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 私は中国人で日本語を勉強しています。古典文法についての本を読んでいますが、理解できない例文があるので、質問させてください。

 「がくや姫と申す人ぞおはすらむ。」と言ふ。(『竹取物語』)(「がくや姫と申し上げる人がいらっしゃるのだろう。」と言う。)

 『竹取物語』を読んだことがないので、上記の例文の敬語の使い方が分からなくて困っています。なぜ謙譲語である「申す」と尊敬語である「おはす」は同時に使えるのでしょうか。話し手と、聞き手と、がくや姫との三人の上下関係を説明していただけないでしょうか。

 よろしければ質問文の不自然な部分の添削もお願い致します。

A 回答 (11件中1~10件)

日本語教師です。

質問文が正確な日本語であることや古文にも関心を持っていることから、あなたが相当優秀な学習者であることがうかがえます。
ただ「がくや姫」ではなくて、「かぐや姫」です。「輝く」と関係がある名前だと言われています。
この部分を調べてみると、月からの使いが翁にかぐや姫の隠し場所を尋ねる場面でした。月からの使者にかぐや姫を渡すまいとして、翁は使者の問いにとぼけて、「(あなたは)短期間とおっしゃいましたが、私はかぐや姫を20年以上育てています。よそにも同じ名前のかぐや姫という人がいらっしゃるんじゃないですか?」と答えた場面です。本文の使い方からみると、
かぐや>翁
使者>翁
という上下関係です。
(翁答へて申す、「かぐや姫を養ひたてまつること廿余年に成りぬ。かた時とのたまふにあやしくなり侍りぬ。また、異所に、かぐや姫と申す人ぞおはすらむ」と言ふ。)
この場面で話している相手が月からの使者という目上の人なので、「申す」という謙譲語を使っているんだと思います。3の方と同意見です。
謙譲語には2種類あって、
A対者尊敬(「お伝えする・参る」のように相手へ向かう行為)
B丁重語(「寒くなって参りました」のように自分がへりくだるだけの表現)
ここはBの謙譲語だと思います。Aは相手への尊敬と自分のへりくだりを表現しますが、Bは相手に関係ない動詞(ここでは「言う」)で使い、へりくだりのみを表します。Bと丁寧語の違いは、自分がへりくだっているかどうかで、ほとんど同じです。
ご指摘の通り、現代語なら「という人」または「とおっしゃる人」が適当ですね。
「竹取」は大人が読んでも面白いので、挑戦してみて下さい。

この回答への補足

先生、自分の書いたお礼を読み返したらおかしい文があったので、訂正いたします。

>『竹取物語』の大体の粗筋が知っていますが、
『竹取物語』の粗筋は大体知っていますが、

>ご回答参考させていただきます。
ご回答を参考させていただきます。

失礼致しました。

補足日時:2006/01/08 21:47
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この回答へのお礼

 ここで日本語の先生にお目にかかれて大変嬉しいです。私の日本語はまだまだ下手です。励ましていただきありがとうございます。『竹取物語』の大体の粗筋が知っていますが、まだ読んだことがありません。ぜひ読んでみたいです。
 ご回答参考させていただきます。謙譲語には2種類あるのですね。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/01/08 21:39

I:敬意のモト


敬語が地の文⇒作者からの敬意
敬語が会話分内⇒発言者からの敬意

II:敬意のサキ
尊敬語⇒動作主への敬意
謙譲語⇒動作の受け手への敬意
丁寧語(地の文)⇒読者への敬意
丁寧語(会話文)⇒聞き手への敬意

と、なるんですね。
したがって、

No.5さんの回答から文脈をとると、

A:申す(謙譲語)
翁から異所のかぐや姫への敬意

A':申す(丁寧語)
翁から王への敬意

B:おはす(尊敬語)
翁から異所のかぐや姫への敬意

となりますよね。
ところで、「申す」ですが、Aだと思いますよ。
「他所にもかぐや姫という名前のお人がいらっしゃるのだろうか。」ぐらいの意味ですから、普通に考えると、異所のかぐや姫への敬意であって、王(使者)への敬意ではありませんよね。だから「申す」は謙譲語。


