先日、図書館から借りてきた小悦の中に、

『さすがはロシア貴族だけあって、貴族の中で公用語となっているフランス語の発音は完璧だった』

 という記述を見つけました。

 ロシア貴族がフランス語を半ば公用語としていたのは前から知っていましたから、普通に読み飛ばしかけたのですが、ふと何故フランス語名のだろう、という疑問が湧いてきました。
 自分の稚拙な知識の中では、ロシアとフランスの関係など、ナポレオンが攻め入ったぐらいしかなく、その理由がまったくわかりません。
 きちんと自国の言葉もあり、負けてその国の属国となったわけでもないのに、攻め入ってきた国の言葉など使いたがるものなのでしょうか(もっとも、その前からなのかもしれませんが)。

 一応調べてみましたが、そのことについて書いてある本でも、ただフランス語を使用していたという事実のみの記述で、どういった経緯で、いつ頃から、ということについて書いた資料はありませんでした。

 そこで質問です。なぜ、ロシア貴族はいつ頃から、いかなる理由でフランス語を使うようになったのか?
 素朴な疑問なので急いではいませんが、詳しい人がいたら教えてください。
 

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (2件)

帝政ロシアでフランス語が宮廷語とされたのは、ピュートル大帝(1689即位)の西欧化政策以来のことです。


当時のロシアは「文明から外れた野蛮な国」であり、たかだか「新興国」に過ぎません。それに対しフランスは「ヨーロッパ文明の中心」であり、「ヨーロッパ最強国」だったのです。
いわば、日本の文明開化に相当する行為として、「ヨーロッパ」の文物を取り入れていたのです。

ところで、18世紀はちょうどターニングポイントです。
18世紀までのフランスは先述のようにヨーロッパ最強国であり、ヨーロッパ外交の公用語はフランス語でしたし、ロシアに限らずヨーロッパ各国の貴族にとってフランス語はひとつの教養でした。それがこの世紀の、第二次英仏百年戦争の敗北、フランス革命による疲弊と、19世紀にはイギリスにその地位を奪われていくのです。
一方のロシアは、18世紀初頭の北方戦争で当時の大国スウェーデンに勝利し、ようやく北方の覇者として名乗りをあげたばかりです。そして18世紀のヨーロッパの勢力均衡をめぐる戦争に介入することにより、この世紀にようやく列強としての地位を固めるのです。

なお、19世紀初頭のナポレオン戦争もこの関連で重要です。
というのも「国民国家」「国語」といったナショナリズムを定着させたのがナポレオン戦争だからです。それまでの伝統的なヨーロッパ貴族にとっては「フランス」とか「ロシア」という国家より「ハプスブルク」とか「ホーエンツォレルン」とかの一族のほうが重要だったのです。したがって、他国の言語を受け入れることにはそれほど抵抗はなかったのです。
トルストイの「戦争と平和」でも、ナポレオン戦争の中、実際よくフランス語で話しているロシア貴族たちが、国家というものを意識するようになるさまが描かれています。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

 分かりやすい回答で大変ありがたいです。
 ロシアに限らず、当時のヨーロッパではフランス語が現在の英語のような地位を得ていたわけだったんですか。
 いまでは、国際舞台ではフランス語はそれほど重要な言語じゃありませんから、ピンとは来ませんが、それも歴史の流れでしょうね。
 それから、当時はそれほど国家意識が無かったんですか。そういえば、似たようなことを聞いたことはありますが、すっかり忘れていてまったく結びつきませんでした。
 まだまだ自分も勉強が足りませんね。ありがとうございました。

お礼日時:2001/12/04 18:41

 


  詳細な経緯は知りませんが、間接的に、どうしてなのかという理由と、何時頃からというのは出てきます。一応、以下のURLのわたしのナポレオンとフランス文化についての文書を、参考として挙げますので、この回答を読んだ後、見に行ってください。
 
