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どのような一般教養を身につけていたのでしょうか?
今、現在の我々でしたら、義務教育やセンター試験などが一般教養の最低ラインになるのではないかなと思います。
(これも言い過ぎとは思いますけどね)

では、江戸時代の武士たちにとっての一般教養ってどのようなもので、どうやって身につけたのでしょうか?

それとも、ちゃんと学ぶような一般教養なんて無く、生きているうちに身に付ける常識しかなかったのでしょうか。

どう、思われますか?

A 回答 (10件)

 江戸時代の官営の学校で、大学に当たるのが有名な昌平黌(しょうへいこう)です。



 これは、幕府が制定したもので前身は林家の私塾で、寺小屋です。最初は上野忍ヶ岡、今の上野公園の下にありました。

 それを元禄四年(1691年)、五代将軍綱吉の時に文京区の湯島に聖堂を造って移転し、昌平学問所とし、大学頭、今日の学長を林鵞峯(がほう)の子孫に世襲させたのです。

 このために、林家は一万石の所領と、江戸城大手門の前に邸宅をもらい、歴代将軍の師匠と幕府文教政策の責任者、つまり文部大臣を兼ねていたのです。

 従って、昌平黌は学校であると同時に文部省のようなもので、幕府の教育行政の中心的役割を果たしました。だから、昌平黌は一般の学校というより、学者の養成機関であり、幕府直属の武士、直参の師弟の検定試験を行うところでした。

 当時は学生と言わずに、門弟と言いましたが、昌平黌の場合は住み込みで大学頭の指南を受け、一定の年齢に達すると、郷里へ帰って結婚して町塾を開いたり、各藩に仕えたりします。

 直参の場合は、十七歳になると大学頭の前に出されて、素読の試験を受けます。二回までは落第しても大丈夫ですが、三回落ちると再試験の機会を失います。そうすると、一生、武士として家を継げなくなります。つまり、武士としての階級は残りますが、家督相続は許されません。その結果、やむなく町民や農民の家に養子に行ったり、雑業につかなければならない、という厳しいものでした。

 従って、外国で武士に当たる騎士というのは、必ずしも教養があるとは限りませんが、江戸時代の日本の武士はかなり高い教養を持っていたといえます。教育内容は、『大学』や『論語』に代表される四書五経と言われる中国の古典の素読や高度の私文書の作成を身につけることでした。

 さらに、江戸時代には、諸藩に置かれた藩直営の藩黌(はんこう)・藩学というものがありました。
 この教育機関によって、武士は、直参以外の者でも教育を受けられたのです。藩黌は、普通儒学を建前としましたが、江戸時代後期には、洋学や医学なども教えるものもありました。
 これらの藩黌は、幕末にはなんと250校に及びました。現在の国立大学が99校であることを考えれば、当時の教育水準の高さが分かると思います。

この藩黌で有名なものは、岡山の閑谷黌(しずたにこう)、水戸の弘道館、会津の日新館、仙台の養賢堂、、米沢の興譲館、長門の明倫館、尾張の明倫堂、熊本の時習館などです。

   参考 樋口清之 國學院大教授著『続・梅干と日本刀』
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この回答へのお礼

丁寧な解説ありがとうございます。

juntさんの説明だと
(1) 武士が教養を持ち始めるのは昌平黌をはじめとする文部行政整備以後の近世中期から
(2) 教養の中身は四書五経といった儒教中心

って事になるんでしょうか?

お礼日時:2005/08/24 14:57

 すみませんNo.5ですが、もう一つだけ書かせていただきます。

私は、朱子学が一般的だったとは思いません。

 宋学は、本場の中国にあっては、朱子によって大成し、精緻化されました。
 以後、元・明・清においては、科挙の試験は朱子学によるべきものとされました。やがて、朝鮮においても、朱子学者李退渓(1501~70)が出、日本に影響を及ぼします。
 朱子学の理屈っぽさと、現実よりも名分を重んずるという風は、それが官学化されることによって、弊害
をよびました。特に李氏朝鮮の末期などは、官僚は神学論に終始し、朱子学の一価値論に固執して、見ようによっては朱子学こそ亡国の因を作ったのではないかと思えるほどに凄惨な政治事態が連続したのです。
 日本の場合も徳川幕府は、朱子学をもって官学としました。
 ただ日本の場合、幸いにも江戸中期、多様な思想が出てきて、朱子学が唯一のものではなくなったのです。例えば、ほとんど人文科学に近い立場を持つ荻生徂徠(1666~1728)や伊藤仁斎(1627~1705)の学問がそうで、彼らは朱子学の空論性を攻撃しました。徂徠における実証主義は、清朝の考証学より半世紀さきがけ、江戸期の思想に好もしい影響を与えました。余談になりますが、儒学の面のみに限って言うと、朱子学を唯一の価値とした朝鮮と、このあたりでレールが岐(わか)れたともいえます。