>なぜ謙譲語である「申す」と尊敬語である「おはす」は同時に使えるのでしょうか。

同時に使う必要があるから、使うのだと思います。うまく答えられなくてすみません。

>話し手と、聞き手と、がくや姫との三人の上下関係を説明していただけないでしょうか。

翁と王とかぐや姫の上下関係ですが、それぞれがそれぞれに敬語を使っているようなので、三人と言われると一列に上下は述べられないと思いました。現代語訳をあたってみてください。また今回問われた場面は、あくまで「異所のかぐや姫」への敬意として翁は敬語を用いていると解すのが自然だと私は思いました。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketori.htm

回答としては、
I、IIの法則を覚えておくと便利ですよ、
ってことです。
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この回答へのお礼

 お久しぶりです!お元気ですか。
 簡潔で理解しやすいご回答をありがとうございます。I、IIの法則を覚えておきます。参考ページも大変助かりました。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/01/10 17:19

#7です。

補足、拝読いたしました。

1つ目のご質問ですが、「ABCDすべての上下関係がわからない」ということです。
二重敬語など一部のものを除き、前後の背景や人物の相関関係がわからなければ、敬語だけで上下関係の判断はつきません。私が例として挙げた「『AはBに申し給ひはべる』とCがDに申し給ひはべる」も、「申す」「給ふ」「はべる」という敬語を登場させ、ABCDのすべてに敬意を表す書き方をしましたが、前後のストーリーやABCDの相関関係がわからない以上、敬意を表された4人の誰が一番身分が高くて、その次に誰が身分が高いのかはわからないということなんです。

今回のご質問では、竹取物語の中にある一文のみを取りあげられていますので、前後のストーリーや3者(話し手、聞き手、かぐや姫)の相関関係はわからないことが前提となっています。ですから、ここに出てくる「申す」や「おはす」の敬意の対象が誰かといえば、それぞれ「聞き手」と「かぐや姫」で考えるのが敬語法の原則論から言えば普通ではないかと思います。

なお、前回の私の回答で「上下関係はわからない」と申しあげましたが、竹取物語の作者の言葉の使い方を見れば、「かぐや姫/聞き手>話し手」というのはわかりますね。竹取物語は作り話、つまりフィクションなんです。ですから、文章で描かれる人物からストーリーまでは竹取物語の作者によって手がけられています。話し手には「言ふ」という普通の表現が使われる一方で、かぐや姫と聞き手には「おはす」や「申す」という敬語が使われていることから、作者としては「かぐや姫/聞き手>話し手」という上下関係を意識しながら、竹取物語を書いていることがうかがえます。もし、話し手にも敬意を表すならば、「おほす」とか「のたまふ」など(いずれも「言ふ」の尊敬語)が使われるでしょう。

2つ目のご質問ですが、私の書き方が悪かったようです。
これは便宜的に括弧書きしただけで、もちろん敬語でも何でもありません。無視してください。かえって混乱させてしまい、失礼いたしました。

しかし、私もいろいろな方の考え方を拝読し、なるほどなーと思っています。ですので、杓子定規に考える代物でもなさそうですね。
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この回答へのお礼

 再びありがとうございます。とても理解しやすいです。大変参考になりました。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/01/10 17:00

おろろ? ついに古典文法に突入ですか。

よいことです。

しかしなんだか混乱してるようですね。#6の訂正はなくもがなでしょう。中古語では参るとまかるってペアが厳然としてあるはずですが。

私がむかし教わったところでは謙譲語というのは誰かを低めることで別の誰かを持ち上げる、ということでした。当然ながらどこにも遠慮なく自在におとしめることができるのは古今を問わず自分に決まってます。がしかし。

古語では他人を低めてまでも、もう一人を持ち上げるけれども、下つ世となってはそれは僭越と思われるらしく、そういう語法はおおむね消えた、と習いました。

問題の「申す」はただ漠然と、テキトーに誰かを、すなわち自身その他を低めることでカグヤヒメを相対的に高い位置に置くということを意図しているだけのことじゃないでしょうか。

尊敬語は誰かを高いところに置くわけですよね。謙譲語は誰かを低いところに降ろすことによってそれと同じ視点から誰かを見上げるわけですよね。

さてここで全然べつのことを言います。私が青年時に文章を綴ることを始めたとき、最も戸惑ったのは「いう」という動詞の頻出でした。とにかくもうこれがやたら出てくる。それが仕方のないことと諦めるまでしばらく掛かりました。

