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こんにちは。
お聞きしたいことがあります。

宮城に住んでいるのですが、
別学の学校が多いです。共学があまりありません。
なんで、共学にならなかったのでしょうか?

素朴な疑問です^^;
ご存じの方、
よろしくお願いいたします。

A 回答 (4件)

宮城、特に仙台の共学化を難しくしているのは「校名問題」と思います。

男女とも一、二、三ありますからね。例えば「宮城第一女子」を単純に「宮城第一」とできない事情があるのではないでしょうか?
(仙台一高のOBあたりから・・・)

それと男子高の共学化は比較的スムースに行きますが、女子高の共学化はエネルギーがいるようです。熊本の県立第一は共学校(募集段階では)なんですが、志願者はここ四十年女子ばかり、事実上の女子高です。戦後の一時期、小学区制を敷いていた頃は(熊本市西南部は第一しか受験できない)男子生徒もいたようです。中学区制に移行してからは男子が減り続け、女子高化したようです。
逆にかつて男子高だった済々黌(くりーむしちゅーご両人の母校)、熊本高(県下No.1の進学校、毎年二桁の東大生、五十人の国立大医学部生を送り出す)は、年々女子の比率が高まり、熊本高の今年の一年生は女子が過半数を占めたとか。
私立だと部活動に力をいれて、知名度を上げて男子を集めるという手法がとれます。愛媛の済美、金沢の遊学館あたりは甲子園でも有名になりましたよね。
公立だとそうはいかず、仮にスポーツ推薦等(例えば宮城第一は野球、第二はサッカー、第三はバスケットボールの強化指定)を取り入れても、宮城には東北&仙台育英という強豪校があり、育成も難しいでしょうね。
私立だと成功例が幾つか。金沢の遊学館、愛媛の済美は有名になりましたよね。

少なからず影響を持つのが卒業生組織です。それが強いところは「改革」が進んでいないようですね。
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教育学部卒の者です。

No.2の方の回答と似ているのですが、私が読んだ話です。

戦後の連合軍による日本占領では、東京にGHQ(司令部)がありました。
そして日本の各地方ごとに、米軍の各師団などが置かれ、実際の占領行政を担うことになりました。

大まかな「男女共学」という方針が、GHQから出されましたが、保守的な日本の学校関係者は、そんなことはしたくありません。各県で男女共学を骨抜きにしようとします。

この時、占領当局の姿勢が、各地方当局ごとにかなり異なったようです。

○ 近畿地方を担当した占領当局者は、リベラル、フェミニストで、日本側の希望を聞かなかった。旧制の中学校(男子校)と高等女学校(女子校)の生徒を、半分ずつ交換して完全共学にさせるような急進改革を。

○ 東京を担当した占領当局者も、それに次いでいて、新制高校の生徒募集では、男女枠の定員を設けて、実質的な共学校になるような改革を。

○ どこかの地方の占領当局者は、あまり熱心でなく、共学校にはするけれども、男女別定員は設けない。これでは今までの男子校には男子ばかり、女子校には女子ばかりが入学してしまう。

○ そして、北関東、東北を担当した占領当局者は、最も保守的、あるいは日本側の要望を聞き届けてしまった。新設される高校は共学にするけれども、今までの学校は別学のままで残したい、という日本側の希望をかなり通してしまった。

このため、北関東から東北にかけて、男女別学の公立高校が多い、という事情のようです。(ちなみに北海道は共学)

2000年頃に、県立の名門校が男女別学なのは、以下の県です。
埼玉、群馬、栃木、福島、宮城
(山形も1960年代?くらいまで別学だったようです)
(少なくとも埼玉、福島では共学化が進んでいます)


宮城県立でも、確か小牛田の学校で、旧制中学と旧制高等女学校を統合して新制高校にした例があるはずです。

しかし、いわゆる県立の名門校は、占領当局のお目こぼしで男女別学を守ることができ、その後は卒業生からの圧力などで、なかなか共学化できなかった、ということだと思います。
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No.2ですが、補足です。


共学化を実施するに当たって、すべての府県ではないかもしれませんが、それぞれの地区の旧制中学校と旧制女学校の間で在校生を半分ずつ分け合うということになったのですが、誰があちら側へ行くかといくかということで難航し、結局くじ引きで決めたところが多いようです。当たった生徒達は喜んで向こうへ行く者、泣きの涙で行く者、色々悲喜劇があったと聞いています。
校舎施設はトイレ問題だけでも大変だったらしいですよ。
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公立高校の共学化に関して昔聞いた話なんですが、


敗戦後、GHQの推し進める教育改革により、六三制という新しい学校制度の導入と公立学校の共学化が実施されました。
共学化については施設整備の関係もあり、西日本から始め、順次東日本へと実施されることになりました。中部、関東を過ぎたあたりで講和条約の発効となり、GHQ教育局が撤退してしまうと共学化の波は次第に沈静化してきて、その結果東日本に昔の公立女学校→公立女子高校という形で残ってしまうということになったそうです。

現在西日本では普通高校で県(府)立女子高校というのは殆ど見られないと思います。

なお中学校は全くの新設ですし、小学校はもともと同一学校内での別クラス編成という形でしたから、共学化には何の支障もなかったと思われます。
また私学に関してはすべて各校の自主性に任せられました。
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