 と、いうわけで、日本では朱子学よりも陽明学の方が好まれたわけですが、日本でも一ヶ所だけ、恐るべき朱子学的幻想が沈殿していった土地があります。水戸でした。
 たまたま明の遺臣朱舜水が、異民族王朝である清から逃れて亡命してきたのを手厚く保護したためで、この影響は幕末まで続きます。
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補足です。


教養の基礎といえば、当時の武士は幼年期から書籍になじむように教育されていましたから識字率、読解力は養成されていたと思います。
朱子学とは限りませんがやはり朱子学が多かったとは思います。
鍋島藩などは「葉隠れ」があったかも?
会津藩は藩祖以来の独特な教育であったとききます。
それぞれ各藩の事情で教科書の選択が行われた筈です。

実学となると専門知識ですから良い教師に会わなければ理得は出来なかったでしょう。
私塾が多かったと思いますが入門には一定の基礎学力を要求したと思います。

すくなくとも学生自身が知識欲に燃えていた筈です。

この回答への補足

補足です。

ただ、ss79さんのいう「基礎学力」ってなにかって問題は残っているのかも。

補足日時:2005/08/31 17:31
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この回答へのお礼

ありがとうございます。返事が遅れて申し訳ありません。

となると、「識字率、読解力」といったものが「基礎学力」として、養成されていたということになるのですかね。
これは、後期に日本語とは何かを考える国学が流行することを考えるとちょっとおもしろいですね。

お礼日時:2005/08/31 17:25

 No.5ですが、私は以前別の方の質問で日本人は教育好きで一千年以上前から、つまりローマ・中国に次ぐ古い教育制度を持っている国だということを書かせてもらったんですけれども、私が言いたかったのは、昌平黌(1691)以前に武士に教養がなかったということではありません。

昌平黌の前身自体が林家の私塾だということは述べましたが、岡山藩学校の前身花畠場は、寛永18年(1641)ですし。

 しかし、江戸時代を通じて最も大切にされたものは社会教育であり、家庭教育では『躾』でした。『躾』という文字は和字、つまり日本人の製作で文字通り美しい身、すなわち、美しい言動を指しています。

 人間は、生まれた時は野生動物と同じです。従って、躾とは、野生動物に行動の方法を決めて馴れさせることです。

 子供達は、家庭生活の一員として、社会生活の一員として、快く迎えられることが必要です。そのために家族が、野生の子供にものの考え方や、言行・動作を教え、調教してゆく。これが躾です。

 具体的に言えば、躾の基本は、もし封建社会であれば、封建社会の社会生活の習俗に馴れさせ、訓練することです。その時代の人間関係をスムーズに生きるためにどういう発想をし、どういう行動でそれを表現し、どういう礼儀作法や言葉遣いで対応するか、生活上の基本的知識を教えることが躾です。

 端的に言えば、躾を、礼儀作法を教えることと言い換えてもいいです。

 江戸時代には、『小笠原流』という礼法が江戸幕府の礼法として採用されました。日本の礼法としては、小笠原流の他に今川流、伊勢流という礼法があります。武家礼法と公家礼法とに分けられ、小笠原流は、武家礼法です。これが幕府に採用されたために、武家はもちろん、あらゆる日本の家庭でもこれを真似ることになります。

 その結果、小笠原流は、現在の礼法の根幹にもなっているわけです。

 小笠原流は、小笠原貞宗(1291~1347)という南北朝時代の武将によって創案されたものです。

 小笠原流の断片を紹介すると、まず道路や一般家庭の中では、左側通行です。殿中では、刀を抜きにくいように、右側通行になっていました。歩く時は左足から進み出て、退く時は右足から退きます。

 角を曲がる時には、一旦停止して、左足からすすみ出す。おじぎは、『拝(はい)』というのが最敬礼、『揖(ゆう)』というのが半分体を曲げる略式。どういう場合に拝をし、どういう場合に揖をするかも決まっています。今日の交通法規のように、実に細かい規定があったのです。

 
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江戸時代も中後期となると武士も官僚化して、教養なるものが必要になりました。