いまさら言うまでもなく「申す」は「言う」の謙譲語とされています。丁寧語と見る向きもある。そりゃそうでしょう、だってもうこれだけ多用されれば(電話のモシモシだってこれだもの)、また補助動詞にまでなってりゃ(ぜんぜん申し上げてないのに申し上げまくるわけで)、こりゃもうカッチリした規則に従うはずがないですよ。

もうひとつ別の話。ナントカという人、と言うときの「いう人」ですけど、誰が「いう」んでしょうね? 本人が名乗るということもあろうけれど、他人が素直にそう呼ぶとは限らないのが呼称の不思議で。

つまり、ナントカという人、というとき、本人が左様「おほせある」のか他人が「お呼び申し上げる」のか、これはどっちとも決められるものではない、ということです。

とりあえずへりくだっておけば、カグヤヒメであれ聞き手であれ誰であれ、敬意が向かうであろう、という使い方じゃなかいか、と私は解釈します。

「私はナントカと申します」は自分以外に落っことすものがないので自分を高めることにならないのは当然でしょう。謙譲語は何かを落とすことにより別の何かを相対的に高める、となぜ考えないのかが分からない。


質問文の添削をします。

>『竹取物語』を読んだことがないので、上記の例文の敬語の使い方が分からなくて困っています。

「『竹取物語』は未読で前後を知らぬせいもあってか上記の敬語の使い方が皆目わからず困っています。」
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この回答へのお礼

 お元気でいらっしゃいますか。
 最近、古典文法に少しチャレンジをしています。本当に難しいです。一つの助動詞にはなんと「意味」、「活用」、「接続」がそれぞれあったり、頭が痛いです(涙)。
 ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。謙譲語は誰かを低いところに降ろすことによってそれと同じ視点から誰かを見上げるわけなんですね。ナントカという人の「いう」の分析も難しいようで、とりあえずへりくだって敬意が向かう使い方だと覚えておきます。質問文への添削にも感謝いたします。すばらしい例文です。繰り返して読みます。
 いろいろ本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/01/10 16:09

5です。


日本語の敬語は難しいと言われます。私もそう思います。その理由は
正しさの基準が人によってかなり違うからです。
「どなたでもご利用になれます」はほとんどの人が正しい敬語だと
言いますが、「どなたでもご削除になれます」は不自然だという人が
多いのではないでしょうか。
ですから、私は敬語を教えるとき、しっかりとした基準に従うことにしています。私の敬語に対する考え方は敬語史の研究者である菊地康人氏
の考え方に拠っています。
尊敬語・謙譲語・丁寧語の3分類にはいろいろ問題があるようです。
謙譲語と丁寧語を截然と分けることは難しく、謙譲語の中には丁寧語と
ほとんど同じ表現価値を持つ謙譲語があるからです。それが先に挙げた
謙譲語のBです。
「お~する」「いただく」「拝見する」といった普通の謙譲語は、動詞
の補語「~を」「~に」の「~」の部分が尊敬すべき人や尊敬すべきも
のでなければなりません。
×娘に10万円をお借りしました。
×弟に手紙をいただきました。
×アメリカに行って、自由の女神を拝見しました。
これは補語が尊敬の対象ではないので、話している相手が友達でも、
天皇でも誤った敬語の使い方です。
一方Bの謙譲語はそのような補語の制限がありません。
たとえば「いたす」「参る」「~ておる」は
・自分の病気の治療に専念いたします。
・正月に実家に参りましたところ、みんな風邪をひいておりました。
のように尊敬すべき対象がなくても使えます。ただし、今、これを話
している相手は目上の人かソトの人です。

「かぐや姫と申す人ぞおはすらむ。」
この「申す」の敬意の対象は「かぐや姫」ではありません。今、話し
ている相手である使者です。ここで「申す」はほとんど丁寧語と同じ
表現価値になります。ただ丁寧語よりも自分を低くしているんだと思
います。一方「おはす」の敬意の対象は「かぐや姫」です。
・かぐや姫と申す人ぞおはすらむ。
       ↓   ↓
敬意:    使者  かぐや姫