  まず、ロシアは、西欧の国ではないということが一つのポイントです。現在でもロシアと西欧のあいだには距離があり、欧米ロシアという風に並びます。西欧とは異なる文化あるいは異なる文明に属したのがロシアで、その結果、西欧と同じキリスト教文化国家であるとはいえ、ロシアのキリスト教は、15世紀、コンスタンティノープル(現イスタンブール)がイスラム勢力によって陥落し、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が滅びた時、ロシアの大帝イワン三世(この時は、事実上モスクワ大公)が東ローマ帝国の後継者を任じ、ビザンティン・ギリシア正教を受け継いで、ロシア正教の首都総大司教座をギリシア正教の総本山と名乗ったことより、ヴァティカン教皇庁を最高権威と認める西方キリスト教とは異なる東方キリスト教なのです。首都総大司教というのは、ローマ教皇の格が実はそうで、ロシアに、首都総大司教座があるということは、西欧の国々とは異なり、ヴァティカンの宗教的支配を受けないということなのです。
 
  また西欧は、イスラム勢力とのあいだに緊張関係を持ち、イスラムの脅威のもと存在していたのですが、ロシアは、イスラムよりもタタール人(モンゴルの末裔)勢力に長いあいだ蹂躙され続け、15世紀にようやく、モスクワ大公国が自立するのですが、なお、タタールの侵攻をしばしば受けて、強大な支配者の権力を必要とし、16世紀半ばから後半にかけての雷帝イワン四世がタタールを粉砕し、国内を恐怖政治で統制し、スラヴ諸国・諸領域を統合し、ハンザ同盟に対抗して北海へと開く領土を求め、こうしてロシア帝国を築いたのです。
 
  イワン四世の治世においては、ロシアの貴族は、皇帝権力に反抗する力を持った、スラヴの大領主たちでありイワンは、これら反抗する大領主貴族を粛正して、帝国の基盤を築きます。イワン四世は、何人虐殺したのか、数が知れないといえるほどの貴族や人民を殺しました。独裁権力の大虐殺による強権支配で、ロシア帝国の基盤が固まったのです。これが16世紀後半です。
  
  西欧では、16世紀は、イスラム勢力を遂に打破した世紀で、中世は終わり、近世国家が築かれ、ドイツはなお領邦国家乱立状態であっても、スペイン、ポルトガルが、大航海時代をイタリア人の地中海貿易に続いて切り開き、新大陸貿易から、インド、中国を初めとする、東アジア貿易を開始した世紀です(前世紀からの継続で、ますます活発になったと言うことです)。また、フランス、イングランド、オランダが、新しい世界貿易に加わる西欧の強国として擡頭した時代です。これらのなかで、フランスが、優雅で格調高い宮廷文化と貴族サロン文化を築くことになるのは、参照文書でも述べています。
  
  15世紀までの中世西欧では、西欧世界の教養語・共通語は、ラテン語でした。西欧中世の知識人の条件はラテン語が理解できることであり、ルターが聖書のドイツ語全訳版を翻訳作成するまでは、西欧の聖書は、ラテン語の「ヴルガタ聖書」であり、聖書が読めるということは、ラテン語ができたということに他ありません。また、ラテン語ができる者にしか、聖書を読むことはできなかったのです。
  
  しかし、西欧世界の共通語・教養語であったラテン語は、16世紀の宗教改革の躍動もあいまって、共通語としての地位を次第に失って行きます。17世紀半ばのオランダ生まれの哲学者スピノーザは、主著『エティカ』をラテン語で書きましたが、同じ頃のスピノーザのライヴァルとも言える、フランスの哲学者ルネ・デカルトは、その『方法序説』をフランス語とラテン語の二つの言語で書きました。一般に、この書物は、フランス語版で知られますが、有名な Cogito ergo sum. というのは、ラテン語で、ラテン語版に記されているもののはずです。デカルトは最初フランス語で書き、その後、共通語論文として、ラテン語版を書いたのだと記憶していますが、いずれにせよ、学術論文はラテン語で、という知識人の一般常識は崩れて来ており、自国語で学術論文を書く知識人もかなり増えて来たのです。
  