それまでにも儒学、朱子学などの素養は必要でしたが次第にいわゆる実学が盛んになり、農政、治水、経済、果ては医学、蘭学、天文学、冶金学などを始め兵学などを各種教育機関で修得するまでに至りました。

これらは幕府、各藩の事情により教科が異なりますが学校、私塾などで教えました。

この時代教養は教えてもらうより自ら学ぶものでした。
熊沢蕃山や大塩平八郎は実学の実践者でした。
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この回答へのお礼

簡潔なお答えありがとうございます。

ぐうの音もでませんね。

けど、自ら学ぶとしてさまざまな学問があるとしても、最低限の共通項としての教養を持っていると思うんですよ。

現在の大学に入って、いろいろな専門の学問を学ぶとしても、ベースとしての義務教育があるようなみたいに。

それは朱子学とお考えですか?

お礼日時:2005/08/24 15:05

>98kinさんの念頭にあるのは近世中期以降ですよね



井沢元彦氏に依れば、転換期は5代将軍徳川綱吉ではないかと書いています。
先日薩摩示現流の東郷重位の伝記を読んでましたら、薩摩藩の武士が往来で犬を捕らえて殺し、河原で解体して犬鍋として食べてしまうシーンが出てきます。
日本人は獣肉を食べないのが常識ですが、古くは公家の藤原4兄弟が獣肉を食べて寄生虫にやられ、菅原道真の祟りと恐れたという説もあるようで、綱吉の時代までは食べていたのではないかと思います。
特にこの時期までは朝鮮に出兵し、現地の犬鍋などを食べた武士も多く、荒々しい振舞いが男らしいとされてますから、ありそうな話しです。
要は武士というのは戦が仕事ですから、戦国時代は腕っ節の強いことが人間の評価基準でした。
ところが平和な時代になり、戦がなくなると人も余ってきて、本来1人でやる仕事を3人とか5人でやることになってきますから、腕っ節とは別の評価基準を導入して、優秀な人間を引上げ、無能な人間(時代について来れない人間)を落とす必要が出てきます。
江戸初期には旗本奴など、時代に適合できない武士も出てきますから。
綱吉は生類憐れみの令等、おかしな法令を出した将軍ですが、頭がよく学問好きなのは間違いありません。
井沢氏に依れば、非常識と思える法令は一種のショック療法で、戦国の気風を払う意味があったと主張します。
確かに織田信長以前は武器を持つ僧侶が普通でしたが、比叡山焼き討ちで武器を持つ僧侶は殺すというショック療法をやったことで、現在我々が常識としてる「僧侶は武器を持たない」という考えが定着しましたから、非常識な行動はショック療法というのも、あながち間違いともいえません。
少なくとも綱吉以降は犬を食べる習慣は無くなり、学問で武士が出世するシステムが定着しました。
家柄ですが、確かに家柄により就けるポストは決まりますが、同じ家柄の人間が少ないポストを狙ってますから、無能では就けません。

教育史研究家の橋本昭彦氏の「仕官格義弁」では

>天和ノ已後ハ御人多ニ成候ニ付惣御番入モ段々遠ク罷成、元禄四未年十二月四日御役人惣領計被召出、宝永六丑年四月六日惣御番入以後ハ惣御番入ト申テハ無之候
(天和期以後は役職の数に対して幕臣の数が多くなったため、徐々に適齢となった旗本子息のすべてを番入りさせることが減少した。)

http://www.0105.jp/~mizuki/bankatatouyou1.html


同様の理由で、戦国期の下克上の思想を払う目的で朱子学が奨励され、武士の子弟の必修とされたと考えます。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/abesonnou9. …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうすると
近世初期の武士   荒々しい暴漢
近世中期以降の武士 学問を無理やりさせられるようになり官僚化

って考えでしょうか?

お礼日時:2005/08/24 14:59

厳密にいうと“教養”に入らないのかもしれませんが“良識”というか「現代」でいうところの“一般常識”について申し上げます。



江戸時代末期、一般的に「黒船」と呼ばれる米国艦隊をペリーが率いて日本に「開国要求」を行った直後、時のお侍さんたちは満を持してペリーの船にやってきました。

当然ペリーたちは日本のお侍さんたちを一生懸命「歓待」しました。その時のお侍さんたちの「行儀」はお世辞にも褒められるものではなかったといわれています。例えば帰り際にも出してもいないワインや食べ物、果ては“生きている鶏”まで持ち帰ろうとしたそうです。またそこに「味を占めた」のかそれからはそれまであった「警戒感」は“どこ吹く風”で“入れ替わり立ち代り”何度も訪れるようになったそうです。…よくいえば当時の日本人はそれだけ“無邪気”だったといえるのかもしれません。