お持ちの教科書の、「話し手や書き手が、話題の中の動作対象(=動
作の及ぶ対象)を高める言い方である。」という説明は意味が分から
ず、納得できません。この文は会話文なので、話しているのは「翁」
であり、「言う」対象は「かぐや姫」ですが、「かぐや姫と申す」が
かぐや姫を高めているとは思えません。それなら自己紹介のときの、
「私は○○と申します」は自分自身を高めているということになり
ますから。

個人的なアドバイスですが、古典を読むには文法はあまり役に立たな
いと思います。古典文法自体に矛盾や未完成な点が多すぎるからです。
文法はほどほどにして、歴史小説(現代語)でも読んで、時代背景を
理解した方が上達すると思います。
それから「~を参考する」は使いません。「~を参考にする」です。

この回答への補足

 申し訳ありません。訂正いたします。

>日本の文学、文化に興味も持っており、その源を正すと視野を広げられまると思ってチャレンジしてみたのです。
日本の文学、文化に興味も持っており、その源を正すと視野も広げられると、チャレンジをしてみたのです。

補足日時:2006/01/09 14:09
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この回答へのお礼

 先生、たびたびありがとうございます。やはり使者なのですね。論理立てて説明してくださりとても参考になりました。また、「~を参考する」のような間違いをしないように心がけます。
 菊地康人氏は有名な方でしょうか。どこかでこの氏名を見たことがあるような気がします。気になっていてやっと分かりました。先週敬語についての本を一冊買いました。中国語版なのですが、著者はまさに菊地康人氏です。しっかりと読んでみようと思います。
 古典文法についてのアドバイスをありがとうございます。近代作家の本を読む時に、よく古典文法の文に遭います。古典文法も少し分かればとその時にとても後悔していました。日本の文学、文化に興味も持っており、その源を正すと視野を広げられまると思ってチャレンジしてみたのです。いろいろ本当にありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。

お礼日時:2006/01/09 13:56

いろいろな種類の敬語が一つの文で登場することは、文語文(とくに王朝文学)でよくあります。

ご質問の一文にあるような敬語の使い方だけでは登場人物の上下関係はわかりかねますが、登場人物の上下関係を知る上では、たしかに敬語の理解が大いに役立ちます。

いきなりですが、ちょっと前置きさせてください。古典文法に登場する敬語の種類とその使い方を確認します。

尊敬語は、動作をする人(A)に対して作者や話者(X)が敬意を表すときに使います。
謙譲語は、動作を受ける人(B)に対してXが敬意を表すときに使います。
丁寧語は、聞いたり読んだりしている人(Y)に対してXが敬意を表すときに使います。

これらの知識をもとに、「AはBに言ふ」という文を使って説明します。
Aは「言ふ」という動作をする人として、Bはその動作を受ける人としてそれぞれ使っていきます。

XがAに対して敬意を表す文にするには、「言ふ」という言葉を尊敬語に改めます。それはAが「言ふ」という動作をする人だからです。「言ふ」の尊敬語の一つに「のたまふ」があります。

AはBにのたまふ(AはBにおっしゃる)
こうすれば、XはAに対して敬意を表したことになります。

XがBに対して敬意を表す文にするには、「言ふ」という言葉を謙譲語に改めます。それはBが「言ふ」というAの動作を受ける人だからです。「言ふ」の謙譲語の一つに「申す」があります。

AはBに申す(AはBに申しあげる)
こうすれば、XはBに対して敬意を表したことになります。

「AはBに言ふ」という文をYに対して敬意を表す文にするには、「言ふ」という言葉を丁寧語に改めます。ただし、「のたまふ」や「申す」のように独立した丁寧語が存在しないため、「言ひはべる(言ひ+はべる)」のように「はべる」という別の意味の丁寧語を補助的に使って丁寧語をつくるようにします。

AはBに言ひはべる(AはBに言います)
こうすれば、Xは「AはBに言ふ」という文をYに対して敬意を表したことになります。

Xが、AにもBにもYにも敬意を表したい場合には、敬語のルールで「謙譲語→尊敬語→丁寧語」という順に並べなければなりません。そこで、「AはBに申しのたまひはべる」としたいところですが、「申し+のたまひ」と同じ意味を並べる必要がないため、謙譲語はそのまま残し、尊敬語と丁寧語については補助的に「給(たま)ひ」とか「はべる(この「はべる」は補助的な意味)」を下につければいいのです。

