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明治、大正期に多くの移民が生じた背景として、ある本には

「急激な近代化による土地制度の改革や商品経済は、
封建的な農業形態を破壊し、余剰農民を生み出した」

と書いてあります。

もう少し噛み砕いて説明していただけませんか。

よろしくお願いいたします。

A 回答 (8件)

江戸期は当然、収穫がゼロだったら、年貢収入もゼロなので、


年貢を徴収する側も農民が死んだり逃げるような簒奪はしません。
つまり、まず米の収穫ありきが全ての前提なわけです。
地租改正後は土地に対して貨幣による納税を所有者に課したわけで、
米の収穫の有る無しは前提から取っ払われてしまっているのです。

>一般的にいって地租改正後の農民の方が、
>江戸期よりも苦しくなったのですか。

小作農の多くは、借金によって田んぼを失い、
あらたな土地所有者に金で雇われた農民です。
当然彼ら小作農の賃金は安く、労働は過酷でした。

おそらく農民は明治になった当初、
「四民平等」「農地解放」をかなり喜んだでしょう。
だって偉そうにしてた武士と自分たちが平等になったんですから。
しかしフタをあけてみると全然違ったわけです。

「農民→武士→商人」であった米の流通が、
「農民→商人」に変わってしまった。

これの意味することは言わなくとも想像でわかると思います。

たぶん、農民として生きるなら江戸期のほうが楽でしょう。
ただし凶作がつづけば餓死するしかないですが・・・。
その点明治期は凶作で餓死する前に農民やめれますけど・・・。

ま、今の時代の人間からすれば、
「過酷な小作農なんてやめりゃいいのに」って思うでしょうが、
村から殆ど出たこともない先祖代々の農民ですからね・・・
そう簡単に考え方を変えるわけには人間行きません。
武士が刀をなかなか捨てられなかったのと同じです。
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一般に「移民」という概念は「出身国での生活を清算し、家族を伴って外国に移住して、そこに永住しようとするもの」を指すと思われます。



明治期の移民は、多くは独身男性による「出稼ぎ」です。所得水準の低い日本から、所得水準の高いアメリカに渡り、ドルを稼いで日本に持ち帰ろうとするものです。バブル期の日本に多数やってきて3K労働に従事していたアジア人を想像して下さい。ああいった人たちは、通常「移民」とは呼ばれません。

あるいは、当時は世界中のあらゆる場所にいたとされる日本人売春婦(からゆきさん)です。

こうした出稼ぎは、「移民圧力」というより「海外に出て一攫千金」という理由によるものと考えるべきです。実際、当時の日本とアメリカの所得格差は大きかったので、うまく行けば出稼ぎ者は大金を日本に持ち帰ることができました。成功した人はあまりいないと思いますが...

中南米や満州への家族移民が盛んに行われるようになったのは、大正から昭和にかけてのことです。これについては、No5で解説しました。質問者様が「明治時代から家族移民が盛んに行われた」と認識しておられるのなら、それは違うように思います。

「江戸期は人口はあまり増えていないのですか。どうして明治になって急増したのでしょうか」

日本史再発見―理系の視点から
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022595 …

で詳述されています。本の半分を要するくらいに深いテーマで、ここでは書ききれません。一つ言えることは「江戸時代の後期には、日本の人口は当時の産業構造で養える限界に達して飽和していた。気温低下による自然条件の悪化等によりむしろ減少していた。明治になり、産業革命によって人口が急増した」ということです。

どの国でも、人口は経済成長が伴わなければ普通は増加しません。稀に、「アフリカの人口爆発」や「文革期中国の人口爆発」のような、経済成長を伴わない人口増加が人為的に起きる場合もありますが、それは例外です。

ただ、マルサスの人口論の通り、人口が急増する時期には、経済成長を超えて人口が増加する現象が多く起きます。大正・昭和の日本はその一例といえます。
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余剰農民ということだけにしぼって言うと・・・


まず維新後の地租改正により税が米から貨幣に変わったことが根本に有ります。同時に土地(農地)の売買、貸借も認められたのですが、結果これらは明治大正期を通じて貧富の差の拡大につながっていく。
農民は米の出来不出来に係わらず毎年定率の固定資産税を貨幣で納めることになったわけですが、不作が続くと農地を担保にお金を借りてでも納税せざる負えず、それは農地を手放すことにつながり、結果、大地主と小作農という特徴的な関係が成立していくわけですが、この貧富のさこそ商品経済であるといっていいでしょう。多くの農民が小作農に転落したと当時の資料にもはっきりと書いてます。