  ロシアでは、雷帝イワンの死後、後継者をめぐり内乱が起こりますが、結果的に、ロマノフ王朝という家系が皇帝家として成立します。ロマノフ朝のロシア帝国では、貴族は皇帝に臣従するもので、皇帝権力に反抗するだけの力を持った大領主貴族は、もはや存在しなくなりました。こうして、ロシアにおいても「宮廷貴族」というものが成立し始めます。それはまた、「宮廷文化・宮廷社交界」がようやく成立する出発点でもあるのです。
  
  ロシアはしかし、大量の農奴を支配する領主貴族と独裁皇帝の支配する帝国で、封建制の古い段階にあり、農業国としても遅れていたということは事実です。ロシアの寒冷の地では、豊饒な土壌があっても、豊かな収穫はなかなかに困難であり、色々な意味で、先進技術の導入が必要とされたのです。それは、国家統治の技術から始まり、軍備や軍制度、軍事技術、そして農業技術、通商技術、海運・造船技術、一般的な冶金や建築、道具製造の技術なども必要とされたのです。
  
  ロシアのこの後進性を痛感していたのが、17世紀から18世紀にかけての大帝ピョートル一世で、彼は、皇帝となってからも、西欧に実学の修得にでかけ、みずから製造工場や造船所に行き、西欧の進んだ技術を習得し、ロシアに導入すると共に、ロシアの文化を後進や野蛮から西欧風に高めようと、西欧の宮廷の慣習を、ロシア宮廷に導入します。おそらく、というか、記憶では、この時、西欧式の宮廷マナーや儀礼がロシアに入って来たのであり、フランス語が、宮廷人の話す言葉として、導入されたのでしょう。
  
  フランスで革命が勃発した時、ロシアの支配者は、すでに年老いた啓蒙君主イェカテリーナ二世女帝でしたが、彼女は、ドイツの小国の公女から、ロシア皇太子に嫁ぎ、母国語はドイツ語で、ロシア語は、後に習得した言語です。イェカテリーナが、ロシア皇太子妃としてロシア宮廷に入った時、彼女は、フランス語で会話したのだとも思えます。ドイツの領邦国家の公女として、フランス語とラテン語が、おそらく子供の頃からの基本教養として学んでいたと言えるからです。彼女は、18世紀半ば、皇帝となった夫と戦い、夫を追放して、ロシア女帝の地位に就きますが、この時には、ロシア宮廷、そしてロシア上流貴族のあいだでは、フランス語を習得することが、基本教養となっており、貴族の子弟は、子供時代からフランス語をフランス人家庭教師から学び、成人した頃には、流暢なフランス語が話せるようになっていたのでしょう。
  
  イェカテリーナの死の5年後、19世紀の最初の年にロシア皇帝になったのが、アレクサンドル一世で、ナポレオンの侵攻と対峙したのは彼であり、彼の治世に、ナポレオンのモスクワ遠征は起こり、レフ・トルストイの『戦争と平和』は、この時代を活写したものとも言えます。
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=177627
    • good
    • 2
この回答へのお礼

 大変詳しく説明いただき、ありがとうございます。質問のみならず、ロシアの歴史まで、簡潔に分かりやすいです。
 ロシア正教会は、普通のキリスト教会とは違うんですね。それまでは単にキリストの一宗派とばかり思ってたので驚きました。
 それにしても、ロシアもなかなか凄まじい歴史を刻んでいるのですね。それまではあまり興味がありませんでしたが、この回答をきっかけに興味が湧いてきました。

お礼日時:2001/12/04 18:48

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qフランスの貴族と王家

フランスの貴族と王家には、具体的にどんな違いがあるんでしょうか?(フランス革命のあった時期)
暮らしぶり、位の継承の仕方などに違いがあったのでしょうか。
第三身分と直に関わることもあったのでしょうか。

