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性欲や食欲と同様に自殺欲求もあるでしょうか?

私は自分を傷付けるような事をあえてしてしまう事があります。傷付けるといっても生命が危険になるような事ではないのですが、つまり、私が言いたいのは、人間には程度の差こそあれ誰にでも「自己破壊の欲求」とか「自虐欲求」とかいったものが有って、それが人間の役に立っているのではないか?という事です。

例えば、言葉遊びをするようですが、「自殺欲求」の反対語は「自己保存の欲求」であり、これは「利己主義」ではないでしょうか?利己主義だけで世の中がうまくいくとは思えません。

例えばソクラテスやイエス・キリストはある意味自殺者ではないでしょうか?もちろん彼らに自殺欲求が有ったからといって私が彼らと同じだと言っているのではありません。

私は自己保存の欲求を否定しているのではありません。程度の問題だという事です。自己保存の欲求が有り過ぎると利己主義になってしまいます。自己保存の欲求が有るのが自然であるように自己破壊の欲求が有るのも自然なのではないでしょうか?

私には自己破壊の欲求が有る、だからこの欲求を否定し無くさなければならないというのではなく、むしろ有るのが自然であり、有って良いのだ、有るほうが私自身や世の中の役にも立っているのだ。という事なのではないでしょうか?

A 回答 (5件)

誰でも自殺欲求なんて、ありません。


自殺を考える人は、たぶん自分の事しか考えられない人なのでしょう。

存在価値が無い、人に愛されていない、生活が苦しい、いろいろ有ると思いますが、同じ条件の人で生きている人は沢山います。

戦争孤児たちは一生懸命生き抜こうと頑張っています。
先進国に自殺者が多いのは(特に日本)生きている事それ自体に価値がある、と言う事がわかっていないからです。

子供が出来たとは言えるのは、母親の体調変化(約3ヶ月ごろまで分からない)でしかなく、卵子に精子が入った地点ではわからない。つまり人間の意思で子供が出来るのではなく、目に見えない存在の力で人は産まれている。(子供が欲しくても出来ない夫婦もいる)

あなたも、親が造ったのではなく、この世に必要だから出来て産まれたのです。

生あるもの全て必要だからこの世に存在するのです。

イエスキリストは自殺願望ではなく、その時代の人々が神の存在を信じていなかったので、神の存在を知らせるために、自己犠牲になったのだと思います。

自己犠牲になって人々に神の存在を教えて人々が幸せに暮らせるようにとの考えだったと思います。

人々の幸せを考えての自己犠牲と現状逃避の自殺とは全然意味合いが違います。

追伸、 無神論者と、堂々言えるのは日本国内だけです。無神論者は、海外では信用できない人扱いです。

村上和雄著書の「人生の暗号」を読めば「人間=生命」についての考えが変ると思います。

この回答への補足

私の身を案じて下さりありがとうございました。私の質問の表現が悪くて,思いのほか御心配をおかけした事をお詫びします。質問はカテゴリー違いだったかも知れません。

私の言おうとした事は,自分も無傷ではすまない事が分かっていながらやるスポーツ,例えばボクシングなどをする人は自傷,自虐の欲求が有るのではないかという事です。ボクシングを見て楽しむ人,共感する人にも同じ自傷,自虐の欲求が有ると思います。

人類が何万年も生きていく上で自傷,自虐の欲求は必要だったのではないでしょうか?自己保存の欲求ばかり強くて危険から逃げてばかりいては獲物は得られません。時には「虎穴に入らずんば虎児を得ず」といった勇気も必要でしょう。人間には自分の身を危険にさらした時に,快感を感じる本能が有ると思うのです。この本能を私は自殺欲求と言ったのですが,表現が悪かったようです。

私自身はボクシングなどしません。むしろ痛い競技は嫌いです。ただ,少し危険な状況には快感を感じます。病気なのでしょうか?今思えば,今まで生きて来られた事は幸運でした。この幸運を大事にしたいと思っております。

補足日時:2005/12/25 13:25
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この回答へのお礼

私の身を案じて下さりありがとうございました。私の質問の表現が悪くて,思いのほか御心配をおかけした事をお詫びします。質問はカテゴリー違いだったかも知れません。

私の言おうとした事は,自分も無傷ではすまない事が分かっていながらやるスポーツ,例えばボクシングなどをする人は自傷,自虐の欲求が有るのではないかという事です。ボクシングを見て楽しむ人,共感する人にも同じ自傷,自虐の欲求が有ると思います。