明治大正期というのはわずか60年で、この短い期間に起こった急激な変化こそ近代化です。
土地を失った農民(小作農)が、日本で他の手段で生計をたてることより、外国へ移民してでも農業での生計に希望を求めたということについて、今となっては感情移入することさえ容易なことではないと感じます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。よくわかりました。
一般的にいって地租改正後の農民の方が、江戸期よりも苦しくなったのですか。

お礼日時:2005/12/11 13:43

移民が生じた原因は、各時代において「日本の生産力に比して日本の人口が多すぎたから」です。

なお、これが最も深刻であったのは、昭和20年から30年頃の時期、次いで昭和戦前期であり、明治や大正ではありません。

日本の人口は、明治維新の頃の約3千万が、昭和の初めには2倍の約6千万に増えました。敗戦によって外地から日本人が引揚げてきた段階では、さらに増えて約8千万になっていました。高度成長期にさらに人口が増えて1億人を突破し、現在の1億2千万でピークに達したとされています。

戦前の日本で国外への移民圧力が生じたのは、

* 人口が倍増したが、耕地面積はほとんど増えていない。農業技術の向上による収穫増大を考えても、2倍の人口を農業だけでは養えない。

* 農村の余剰人口は、都会に流出して労働者になった。しかし、第一次大戦後の長期不況(欧米では好況でしたが、日本は長期不況に悩んでいたようです。その後、アメリカの大恐慌に端を発する世界不況で、日本の不況が深刻化しました)で、労働力の余剰感が強まった。

* 結果、農村・都市の双方で、大衆の生活水準の伸び悩み・低下が見られた。

といったことによるものです。典型例が、飢餓線に近い低生活水準であった東北の農村の惨状です。この時期、冷害による不作が続いたことも悲惨さを拡大しました。

海外への移民募集は「地主になれる」「金を貯めて故郷に錦を飾れる」ことを謳ったものが多かったようです。実際は、宣伝と実態が大きく違うものが多かったようですが。移民先は、
ハワイ->アメリカ本土->中南米->満州
と推移していきました。なお、日本の「植民地」とされる朝鮮への農業移民は行われませんでした。最後の満州移民が一番成功したといえますが、日本の敗戦と共に凄惨な終末を迎えました。満州の開拓団員の被った悲惨は、日本史上空前絶後のものです。

戦後は、日本の国富が大きく損なわれたこと、海外からの引揚者(一文無しで帰ってきた人が多い)が戻ってきたことにより、高度成長が始まるまでは、人口問題の解決は戦前以上に重要視されました。

既に大陸への移民は不可能でしたので、ブラジルのアマゾン流域、パラグアイ、ボリビア、ドミニカなど、「誰も移民しようとしない最貧国・地域」の移民が行われました。当時、カンボジアやラオスに移民を送り込もうという計画すらあったそうです。「日本人を受け入れる地域なら、どこにでも日本人を送る」政策が取られていました。

下記の本に、外務省の無責任な移民政策、その犠牲になった日本人のことが詳述されています。

外務省が消した日本人 南米移民の半世紀
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30869284

なお、1960年前後に、北朝鮮に約10万人の在日朝鮮人とその家族が渡りました。これも移民の一種です。

* 在日朝鮮人は、一般に当時の一般日本人よりさらに低い生活水準にあった。

* 北朝鮮は、朝鮮戦争によって若年男子が大量に死亡し、労働力不足に悩んでいた。在日朝鮮人を労働力として必要としていた。

という理由がありました。北朝鮮に渡った在日朝鮮人は、本人の希望や事前の宣伝とは無関係に、農村や鉱山に送られて重労働を課せられたそうです。
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この回答へのお礼

ご丁寧な解説、ありがとうございます。もしよろしかったら、もう少し教えていただけますか。
1)江戸期は人口はあまり増えていないのですか。どうして明治になって急増したのでしょうか。