分かりにくい質問ですみません。

Aベストアンサー

王家も貴族の一種ですから、国王と王太子以外の王族は、ただの貴族と変わりません。
国王とその後継者である王太子は、重要な役職であり特別な地位であると言えると思います。

(革命前の)フランスは、国王の親政が基本という国家ですから、国王は絶対君主としてあらゆる権限を有しました。王太子は場合によってはその権限を代行する摂政になることができたわけです。(王妃の摂政権限は革命の途中で破棄された)

貴族は、封建領主としての経営者としての立場と、宮廷貴族として俸給・年金に依存する官僚としての立場、あるいは軍人としての立場などに分かれます。
たいがいの貴族は、土地を持っており、直接に耕作はしないまでも何らかの形で農業に携わるかその収益を得ています。フランスには革命までは封建制度が残っていたので、貴族の領地は、国内国のような独自の存在であり、裁判権などの諸権利や、領主税をとっていました。よって王領よりも、貴族領の農民の方が税が重かったりしたので、革命が起こるとすぐに、封建的特権の廃止をもとめた大規模な一揆(大恐怖)が起こるわけです。
官僚としての貴族の中には買官制度で役職を買い取ったブルジョワも含まれますが、様々な権益のからむ役職を世襲的に相続するものもおり、膨らむ年金額は王室の財政を悪化させた原因の一つです。しかし一方で官僚が国家を動かすわけですから、必要でもあるわけです。
軍人としての貴族は、特に士官以上は貴族で固められたこともあって、主要な勤め先ですが、特に上級の役職が固定的に世襲されて、実務には当たらないということが(他国も同様)行われていて、忠誠心という意味では一定の貢献はありますが、軍の質の向上にはあまり貢献しませんでした。しかし時代を経れば経るほど貴族の子弟は増えるわけですから、軍は中流以下の貴族の就職先として必要なポストだったといえます。ほとんどの貴族は軍籍に入るのが一般的でした。

暮らしぶりですが、貴族と一言でいっても、経済状態は様々で、農民のような暮らしをしている人もいれば、豪勢な暮らしをしている人もいます。オルレアン家、エギヨン家、タレーラン家などは、国王に匹敵する財力や土地をもっていたことで知られますが、全体から見れば裕福な貴族は一握りで、ほとんどの貴族は官僚や軍人であるので、いわばサラリーマンであったといえます。

爵位の継承は、世襲制ですから、親から子に引き継がれます。管理する役所があ、届け出ることになりますが、血縁以外に引き継ぐなど特別な場合以外は普通に承諾されます。爵位は私有財産であり、役所が管理するのは詐称などを防ぎ、記録して留めるためです。

役職のなかには世襲的に引き継がれるものがありましたが、これは制度ではなく、縁故によって任命されるものであるため、日頃の付き合いなどからくるものです。

国王の継承は、古くからの継承法が決まっており、フランス王には男子限定で、年長順ということになります。女性には継承権は完全になく、女性の配偶者も同様です。

平民のなかにも、一代貴族になるものは大勢おり、貴族と平民との垣根はそれほど高くはありません。また上流貴族と下級貴族では、さっき言ったように生活水準もスタイルも大きく異なるため、一概には言えません。この時代の礼儀としては、知り合いが知り合いを紹介するという、知遇を得ていくという社交スタイルのため、誰か上流社交界の一人と知り合いになれれば、そこからさらに多くの知り合いができます。使用人以外でも、多くの平民が貴族との交流をもっていて、特に禁止されているわけではないです。例えば、ジャック・ネッケルなんかは貴族でもなんでもない、ただのスイス人です。彼のような人が(財務総監にはなれなかったが)財務長官になれるわけですから、平民でも特に問題はないのです。

王家も貴族の一種ですから、国王と王太子以外の王族は、ただの貴族と変わりません。
国王とその後継者である王太子は、重要な役職であり特別な地位であると言えると思います。