AはBに申し給ひはべる(AはBに申しあげられます)
こうすれば、XはAやBやYに対して敬意を表したことになります。

例えば、「『AはBに申し給ひはべる』とCがDに申し給ひはべる」という文があるとします。またこれは、XがYにあてたものとします。『AはBに申し給ひはべる』の話者であるCは、AにもBにもまたDにもそれぞれ「申し」「給ひ」「はべる」という敬語を使って同時に敬意を表しています。また、「CがDに申し給ひはべる」の作者であるXは、CにもDにもまたYにもそれぞれ「申し」、「給ひ」、「はべる」という敬語を使って同時に敬意を表しています。ここでわかることは、話者・作者のCとXがそれぞれの相手に対して“同等に”敬意を表しているので、これらの敬語だけでは上下関係はわかりません。

そこで、ご質問の一文についてですが、話者が「申す(人)」という謙譲語を使って聞き手に対して敬意を表しており、同時に「おはす」という尊敬語を使ってかぐや姫に対しても敬意を表しているのです。敬意を表したい相手が複数いれば、それだけいろいろな種類の敬語が同時に使われることになります。ただ、今回の一文にあるような敬語の使われ方では、3人の上下関係はわかりかねます。

それにしても、中国の方が文語文法の、それもなかなか理解が難しいといわれる敬語を勉強されているというのには感服します。学生の頃、李白や杜甫などの古代の詩人が好きで漢詩にはまり、それがきっかけで中文を勉強し始めた経緯があります。中国で、日本への渡航歴がまったくない若い人たちが日本人のように日本語を巧みに話しているのを聞きますが、勉学に熱心な方にお目にかかると、こちらも頑張らねばという気持ちになります。

ここで述べたことは、私の覚えている文語の知識をそのまま並べたものです。前置きした説明が全体を難しくしてしまったかもしれませんが、不可解なところがありましたら遠慮なく補足してください。

この回答への補足

 #7さんの回答欄をお借りしてここまでの自分なりの理解を書かせていただきます。間違えましたら、ご指摘ください。また皆様からご助言をいただければ嬉しいです。

 手元の教科書は謙譲語についてこのように記述しています。「話し手や書き手が、話題の中の動作対象(=動作の及ぶ対象)を高める言い方である。」です。皆様のご回答を拝見して気づいたことなのですが、「申す」はだれに敬意を表すのか、二つの意見が分かれているようです。私は今このように皆様の考え方を理解しています。「他人がかぐや姫を言うので、つまりかぐや姫は他人に言われて他人の言うという動作の及ぶ対象になり(ということで、かぐや姫に敬意を表す)」(#1さん、#4さん)と「月からの使いに対して言うので、月からの使いが言うという動作の及ぶ対象(ということで、月からの使いに敬意を表す)」(#2さん、#3さん、#5さん、#7さん)。この二つの考え方は全部いけそうですが、一瞬、頭脳回路が短絡しました。もう少しアドバイスをいただければ助かります。よろしくお願い致します。

補足日時:2006/01/09 00:53
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。中国語を勉強するきっかけは漢詩なんですね。とても嬉しいです。ぜひし続けてください。

 ご回答はとても詳しいです!前置きの文章はとても理解しやすいと思います。よく理解できました。前置きについて一箇所だけお聞かせください。

>ここでわかることは、話者・作者のCとXがそれぞれの相手に対して“同等に”敬意を表しているので、これらの敬語だけでは上下関係はわかりません。

 全部でA、B、C、D、X、Yと六人もいるのですが、「これらの敬語だけでは上下関係はわかりません」とはだれとだれとの上下関係は分からないのでしょうか。

 それから、私の例文についてのご回答なのですが、

>話者が「申す(人)」という謙譲語を使って聞き手に対して敬意を表しており、

 なぜ「申す」の後ろの括弧に「人」を入れたでしょうか。「人」も謙譲語に属すると言えるでしょうか。つまり、「申す(者)」、「申す(人)」のような形は謙譲語で、「のたまふ(方)」のような形は尊敬語だと普通判断できるでしょうか。

お礼日時:2006/01/09 00:36

5です。


すみません。間違えました。Aの相手に対する謙譲語の例として「参る」を挙げてしまいましたが、「参る」は「東京へ参ります」などのように、相手に関係なく使えるBの謙譲語でした。Aだったら「うかがう」ですね。
×東京へ伺います。
○先生のお宅へ伺います。