人類が何万年も生きていく上で自傷,自虐の欲求は必要だったのではないでしょうか?自己保存の欲求ばかり強くて危険から逃げてばかりいては獲物は得られません。時には「虎穴に入らずんば虎児を得ず」といった勇気も必要でしょう。人間には自分の身を危険にさらした時に,快感を感じる本能が有ると思うのです。この本能を私は自殺欲求と言ったのですが,表現が悪かったようです。

私自身はボクシングなどしません。むしろ痛い競技は嫌いです。ただ,少し危険な状況には快感を感じます。病気なのでしょうか?今思えば,今まで生きて来られた事は幸運でした。この幸運を大事にしたいと思っております。

お礼日時:2005/12/25 13:33

貴方もいろいろ考えているのですね。


自殺を考える人は、自己の存在価値、必要とされると思えなくなった人が多いのです。
自己保存ではなく、必然性です。

誰かに必要だと言われても、まだ自殺を考えられる方は、依存されすぎた方だけでしょう。

自傷の癖があるのなら、精神科に行ってください。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/12/26 09:33

う~ん。


回答になるかわかりませんが、経験談を。
私は高校1年頃から自殺願望があって、それは別に生きるのが辛いとかそういうわけじゃなくて、幸せでも自殺願望があったんですね。
それで私はそれが普通だと思ってたんです。
それで学校の作文で、私の気持ちをそのまま素直に書いたんです。
そしたら先生に呼び出されて、「何か悩みがあるのか?」とか心配されて、そこで初めて普通の人は自殺願望はないのか、とわかったんです。
それから周りをいろいろ見てみると、死ぬのが怖い、嫌だ、って思ってる人のほうが圧倒的に多いんだな、ってことがわかったんです。
だから、誰にでも自殺欲求はあるのか?と言えば、NOという回答になるのかなと思っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/12/26 09:35

 哲学の問題としてであれば、ここはカテゴリ違いです。


 あくまでもメンタルヘルスとして考えるのであれば・・・

 自殺欲求というものは、基本的にはない方が普通だと考えます。

 生きていくことは死ぬよりも過酷であるという考え方があります。
 困った状況に立たされて解決不能な問題に直面すれば、これはある意味事実ですから、逃避行動の衝動としてのみ、自殺欲求は自然発生すると考えます。

 謙虚さの究極の形態としての自殺欲求は、美しいものではありますが、あくまでも後天的要因によるものだと言えるでしょう。
 また、それによって、人間社会への貢献度を量るのは、一面的すぎるきらいがあるようにも思います。

 なお、いくら理屈で考えても、この自殺年慮を「否定」するのは、現実問題として困難ではありませんか? だからこそ、ここへいらしたのでは?
 経験者として申し上げれば、否定も肯定も、する必要はないと思いますよ。全ての事象に白黒をつけるなんて、できない相談です。
 どちらかにしなければならない・・・と葛藤することによって、ますます生きていくのがつらくなったりします。

 鬱病の兆候があるのであれば、パソコンの前でお一人で悩まず、精神神経科に受診なさることを推奨します。
 というのも、自殺年慮が脳障害の一種(鬱病など)によって発生している場合、理屈ではなく消えてしまいたくなるものだからです。

 風邪を引くとノドが痛くなるような感じで、鬱になると死にたくなったり自傷行動にでたりするのは、正常な反応です。なにせ、症状なのですから。
 疾患としての鬱状態が改善すると、「なんであんなことを悩んでいたのだろう?」と思える日が来ます。

 現時点での貴殿にとっては、この問題が重要であろうことは痛いほど理解できます。ですが、「もしや病気の症状では?」と疑うのも、論理的筋道の一つですよ。
 
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/12/26 09:36

だれにでもあるのは「現実からの逃避の欲求」でしょう。


それに「自己破壊の欲求」がプラスされると、自殺になると思います。
自殺は究極の逃避ですが、自己保存の本能と相容れません。
この矛盾を「自己破壊の欲求」が解決するわけです。
あと「自己破壊」は究極の「自己憐憫」と思うのですが、いかがなものでしょう?
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/12/26 09:36

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