(革命前の)フランスは、国王の親政が基本という国家ですから、国王は絶対君主としてあらゆる権限を有しました。王太子は場合によってはその権限を代行する摂政になることができたわけです。(王妃の摂政権限は革命の途中で破棄された)

貴族は、封建領主としての経営者としての立場と、宮廷貴族として俸給・年金に依存する官僚として...続きを読む

Q18~19世紀のロシア貴族の研究をしようと思っています。

18~19世紀のロシア貴族の研究をしようと思っています。
説論ではなく、学年論文を書きたいと思っています。
教授にもいろいろ聞くつもりですが、
自分でもリサーチしたいと思い、ここで質問させていただくことにしました。

ロシア史の専門家やロシアの歴史に精通している方々、
なにか良い文献はないでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

とりあえず何を知りたいのか明確にすることが重要ではないでしょうか?
18~19世紀のロシア貴族の何を知りたいのですか?
なんでそれを研究しようとするのか、それでなにが明らかになるのか、
問題意識を明確にしないと、ロシア貴族について調べました→終了と
ただのレポートになってしまいますよ。

とりあえず通史なり概説を読んで問題意識を掘り下げた方がいいんじゃないですか?
あとは「史学雑誌」の回顧と展望を読んで、現在のロシア史のトピックスなりを
把握することから始めることをお勧めします。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E5%8F%B2-%E6%96%B0%E7%89%88-%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%90%84%E5%9B%BD%E5%

Qフランス貴族の「ド」と爵位

フランス貴族は「○△・ド・◆×」(適当ですみません)といった名称(というのでしょうか)になると思うのですが、実際、この「ド」とはどういった人たちにつけられるものなのでしょうか。
またそれは爵位などと関係しているのでしょうか。
そして「ド」の前後(上記でいう「○△」「◆×」にあたる部分)はどういった意味合いなのでしょうか。
名前と苗字かと思ったのですがどうやら違うようなことを耳にいたしましたので・・・

質問ばかりで申し訳無いのですが、一つでも構いませんので、お暇なときにご回答頂ければと思います。

Aベストアンサー

ド(de)はフランス語の前置詞/冠詞です。
ごくごく普通の単語で、英語のofに相当します。
全く特別なものではないので、
どういうった人につくか、ではなくて
どういったことが名前に表現されているかに依存します。

貴族の爵位を表すという用法は、
前置詞の起源・原因・手段・様態などを表す意味のときで、
duc de DD/duke of DD、つまりDD公爵となります。
フランス語の場合 de の後にh や母音がくると、
それが縮まるので、duc de AAや duc de HAU なら
duc d'AA や duc d'HAU となります。
つまりドと単独ではなく、ダ、デなど次の母音と重なってきます。
ジャンヌ・ダルクのd'Arc が有名でしょうね。

さてドがつく場合には爵位以外にも前置詞の限定の意味でつく場合があります。
つまり同姓の人がいた場合、地名などをつけて、どこどこのと限定するわけです。
日本の姓でも、住んでいた地名が姓となって例が多数ありますが、
これもそれと同じで、次第にド・なんとかのところが姓として
使われるようになります。
そういう場合、ドと次を合わせて丸ごとで姓となります。
さらにかつては貴族だった人がその後そののまま姓として用いている場合もあり、
はっきりいうと、ドがついているから貴族だとは全くいえません。
C. A. De Gaulle ドゴールなんかはドをもう単独では考えず
ゴールさんとはいわないわけです。

しかしなかには何個もdeがつく長い名前があります。
その場合、たいていは複数の爵位や、母方父方両方の姓を名乗っているなどです。
ま、簡単に考えれば、de 以後が姓で、前が名ということはいえるのですが、
貴族云々は名前だけではわからないのところで、
騎士クラスからドをつけていたので、非常に多くの人間がつけたり、
過去つけていたりするので、特にドは貴重でもなんでもなく
やっぱりだたの前置詞と考えるのが妥当です。
ま、名前に前置詞がつくのが奇異に思うかもしれませんが、
タイラノマサカドとか、日本でも昔はついていたんですよ。