この回答への補足

 追加質問になりまして、申し訳ありません。
 教科書はこの例文を謙譲語の使い方の一例文として出しているのです。謙譲語の項目で、「話し手や書き手が、話題の中の動作対象(=動作の及ぶ対象)を高める言い方である。」という説明の次にこの例文が載っています。「申す」の下に線も引かれています。『話題の中の動作対象(=動作の及ぶ対象)』にあたるのはかぐや姫なのか、それとも月からの使いなのでしょうか。「かぐや姫のことを言うので、かぐや姫が動作の及ぶ対象」と「月からの使いに言うので、月からの使いが動作の及ぶ対象」とのように二種の認識があるわけでしょうか。

補足日時:2006/01/08 22:07
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>なぜ謙譲語である「申す」と尊敬語である「おはす」は同時に使えるのでしょうか


一つの文中に謙譲語と尊敬語があるのですが、これが疑問なのですよね?

問題の文は、『かぐや姫と申す』と『人おはすらむ』と分けて考えます。まず『人おはすらむ』はご指摘のとおり、意味は
人がいらっしゃるのだろう。
であります。この「おはす」は、話し手が「人」を尊敬している語です。
ではその「人」とはどのような「人」なのかを、前の部分『かぐや姫と申す』が説明しています。
『かぐや姫と申す』は「かぐや姫と申し上げる」の意で、『申す』は「かぐや姫」と呼ぶ者(話し手を含む一般の人々)を低めて「かぐや姫」を高める謙譲語です。
ですから、ここでは
「申す」は「かぐや姫」に対する敬意であり、
「おはす」は「人」に対する敬意なのです。

この回答への補足

 ほかの回答者さんのご回答を拝見して思いついたことがありまして、再びお聞かせください。
 教科書はこの例文を謙譲語の使い方の一例文として出しているのです。謙譲語の項目で、「話し手や書き手が、話題の中の動作対象(=動作の及ぶ対象)を高める言い方である。」という説明の次にこの例文が載っています。「申す」の下に線も引かれています。『話題の中の動作対象(=動作の及ぶ対象)』にあたるのはかぐや姫なのか、それとも聞き手(月からの使い)なのでしょうか。謙譲語である「申す」はだれに敬意を払うことを知りたいです。「かぐや姫のことを言うので、かぐや姫が動作の及ぶ対象」と「月からの使いに言うので、月からの使いが動作の及ぶ対象」とのように二通りの認識があるわけでしょうか。

補足日時:2006/01/08 22:20
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。「申す」という行為をする人は「話し手を含む一般の人々」だったのですね。とても理解しやすいと思います。納得できました。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/01/08 19:57

竹取の参考資料が手元にないので、以下は個人的見解であることをお断りしておきます。



#2の方も書かれていますが、「申す」は丁寧語として使われることがあります。旺文社の古語辞典にも用例がありました。また、現代語でも使われています。

この丁寧語としての用法は、特に「私はXXと申します」とか「古くから『三十にして立つ』などと申します」など、何かを紹介(つまり、「言う」というより「いう」)するときに多く使われるようです。
その観点からいうと、訳文の「申し上げる」は適切ではなく、あくまでも「かぐや姫と申す人」とそのまま訳すべきだと感じました。

「言ふ」の訳は、そのまま「言う」がいいと思われます。「翁は『XXXX』と言いました」の形ですね。
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この回答へのお礼

 いつもお世話になっております。
 教科書はこれを謙譲語の使い方の一例文としてわざと出しているのです。それに、「申す」の下に線も引かれています。不適切な例文でしょうか。参考になりました。「言ふ」は「翁は『XXXX』と言いました」の形だったんですね。勘違いしました。とても感謝します。
 いろいろ本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/01/08 19:46

「言う」の丁寧語。

聞き手を敬っていう。
というのを聞いたことがある
古文じゃなく現代語だったかも
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この回答へのお礼

 教科書はこれを謙譲語の使い方の一例文として出しているのです。謙譲語の項目で、「話し手や書き手が、話題の中の動作対象(=動作の及ぶ対象)を高める言い方である。」という説明の次にこの例文が載っています。「申す」の下に線も引かれています。たぶん謙譲語の典型例じゃないか、と。
 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/01/08 19:34

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