくは決めずに使っていたのではないかなと思います。とにかくプライバシーという観念はほとんどなさそうです(^_^;)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
とても詳しくて参考になりました。

お礼日時:2005/08/10 19:56

源氏物語で,藤壺にしのんでいくとき,


王命婦が手助けをしていますよね。ということは,
そう遠くない場所に居室が確保されている気がします。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。源氏を読むと、腹心の女房は夜でも呼べばすぐ来る場所にいるようですね。

お礼日時:2005/08/10 19:55

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