ド(de)はフランス語の前置詞/冠詞です。
ごくごく普通の単語で、英語のofに相当します。
全く特別なものではないので、
どういうった人につくか、ではなくて
どういったことが名前に表現されているかに依存します。

貴族の爵位を表すという用法は、
前置詞の起源・原因・手段・様態などを表す意味のときで、
duc de DD/duke of DD、つまりDD公爵となります。
フランス語の場合 de の後にh や母音がくると、
それが縮まるので、duc de AAや duc de HAU なら
duc d'AA や duc d'HAU となります。
...続きを読む

Q★フランス貴族についての質問★

 こ ん に ち は 。
 フ ラ ン ス 貴 族 に つ い て の 質 問 で す 。

 【(1)】貴族、公爵・伯爵・男爵など、5爵の人達は、政治などをしていると習いましたが、その他に何をしているのでしょうか?

 【(2)】また、貴族の子供たちは何をしているのですか?小学校~大学まであるのですか?

 教えてください!!

Aベストアンサー

1、まず爵位と官職とは全く別です。
爵位は個人の所有財産ですが、官職は国家のポスト(地位)です。
爵位があっても、政治的役割を担えるわけではありません。

また「5爵」というような言い方はフランスではしませんというか、
五爵は明治日本の華族令にもとづくもので、他にはありません。
ヨーロッパの場合、五つでもなく、また一般に誤解しやすいですが
爵位は段階になっているわけでもありません。
帝政時代などに特定の条件で与えらた伯爵・男爵位、子爵などを除いて、
基本的にはそれぞれのタイトルはそれぞれ独自の歴史と起源を持つものです。

貴族で、裕福か生活の糧を別に持っているならば、
何の官職についてなくても不思議ではありませんし、珍しくも在りません。
貴族にとって、官職はそもそも収入をえるためのものであり、
軍人であれ、徴税官であれ、同じです。
高位高官は協力なコネと帯剣貴族など身分的上位者に限られたので、
大多数を占める下級貴族は主に軍人やローカルな官僚を目指し、
士官学校や法律を学ぶために大学にいきました。
フランスには三部会が一応の議会制度でしたが、長く開かれなかったので、
貴族といえども政治参加の機会はほとんどありませんでした。
そもそも絶対王政の時代には、すべての政治的権限は国王のみが握っていたのですから。
高等法院で法曹家となった貴族たちがほそぼそと王権に抵抗してたくらい。
大貴族は王家に取って代わりうるために警戒されて政治から遠ざけられました。
国王の新任を受け、官僚として、政治の主要な役割を果たした人々は、
どれも英才ならが比較的下級の貴族でした。ネッケルなどは外国人でもありました。
リシュリューなどは例外といえます。
「貴族、公爵・伯爵・男爵など、5爵の人達は、政治などをしている」
というのが間違いで、
実際には「その他」の人々が行政(政治)を取り仕切っていました。


2、貴族の子弟は、地方ならば家庭教師、
都市の近くならば幼年学校を経て、コレージュに入学し、
さらに進むならば大学に入ります。(大学院もある)
基本的に学問は一般教養(ラテン語や母国語、作法)のほかには、
神学と法律学が主なもので、勉学を続ける人の大半は、
弁護士/検事か、司祭になりました。
科学分野の大学は(フランスには)パリに一つあっただけで、
非常に狭き門です。
長らく秀才のみが入学を許されました。
ただ貴族の学業は、主に貴族としての社交と教養・礼儀を身につけるためのもので
今とはかなり違います。
しかし全般的に貴族の就学率は高く、学ぶ内容は違えど、
現代の我々とあまりかわらないといえるでしょう。