2)明治期の農村に限っていえば、「人口は増えたが畑が増えるわけではなく、海外移住に活路を求めた」と考えていいのでしょうか。

3)ほかの回答者の方が書かれている「地租改正」「開国」などは、明治期の移民にどのような影響を与えたとお考えですか。

よろしくお願いいたします。

お礼日時:2005/12/11 13:35

No2です。



>結局鎖国が解かれたことが日本側の「最大要因」だったということでしょうか

原因はひとつではありません。日本が鎖国を解いても
他の国が日本より貧しく自国民で労働力が足りていればどこの国も移民を受け入れません。受け入れる国があっても日本の人口が少なく労働力が足りなければ誰も移民しないでしょう。現在の日本のように豊かになり労働力が不足していても移民を受け入れない国もあります。合衆国のように経済力があり、人口も多く、国内に貧困層が多くても毎年一定の移民を受け入れる国もあります。

「急激な近代化による土地制度の改革や商品経済は、
封建的な農業形態を破壊し、余剰農民を生み出した」
これだけ見れば反論したくなりますね。内容をよく読まなければ何故そう結論付けているのか分かりません。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
もちろん受け入れ側にさまざまな事情があったことはわかりますが、「日本側の(少なくとも初期の)最大要因は開国であった」というご意見として理解させていただきました。

お礼日時:2005/12/11 13:24

ひとことで言うと人口の増加に生産(特に食糧)の生産が追いつかなかったためです。


明治になって人口が急激に増加しますが、耕地は殆ど増えず人口過剰となりました。
政府はこの打開策として海外への移住を推進しました。ハワイに始まり、北米、南米などに移住範囲が広がりましたが、大正頃になると現地の人々と摩擦が激しくなります。北米では日本人は収容所に入れられ、海外移住は不可能になります。
そして戦前は満州国だけが日本移民を受け入れてくれる「国」となりました。
「墓標なき八万の死者」角田房子 中公文庫 を参照ください。この本は満蒙開拓団の戦後をルポしたものですが、移民の背景にも触れています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。「人口急増」が移民の最大要因と考えていいのでしょうか。

お礼日時:2005/12/09 10:21

移民は需要と供給の原則で動いています。



労働力不足(新興産業の出現、奴隷制廃止、ヨーロッパからの移民が3K労働を嫌ったため)の世界市場へ
明治維新により日本が新しい供給地として現れました。日本は江戸時代を通じて基本的にゼロ成長の国策
の国で跡取り息子以外には職がなく潜在失業者が多い国だったのです。しかし、鎖国時代は日本を出て職を
求めることが出来なかった。

明治新政府に対しては奴隷制度をいち早く廃止したブラジル、サトウキビ(精糖産業)栽培の盛んになった
ハワイ王国や南米ペルーから求人が舞い込みました。
こうして1885年 ハワイ、1897年メキシコ、1899年 ペルー、1908年ブラジルと続々と
契約移民(出稼ぎ)が送り出されました。現地では
募集要項と異なる厳しい労働が待ち受けていたため、近隣諸国へ逃げ出したり帰国した移民も出ています。

初期のブラジル移民についてはNHKから連続ドラマ
「ハルとナツ」が製作され今年二度にわたって放送されました。彼らの子孫(2-4世)が経済的に豊かになった日本へ逆に出稼ぎに来ています(ブラジルから25万人、ペルー、パラグアイ、アルゼンチンから合計5万人ぐらい)彼らの中には学卒者も多くコンピュータ技師など資格を持つ人も多いにもかかわらず3K
労働について金を本国に送っています。まさに100年余り前の日本人が同じことを考えて海外へ渡りながら夢を果たさず、帰国もママならず現地へ骨を埋めたことを思うと複雑な思いがします。

いつの日か再び日本から出稼ぎ(移民)が出る日がくるかも知れません。何故なら貧富の差が今のまま永遠に続くとは思えないからです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。結局鎖国が解かれたことが日本側の「最大要因」だったということでしょうか。

お礼日時:2005/12/09 10:19

それまでの農家の次男以下の男子は長男に飼い殺しにされ、労働力として働き食べさせてもらうだけの存在でした。



明治以降は学校教育の場もあり、人の移動が容易になったこともあって、こうした農家の次男以下の男子や女子は工場へ働きに出たりすることが多くなっていきます。

しかし価値観としては、自分の農地をもって自作農になる指向がまだ残っていたようで、海外へ開拓農民として志願する人が大勢いました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2005/12/09 10:17

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