当時のお侍さんたちに現代でいうところの「国際感覚」などを求めることなど(ある意味)「酷」でしょうから、もしかしたらアメリカの海兵さんたちに「恥」などという意識を持つことは“皆無”だったのかもしれません。たとえ持っていたしても当時の日本人が持っていた帰属意識(アイデンティティー)は“国(日本)”に対するよりは“藩”に対してのものでしょうから、髪の色も眼の色も肌の色も全て違う“異人さん”に対してはそういう「意識」が働かなかったのかもしれませんね。

いくら「昔の話」とはいえ、外国の人々からこの話を聞かされようものならちょっと恥ずかしい気分にさせられますね(苦笑)。

まあ、変に“弁護”するつもりはありませんが、そういう感覚は日本に留まらず当時の朝鮮や中国でも“似たり寄ったり”だったみたいです。現に当時の英米側の記録によれば「国際会議の最中にもかかわらず、中国の高官たちは放屁やゲップ、つばや痰を周囲に待ち散らすようなことを平然として、しかもそのような行為に全く躊躇する様子はなかった」と書かれているみたいです。

今日でもヌードル(麺)の食べ方ひとつとっても、“すする音を出す”のはかたや「文化」(日本)、かたや「恥」(西洋諸国)と全く違う訳ですからあくまで「生活習慣・文化の違い」に過ぎないのかもしれませんが…(微笑)。…やっぱりちょっと恥ずかしい(苦笑)。
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この回答へのお礼

おもしろいエピソードをどうもありがとうございます。
けど、それは「教養」や「常識」というより「異文化交流」の話ですね☆

お礼日時:2005/08/22 22:39

ちょうど手元の資料に


「手習いと読書の道を急ぐべし、無筆無学はならぬ役人」(番衆狂歌)とありますが、現在の小学生ほどの年から論語の素読を始めました。
幕末の森山孝盛という武士の自伝に依れば、6歳で読書を始め、12,3歳で四書五経・小学・三体詩・古文真宝を学び、母親の寝物語に忠孝仁義の道を諭され、舌きりすずめなどの昔話に親しんだとあります。
また12歳から弓道・剣術を学んだとあります。
武士の場合、役職を得るのが大変ですから、かなりの猛勉強をさせられたようです。
因みにこの森山は火付盗賊改になりましたが、彼の前任が鬼平こと長谷川平蔵です。
鬼平は若い頃ぐれており、度胸があって頭のよい人物でしたが、勉強は嫌いなようで、彼の書いた上申書はかなり誤字が多く、表現も低俗です。
武士は一種の官僚ですから、現在の官僚のように試験のため勉強し、かなりの教養があったと思います。
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この回答へのお礼

二回の回答ありがとうございます。
ただ、四書五経と言い切ってしまうのには疑問があるんですよ。おそらく、98kinさんの念頭にあるのは近世中期以降ですよね?近世全時代を通してそうといえるのか。難しいとこですよね。ただ、やっぱり、四書五経の大きなウェイトをしめていたのかなあ。

「武士は一種の官僚ですから、現在の官僚のように試験のため勉強し、かなりの教養があったと思います。」
これはどうなんでしょう?武士が役職につくには家格の問題もあると思うんですよ。

お礼日時:2005/08/22 22:29

武士の教養とは「四書五経」になります。


武士は幼い頃より素読といって本を声を出して読み、暗記します。
幕臣の場合15歳になると「素読吟味」といって、四書五経に小学を加えた書物の内から一つを選び、読めるかどうかの試験もあり、これに合格しないと一人前とはいえません。
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江戸時代初期あるいは中期の武士はほとんど学問はしなかったようです。


一般教養といっても実際の勤務から習う、なれる程度でした。
ひとかどの武士なら最低限の文字の読み書きは出来ましたが、漢文の素読程度でそれ以上学ぶことはあまりなく、変に教養などないほうがよいと思われていたぐらいでした。
藩校ができて藩士を教育するようになったのは江戸時代後期のことです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
近世初期の武士は学問をしないし、学問を軽視したというのは通説になっていますよね。
けど、それなら、なんで近世幕藩体制のような、文書第一主義のようなシステムが始まり、維持されていくのかがよくわからないんですよね。
文字の読み書き程度ができれば、誰でもOKなシステムなんですかね?それもあって、武士の教養ってのがどのようなものか疑問になって聞いてみたんです。
どうも、ありがとうございます。

お礼日時:2005/08/22 22:29

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