ただ企業なるものは存在しませんから、何らかの官職に就くか
軍籍に入るか、あるいは事業を始めるかしないとそれから先がないのは
少し今とは違います。国家は最大の就職先で、貴族は
王政を支える”枝”として優遇されていました。

ちなみに女性の場合も、太陽王の後妻マントノン夫人が創設した
サン=シール学院がありました。これは現代なら女子大に相当します。
ただ大半の貴族の子女は、修道院などに入って学び、
卒業と同時に婚約するのが一般的でした。

1、まず爵位と官職とは全く別です。
爵位は個人の所有財産ですが、官職は国家のポスト(地位)です。
爵位があっても、政治的役割を担えるわけではありません。

また「5爵」というような言い方はフランスではしませんというか、
五爵は明治日本の華族令にもとづくもので、他にはありません。
ヨーロッパの場合、五つでもなく、また一般に誤解しやすいですが
爵位は段階になっているわけでもありません。
帝政時代などに特定の条件で与えらた伯爵・男爵位、子爵などを除いて、
基本的にはそれぞれのタ...続きを読む

Q英国貴族と日本の貴族の相違

英国の貴族は広大な領地、邸宅、美術品の収集など莫大な財産を所有している人が多く、肖像画を見ても一軍の将となっている事が伺えます。

これに比し日本の貴族は財産も規模が小さく、肖像画も少なく、武将としては南北朝時代に名を見る位です。
国力の差以外に歴史的な履歴の差を感じます。
このような差はなぜ起こったのでしょう。

Aベストアンサー

日本の貴族とは明治の華族のことでしょうか。
明治に家族になったのは旧公家、旧大名で家柄でなっただけでその人たちが業績を上げたわけではなく、特に公家華族はもともとが最高の近衛家でさえ3000石足らずだったので美術品等はともかく領地とかはありませんでした。
旧大名の場合は領地は版籍奉還で朝廷に返しましたからなくなりましたが、それでも大大名であった家ではかなりの土地などをもっていました。また美術品等も持っていました。
しかし、これらの土地も戦後の農地改革で取り上げられ、また相続税対策もあって財団法人等を作ってそこに寄贈してしまったところが多くて個人的には財産はあまりなくなりました。

これに対してイギリス貴族は、古くは功績で広い領地をもらったり、広い土地をもっているからと貴族に叙任されたりしたのでむかしは多くの所領をもっていました。しかし近年になると貴族になっても広い所領はもらえず、相続税等で没落してしまった家もあります。ただ、そういうことをうまくやってきた家は、一律土地を取り上げられたりしたことはなかったのでまだ広い所領を持っている貴族もあります。

また一軍の将になっている貴族が多いのは、イギリスの場合は貴族の義務として「国のために尽くす」ことが当然であり、戦争でもあれば貴族は率先して軍人となって戦争に出て行きました。そのため一軍の将となった人も多いわけです。(というか、貴族でなければ将校になるのも難しい。)
それに対して日本は軍人は、士官学校・兵学校にはいらなければなれませんでしたし、特に華族に優遇があったわけではなく甘やかされて育った華族では軍人にもなりたがらなかったという点もあってなかなか一軍の将になるのは難しかったのかもしれません。
ただ、戦争で功績を挙げた軍人も華族に叙任されることが多く(例:東郷平八郎が侯爵に)華族に将になった人が少ないとはいえないかもしれません。

日本の貴族とは明治の華族のことでしょうか。
明治に家族になったのは旧公家、旧大名で家柄でなっただけでその人たちが業績を上げたわけではなく、特に公家華族はもともとが最高の近衛家でさえ3000石足らずだったので美術品等はともかく領地とかはありませんでした。
旧大名の場合は領地は版籍奉還で朝廷に返しましたからなくなりましたが、それでも大大名であった家ではかなりの土地などをもっていました。また美術品等も持っていました。
しかし、これらの土地も戦後の農地改革で取り上げられ、また相続...続きを読む


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング

おすすめ情報